南方は「萃点(すいてん)」ということも述べている。
森羅万象は繋がっているのだから、どこから出発しようと真理に到達する。
しかしその到達までの道筋には長短がある。種々の道筋が集まるところが萃点である。
ここから出発するのが真理に到達する近道である、と。
南方は、物の理解の萃点として粘菌を選んだ。
植物のように菌糸を作るのに、動物のように這うからである。
また事理解の萃点として民俗学を選んだ。地理という物世界と心世界の接点だからである。(養老 孟司)
世界のあらゆる知とつながる一点、
「萃点」を中心とする4次元モデル「南方マンダラ」は、
熊楠が生涯をかけて完成させた日本的方法によって世界を認識するためのモデルである。(松岡 正剛)
「南方は真言密教の曼陀羅を考えていますから、まん中には大日如来がいるわけです。
そして今度は因果というものを、偶然性と必然性と両方あるということをこのメチャクチャな図にしたんです。
これをもって自分の学問の方法論とする。
曼陀羅の手法をもって研究をすると研究がすすむということを言ったんです。」(鶴見 和子)
「南方の場合には、移動するのよ。
『萃点移動』と私はいうんだけれどね。萃点はいつでも一つではないのよ」。
「萃点は移動してもいいというゆとりが彼の中にあるということ。
固定しなければならないという考えではないということよ。……私はそれを彼に教えたのは粘菌だと思うの。
だから粘菌というのはすごく大事だと思う。彼の人文科学に対する見方にとって。
粘菌というのは、アリストテレス論理学で分類できない」(鶴見 和子)
「基礎研究は、その人個人個人の『情熱』に依存している」
或教授の退職の辞( 西田幾多郎 )
「基礎研究は
結局その人個人個人の『情熱』に依存している」と言うことを検討します
なぜ情熱が必要になるのかと言うことを考えると、
「ハンモン → 煩悶(苦しくなるほど思い悩むこと)」と言うことを思い付きます
研究は研究課題の難しさや競争などの環境を含めた問題を解決していくために
考えつづける必要があります
考えることにより悩みが生まれ、その悩みをさらに深めていく必要があり、
そのために文学や哲学は大変参考(あるいは解決を示してくれること)になると思います
「悩みを深めて行く」ために情熱が必要となるのではないかと思います
私の場合、「或教授の退職の辞( 西田幾多郎 )」が参考例になったように思います
超音波(相互作用)実験 Ultrasonic experiment
(表面弾性波の応用 Surface acoustic wave)
「鶴見和子の創造性に関する講演」資料より
学術講演 「日本人と創造性」 鶴見和子
・・・
創造性に3つのタイプがあるのではないか
1)内発、古代論理優先->「同化型」 例 関口信夫
2)中間型 ->「折衷型」 例 柳田国男
3)概念・形式論理優先->「対立・統合型」例 南方熊楠
・・・
これらの創造性が、水俣病の患者の・・・
未曾有の困難にぶち当たったとき、人間はどのように困難を乗り越えてゆくか
それは、創造的でなければ出来ないことです
困難事態が新しい困難・・・
!!!!このような、創造性の分類は、普通の人の行き方を
!!!!ぶんせきする道具である
もう一つ、創造性の分類は
社会変動の担い手のタイプにつながっていく・・・
コメント
大変難しいのですが、創造性に取り組むものとして
重要な考え方を提出しているとともに
物を作るうえでの
社会における哲学を要求しているように感じます
参考資料
http://www-soc.kwansei.ac.jp/kiyou/53/53-ch1.pdf
補足(わかりやすい説明)
生物学の中村佳子さんは「ヒトも大腸菌も同じ祖先から生まれ、
一つ一つの生きものはアリはアリとして、ヒトはヒトとしてたったひとつのゲノムの可能性を展開し、
常に新しいものを生み出そうとする力を内に持つ『自己創出系』」と言われます。
1分前の私と、今の私では違っているけれど私は私。
同じだけれど変わるということが生きものの本質ですが、新しいものはゼロから生まれるのでなく、
異質と出会い、結びつくことで生まれるそうです。
水俣病と出会い、人間は自然の一部であり、自然破壊とは、外部の自然を壊すだけでなく、
人間自身の内なる自然の破壊でもあると気づかれた、社会学の鶴見和子さんは、
それぞれの地域の持つ伝統を生かし、
異質を加えて暮らしやすい社会を地域住民が創造するという「内発的発展論」を生み出されました。
経済成長を目的とする近代化論に対し、人はそれぞれ持って生まれたものを思いきり発現、
成長する事が目的で、経済成長は条件にすぎないと言われます。
感性論哲学では感性が人の本質であり、理性は、感性から湧き上がったものを形にする手段能力と言い、
仏教では自分の中に全てがあると言われ、
教育―エデュケーションとは内にあるものを引き出すという意味ですが、
まさにいのちは内に持っているもので、生まれ、成長するもの。
不確かな時代ですが、生きものとしての自分に込められた長い時間は確かなもの。
人は、生きものとしての45億年、先祖からの歴史、文化が出来上がるまでの長い積み重ね、
とさまざまな時間を背負って今ここに生きています。“みんな違って、みんないい”、のがいのちの本質。
連綿と続く自分の中に込められた「時間」を大切にしながらただ1回限りの命の花を咲かせませんか。
参考図書 鶴見和子 対話まんだら 藤原書店
『45億年の私の「生命」』生命誌と内的発展論 より
流体の科学〈中〉波動 (単行本)
• 単行本: 227ページ
• 出版社: 日刊工業新聞社 (2002/03)
流体の科学について(中巻へのはしがき)
上巻の上梓以来7年が経過した.
