それは今日のように、3月にしては肌寒い朝だった。私は10時からの会合に出るために外出の支度をしていた。ついていたテレビが急に変わり、そこには、地下鉄の入り口に横たえられた人と、ハンカチで顔を抑えてうずくまり嘔吐する人と、叫ぶレポーターと、銀色の救急隊員と、回り続ける赤色灯が映し出されていた。「これは日本か?」
出かけた会合では、本題よりも地下鉄のあの事件の話でもちきりになってしまった。週刊誌で「松本」の事件について読んでいた私は、あれはオウムよ、と話した記憶がある。
1995年はひどい年だった。1月には成人の日を含む連休翌日の明け方に神戸で大震災が起きていた。まだ暗い時間、家でも少なからず揺れを感じ、居間に下りていってテレビをつけた。大きく倒れた高速道路、火の手の上がった街をテレビが映せたのは、もう朝も明けきった頃だった。「これは日本?」
11年がたった。教祖は拘禁による精神障害と伝えられ、教団は名前を変えた。そうして、日本はどう変わったのだろう。すべてが過去になったのだろうか。いろいろな事件が引きもきらず起き、株価が上がり下がり、円が高くなり安くなり、選挙があり政権が変わり。街角でクスリは売られ、こっそりと談合は続き、コンビニは増え、富める者は富み、貧しきものは貪し。
もちろん、被害者にとって、あの事件に続く日としての今日しかありえないのだが。
事件は当事者でない限り、通り過ぎていく。忘れてしまっても、毎日の生活に支障はない。いや、考えぬほうが毎日は過ごしやすいだろう。そのために人には忘却という能力が与えられている。私も、あれほどの事件だったのに、あの寒い朝の冷たい空気を覚えているに過ぎない。何もかも、政治だって経済だって、知らなくとも今日の夕餉は食べられる。そんなこと知って、考えて、なんの役に立つの?疲れるだけジャン。
だが、である。思い出せば記憶は更新されるのだ。上書き保存されるのだ。思い出せばしばらくは覚えていられるのだ。
思い出してみよう。あの後は毎日が大騒ぎだった。なんとかヤーナというような人たちがたくさん出てきて、教団での生活を語った。女性信者はどの人も奇妙に清らかな美しい顔をしていた。富士山の麓。ヘッドギア。パソコンショップ。枯れた樹木。トカレフ。拉致。複雑に曲がったパイプの絡まる教団工場。多くの高学歴信者たち。宗教を持たず、俗事だけに振り回されている自分を振り返ったのも事実だ。
あれは特殊な出来事だった。そう思うのは簡単で気楽だ。終わったことだ。そう思ってしまったほうが気楽だ。しかし、多くの高い偏差値を持つ「日本」の若者があれに傾倒した。メディアがこぞってその正体を探ろうとした。何を目指していたのだろう。それは成就されたのだろうか。彼らが「日本」に立ち向かい実現しようとしたもの、多くの命を犠牲にしても実現しなければならないと考えたものは何だったのか。「日本」の何が彼らにそのような考えを抱かせたのか。本当はそれらは何一つ明らかになっていないのではないのか。
私は、末端のブロガーに過ぎない。わずかな人に読んでもらっているだけのブロガーだ。そんな私が何を言えるのだろうとも思う。誰にこの声が届くのだろうと思う。ただ、松永英明氏は、その才で、あのことを語る義務を少なからず有しているのではないだろうかと思う。
出かけた会合では、本題よりも地下鉄のあの事件の話でもちきりになってしまった。週刊誌で「松本」の事件について読んでいた私は、あれはオウムよ、と話した記憶がある。
1995年はひどい年だった。1月には成人の日を含む連休翌日の明け方に神戸で大震災が起きていた。まだ暗い時間、家でも少なからず揺れを感じ、居間に下りていってテレビをつけた。大きく倒れた高速道路、火の手の上がった街をテレビが映せたのは、もう朝も明けきった頃だった。「これは日本?」
11年がたった。教祖は拘禁による精神障害と伝えられ、教団は名前を変えた。そうして、日本はどう変わったのだろう。すべてが過去になったのだろうか。いろいろな事件が引きもきらず起き、株価が上がり下がり、円が高くなり安くなり、選挙があり政権が変わり。街角でクスリは売られ、こっそりと談合は続き、コンビニは増え、富める者は富み、貧しきものは貪し。
もちろん、被害者にとって、あの事件に続く日としての今日しかありえないのだが。
事件は当事者でない限り、通り過ぎていく。忘れてしまっても、毎日の生活に支障はない。いや、考えぬほうが毎日は過ごしやすいだろう。そのために人には忘却という能力が与えられている。私も、あれほどの事件だったのに、あの寒い朝の冷たい空気を覚えているに過ぎない。何もかも、政治だって経済だって、知らなくとも今日の夕餉は食べられる。そんなこと知って、考えて、なんの役に立つの?疲れるだけジャン。
だが、である。思い出せば記憶は更新されるのだ。上書き保存されるのだ。思い出せばしばらくは覚えていられるのだ。
思い出してみよう。あの後は毎日が大騒ぎだった。なんとかヤーナというような人たちがたくさん出てきて、教団での生活を語った。女性信者はどの人も奇妙に清らかな美しい顔をしていた。富士山の麓。ヘッドギア。パソコンショップ。枯れた樹木。トカレフ。拉致。複雑に曲がったパイプの絡まる教団工場。多くの高学歴信者たち。宗教を持たず、俗事だけに振り回されている自分を振り返ったのも事実だ。
あれは特殊な出来事だった。そう思うのは簡単で気楽だ。終わったことだ。そう思ってしまったほうが気楽だ。しかし、多くの高い偏差値を持つ「日本」の若者があれに傾倒した。メディアがこぞってその正体を探ろうとした。何を目指していたのだろう。それは成就されたのだろうか。彼らが「日本」に立ち向かい実現しようとしたもの、多くの命を犠牲にしても実現しなければならないと考えたものは何だったのか。「日本」の何が彼らにそのような考えを抱かせたのか。本当はそれらは何一つ明らかになっていないのではないのか。
私は、末端のブロガーに過ぎない。わずかな人に読んでもらっているだけのブロガーだ。そんな私が何を言えるのだろうとも思う。誰にこの声が届くのだろうと思う。ただ、松永英明氏は、その才で、あのことを語る義務を少なからず有しているのではないだろうかと思う。