うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

穢ない絵

2006年07月03日 | ことばを巡る色色
林真理子の「着物をめぐる物語」を読んでいる。私はこの短編集のほとんどを数年前、「藝術新潮」の連載で読んでいる。その時も一つ一つの物語の深い流れに足をとられたような気持ちがした。衣替えの時期のたびに、しばし箪笥から出され、また同じ場所に戻された色とりどりの着物の、樟脳と、古い紙埃と、おしろいと、の匂い。暗い夜に口の端だけで笑われているような、甘く汚らわしい匂い。一つ一つの物語に、しまわれた着物が背負っているにおいが立ち込めている。
過去に読んだ物語を改めて読みたくなり、古本屋で文庫を買い求めた。それは、先週のテレビで甲斐庄楠音を取り上げていたからだ。
甲斐庄楠音は画家である。大正の京都で、胡乱な女を描いた画家だ。岩井志麻子「ぼっけえぎょうてえ」の表紙になっている絵を描いた人だ。私が知っているのは、彼が「穢ない絵」と言われ、それ以降画壇から、消えたことである。先日の番組によると、絵を描いている間も、女装をしてみたりとかなり変わった人のようである。 彼はその後、溝口監督の衣装考証をすることとなり、「着物をめぐる物語」でもその時のことが題材とされている。
甲斐庄の絵は、「怖い」絵だ。好きか嫌いかと問われれば、即座に好きだとはいえない。もちろん家に飾ったりしたら、夜お手洗いに行けない類の絵である。岸田劉生が「デロリの美」といったそうだが、劉生の絵同様、人の奥の「よからぬもの」の絵なのである。
しかし、「人」にとって、「美しい」という価値基準が真っ直ぐなものではないように、きれいはきたなく、きたないはきれいなのかもしれないと思わせる。先日、京都に行った時に、歩きつかれて休むために立ち寄ったのが、瑞泉寺だった。楠音はそこに祀られる処刑された女人をモチーフにして「畜生塚」という絵を描いているということだ。偶然に立ち寄った寺と楠音。甲斐庄の絵は、京都近代美術館に多く収蔵されている。そういえば、6月のはじめ、京都近代美術館に、藤田嗣治を見に行った。なんだか因縁めいたものを感じてしまった。
楠音は、「穢ない絵で綺麗な絵に打ち勝たねばならぬと胸中深く刻み込んだ」自分の「綺麗」と思うものが、人にとって「穢ない」物であったらどうであろうか。しかし、自分はその中でしか生きていけないとわかっていたらどうであろうか。やはり、それは「戦う」以外ないのではないのだろうか。己一人の戦いを続ければ、綺麗に打ち勝つ穢ないものがいつか作れるのではないのか。たとえそれが、数少なくとも、それは、「綺麗」が唯一だと思っているものに、一打を与えることが出来るのではないのか、と私は思う。

それにしても、林真理子という人は、昨今の「タイピングされた小説」が多い中で、数少ない「物語」の書ける人だと思う。少なからぬ男性が彼女の言動、容姿等から誤解している気がしてならない。また、中村うさぎもその私生活のありようから誤解されている人だ。書いたものだけを読めば、彼女たちの視線が、男とは違って、肩書きから離れ、物の真実を見ようとしていることに気づくはずなのに、である。ここらあたりが女流作家の不遇であるかな、と思う。
(「きたない」を変換すると「穢い」と振られますが、あえて「穢ない」と振っています)
コメント (2)
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