その間に蓄積された資料のうち,流体の波動に関する部分のみをここに収めた.
上巻のはしがきに標榜した精神はここでも変わらない.
つまり「青い星」地球を表徴する2つの流体,水と空気,
について我々が18世紀から持っている手法である古典力学,
19世紀から持っている熱力学だけを頼りに,
それでも21世紀に生きる我々の知的好奇心を刺激するに足ると思われる現象をとり上げた.
大別するとそれは水面波,音波,衝撃波/膨張波となる.
技術の分野では,これらは海岸工学,音響学,航空宇宙工学/機械工学に対応する.
他方水面波のかなりの部分を占めるソリトンは前世紀後半に勃興した数理物理学の分野である.
現象解明にあたって解析的手法を重視し,
上巻で要求された予備知識以上のものを仮定せずに,
式を順次追うだけで理解できるよう,「行間をとばす」ことを極力避けた.
これは本シリーズを貰くもうひとつの姿勢である.
数値流体力学が主流となった時代下で教育された研究者が多数派となった現在,
ブラックボックス化した知識の累積が
想像力/創造力の枯渇を招くという危険を予防しなければならないからである.
感想
想像力/創造力の枯渇は、
情報や知識による「観察する力」にあらわれていると考えます
事実が見えない
事実を追求しない
事実を信じない
事実・・・
この本は、今の現実を心配して書かれていたように思います
私は、「渦巻ポンプ講義 生源寺順(著)養賢堂(1943)」を読んだとき
人に技術を説明するための、誠実な努力を非常に感じました
その理由が、情報を利用して事実を追求していく方法が貫かれていることにあった
と思います
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変わらざるもの・法は変らず
終戦後間もなく、
復員で薬師寺に戻ってきた高田好胤氏は、
世間の窮乏ぶりを憂い、
僧侶が消費階級に止まることを苦しみ、
薬師寺を出ることを決心し、
師匠の橋本凝胤氏に打ち明ける。
好胤は働かなければ食えずに死んでしまうと言い、
凝胤は坊主は余計なことを考えるなと諭す。
それでも食うことを考えなければ死んでしまう
と引き下がらない好胤に、
凝胤は死ねばいいではないかと応酬する。
さらに、
坊主は食うことを考えてはいけないといい、
最後にこう言った。
「そんなら、やはり死んだらいいやないか。
お前がまともなことをやっていて、
世間のやつが食わさなんだら、
食わさんやつに罰(ばち)があたるんや。
死んでもお前に罰あたらん。安心して死ね。」
「仕事を真面目にやって、
それで喰えんかったら喰わんけりゃ良い。
それで死ぬんは天職やないからや」
とは薬師寺の先々代の住持であられた橋本凝胤師の言葉です
先代の住持の高田高胤師がよくお話になっておられました
「鎌倉仏教も、
明治以降の近代仏教学も、
根本的に間違っているのです。
ほんらい日本の仏教は中国からの"翻訳仏教"です。
その漢訳仏教はもう死んでしまっている」
「親鸞聖人の仏教は、いってみればよわい人間のための教えで、
人間を軽く見てる。
人間の本当のよさを開発しないで、
ただ、そのままでよいという、
人間をバカにした考えにたっている。
泥まみれで大衆のなかに入ったとて、
それがどうして仏教といえますか。
釈尊は人間をきれいな世界へみちびこうと考えた。
そのとき、まず自らを清潔にして、
大衆をその清らかさのうちへ入れてゆこうとされた。
日本仏教はしょうじゃない。
自分もドブ泥にしておいて、
泥水のなかにつかり、
大衆をもその泥水のなかに入れこもう、
つれこもうという考えだ。
これは根底から間違ってます。」橋本凝胤
上記が私の指針となっていることです