1972年、中村長芳は福岡野球株式会社を設立。8億5000万円の負債を肩代わりして西日本鉄道から球団を買収した。
福岡野球の負債は10億円をこえ、いよいよ経営の破綻したライオンズは岸派閥の後継者・福田赳夫の仲介により西武グループへ売却されることとなった。
1973年、平和相互銀行が運営するゴルフ場が福岡野球のスポンサーとなり「太平洋クラブライオンズ」が誕生する。
1977年、中村は新規スポンサーとしてクラウンガスライターと契約し球団名を「クラウンライターライオンズ」とあらためる。
さらに中村は起死回生の一手としてこの年、ドラフト会議で江川卓を強行指名。しかしジャイアンツ入りを熱望していた江川はとうぜんライオンズへの入団を拒否した。
福岡野球の負債は10億円をこえ、いよいよ経営の破綻したライオンズは岸派閥の後継者・福田赳夫の仲介により西武グループへ売却されることとなった。
(参考文献:中川右介『プロ野球「経営」全史』)