「バーバレラのジェーン・フォンダ」先回の記事のシルクスクリーン全体像です。詳しくはRICHARD DUARDO の、「Anatomical Jane(解剖学的ジェーン)」
数年前、内職の受け渡しの帰りの私は、地元のJR 駅ビルを歩いていた。そのラボの1つでアメリカ人画家が、せっせとシルクスクリーンの色打ちをしていた。そのシルクスクリーンは、スモウレスラーがポケモンテイストで描かれたものだったんだけれど、壁にはでかいでかい「ジェーン・フォンダ」が、それこそ、「なんだバカヤロー!」「しけたツラしてんじゃねーよ!」と私を見ていたのだ。
「買う!」と私は思ってしまったんだよね。値段を聞くと、さっき貰ってきたばかりの内職の報酬(まだ手をつけてもいなくて報酬振込みは2ヵ月後なのに、もう貰っちゃった気になってるだけなんだけど)とほぼ同額。しかも、帰りにお役所に行くつもりで持っていた金額とも近い。-きっとこれは運命なのだわ。ジェーンは私が内職持って、いくばくかの現金を持ってここにやってくるのを待っていたのだわ。「これだけ大きいと普通のおうちでは架けられませんよ」というラボのおねーさんの言葉もものともせず、バス代を除いた額までプライスダウンしてもらい、くるくると巻いてもらい、バス代の小銭だけを手に、このでっかい、ほぼ等身大のジェーンを私は家に連れ帰ったのだ。RICHARD DUARDOオジサンは優しい人で、スモウレスラーのシルクスクリーンにサインをしておまけにくれたし、数日後、彼のアメリカの工房から、ジェーンのID(エディションNOと私の名前を入れてくれて)も送られてきた。
さすがの「しけたツラしてんじゃねーよ!」のジェーン。額装を見積もったら、10万してしまう。何とかつてを探して安く額装し、この畳一畳分よりでっかいジェーンは今もうちの客間でガン飛ばしながら掛かっている。
バブルの浮かれた気分の時から、何枚か絵(リトグラフ、シルクスクリーン、油絵、など)を買った。最初に買ったのは、カシニョールだったけど、今はもううちには無い。たいていはブランドバッグ一個くらいの値段だ。わが身を飾るより、「見る」ことを私は選んだということだ。それは、より享楽的で、わがままなことだ。他人が自分を何らかのもの(美しいとか、金持ちとか、センスがいいとか)と思い見てくれることより、私は、「私が見る悦楽」を選んだということだからだ。わたしにとって、「わたし」は、「見られる私」ではなく、「見る私」なのだ。その意味で、私の宇宙は、私の眼から始まっている。私の宇宙は全て「私が見る」ものとして意味づけられ、私は宇宙の中心で、「見る」のだ。それはワガママでステキでしょ?
数年前、内職の受け渡しの帰りの私は、地元のJR 駅ビルを歩いていた。そのラボの1つでアメリカ人画家が、せっせとシルクスクリーンの色打ちをしていた。そのシルクスクリーンは、スモウレスラーがポケモンテイストで描かれたものだったんだけれど、壁にはでかいでかい「ジェーン・フォンダ」が、それこそ、「なんだバカヤロー!」「しけたツラしてんじゃねーよ!」と私を見ていたのだ。
「買う!」と私は思ってしまったんだよね。値段を聞くと、さっき貰ってきたばかりの内職の報酬(まだ手をつけてもいなくて報酬振込みは2ヵ月後なのに、もう貰っちゃった気になってるだけなんだけど)とほぼ同額。しかも、帰りにお役所に行くつもりで持っていた金額とも近い。-きっとこれは運命なのだわ。ジェーンは私が内職持って、いくばくかの現金を持ってここにやってくるのを待っていたのだわ。「これだけ大きいと普通のおうちでは架けられませんよ」というラボのおねーさんの言葉もものともせず、バス代を除いた額までプライスダウンしてもらい、くるくると巻いてもらい、バス代の小銭だけを手に、このでっかい、ほぼ等身大のジェーンを私は家に連れ帰ったのだ。RICHARD DUARDOオジサンは優しい人で、スモウレスラーのシルクスクリーンにサインをしておまけにくれたし、数日後、彼のアメリカの工房から、ジェーンのID(エディションNOと私の名前を入れてくれて)も送られてきた。
さすがの「しけたツラしてんじゃねーよ!」のジェーン。額装を見積もったら、10万してしまう。何とかつてを探して安く額装し、この畳一畳分よりでっかいジェーンは今もうちの客間でガン飛ばしながら掛かっている。
バブルの浮かれた気分の時から、何枚か絵(リトグラフ、シルクスクリーン、油絵、など)を買った。最初に買ったのは、カシニョールだったけど、今はもううちには無い。たいていはブランドバッグ一個くらいの値段だ。わが身を飾るより、「見る」ことを私は選んだということだ。それは、より享楽的で、わがままなことだ。他人が自分を何らかのもの(美しいとか、金持ちとか、センスがいいとか)と思い見てくれることより、私は、「私が見る悦楽」を選んだということだからだ。わたしにとって、「わたし」は、「見られる私」ではなく、「見る私」なのだ。その意味で、私の宇宙は、私の眼から始まっている。私の宇宙は全て「私が見る」ものとして意味づけられ、私は宇宙の中心で、「見る」のだ。それはワガママでステキでしょ?