うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

貴族と五輪

2021年05月24日 | ことばを巡る色色
幸福な日本の私は、オリンピックをスポーツの祭典と思っていた。世界の人が国境を越えてスポーツの下、交流するのだという、幸福なイメージ

昨春、パンデミックの中で、そんな幸せな衣は取り払われた。裸のオリンピックは、IOCが開催する大会に都市が立候補し「やらせていただくもの」であるという姿をあらわにした。都市とそれを抱える国は「開催地」でしかなく、主導権、イニシアティブはあくまでIOCのものだ。だから、「開催地」は本来、開催についての権利をわずかにしか持っていない。いやなら辞退すればいいが、その損失は払ってもらうぞというのがIOCの考えだ。もちろん開催地も、立候補したにはそれにメリットがあると考えたからだ。give-and-take、winwin。そのgiveもtakeもwinも消え去って、残っているのは裸のIOCと日本と新型ウィルス。商売をしようとしていた国際組織委員会も開催国も想定外のことが起こった。どこにも商機のない祭典。
パンデミックの初期から、国際組織委員会の考えは「やらせてやっている」ってものだから、推してはかるべきものだ。だって経済活動なんだから。開催地国民が何と言おうとね。それを忘れてはいけない。
私は幸福な日本の民だから、世界の人がボーダレスにスポーツを競い合うことを歓迎している。オリンピックのチケットも枠いっぱい申し込んだ。我が国での世紀の祭典を楽しみにしていた。チケットは全部落選した。何人かの都心の有名人が当選していると聞いた時、ひょっとして当落に恣意的な選別がなされているのではないかと思った。地方の高収入でない者は当選しないのか?とね。そう思えてしまったことにがっかりした。私にとって我が国の世紀の祭典は幾分色あせたものになった。そうだった。これは日本のものでなく、国際組織委員会と、経済のものであった。幸福な夢は長くは続かない。そして思いもかけぬパンデミックがやってきた。
そもそも、IOCとかFIFAとかの国際組織委員会とは、オリンピックとは、スポーツとは、何か、誰のためのものか。
そこに貴族的な啓蒙思想を私は感じる。「シビリアン」そして大衆の健全な体力向上のために、貴族的な人が「与える」もの。そう考えれば、IOCと開催国の地位関係も、今回の対応も妙に納得できてしまう。欧米の貴族的な諸々。バロンたちの殿様商い。私たちはスポーツの世界でまだまだ、中世、近世の発想とそのシステムの中にいるのかもしれない。バロンは広告代理店と商売をし、私たちはそれに熱狂する幸せな大衆。それを詳らかにしたのは、新型ウィルスの数少ない功かもしれない。私たち自らの意思に反して「啓蒙」されることを拒否する権利を持っているはずだ。「与えられる」ものはいらない、私が選んだものを私は手に入れるべきだ。侮られ、哀れまれ、与えられる大衆というイメージに「否」と言わねばならない。民族、能力、出自に優劣をつけることにも「否」と言わねばならない。
不都合な真実が見え隠れしている今、スポーツを、オリンピックを、与えられるもの、させてもらうもの、教え導かれるものから、私たちのものとせねばならない。

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