うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

その 望月の頃

2006年03月23日 | お出かけ
古に西行という人がいた。卑しからぬ家に生まれ、北面の武士、家督を継ぐものとしてその将来を嘱望されていた。言い伝えでは、裾に取りすがる家人を足蹴にして出家したとされている。出自も肩書きも経済も家族も捨てて、放浪ともいえる日々を選んだわけである。その点では仏陀の人生をたどっているとも言えよう。今の世でいえば、上場会社のオーナー一族の長男に生まれ、広大な土地と株の相続権を持ち、東大を出てキャリア官僚になり、女優と結婚し、やんごとなき人々とも交流のある人が、出奔してしまったというあたりであろう。
彼が追ったものは、仏陀だったかもしれないし、和歌だったかもしれないし、桜だったかもしれないが、そのどれが彼の心眼に映っていたのかを知るすべはない。

寺社の桜、公園の桜、堤の桜、名木の桜。名を持つ桜。その枝下に人は集い、ざわめきながらつかの間の春の夢のような桜をめでる。

しかし、桜見るなら、山桜。
一人あてもなく分け入って、歩いて、歩いて、登り、一息ついて切り株に腰を下ろし、また登り、湧き水を飲み、じんわりとにじんだ胸元の汗をぬぐい、登る理由も忘れ、ここがどこか、われが誰か、なにを生業としてきたか、どこから来たか、どのようなほめ言葉を得たか、どのような罵倒を受けたか、すべてすべて忘れ去ったその先の、山の奥の林の奥の、深い木立を抜けたところで、誰に知られるでもなく、語られるでもなく咲いている爛漫の桜。うつけのように見上げ、そうして跪いて、贖罪を乞う。

願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

吉野に行きたい。吉野に行きたい。ただ一人、その千本を越え、あの千本を越え、また千本を越え。
それは恋にも巡礼にも似ているなあ。
コメント (17)
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