部隊編成は最大8ユニットまで。第1ターンで使えるユニット数は傀儡政権軍もふくめて42個。そのうち再編成不可(アスタリスクつき)は7ユニット。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/ae/0e8c61a6c163e05773d239c35b896853.jpg?1622853944)
1部隊8ユニットで編成するとして、プレイヤーはゲーム開始時に5部隊分の作戦行動を計画する。
ルールブックのプレイ例ではこの8ユニットで部隊を編成している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/ae/0e8c61a6c163e05773d239c35b896853.jpg?1622853944)
2ステップの3個師団、1ステップの3個師団、2個旅団。戦闘力の合計は14、ステップ数は11。
以下、日本軍(北支那派遣軍)の編成について作戦計画を立案した辻少佐の回想録より。
「再び戦いが、日華両民族の間に展開された。宿命とでもいうべきであろう。 昭和十二年七月七日、盧溝橋の銃声は、柳條溝に数十倍する規模を以て展開し、四億の民と、八千万の民とが、果てしなき戦いの渦中に没入していった。 七月の中旬、突然命令を受領した。
満州の経営に、漸く油が乗りかかった時であり、その花が開いたばかり、前途には嵐も吹こう、 雨も降ろうというのに、未だ少しの実りも見ずに、我が家のような関東軍を去らねばならなかったのである。
H中佐が進級して連隊長に転出した後に、片倉参謀が陸軍省から転出来満したので、対満施策 は略々完全に、彼の独壇場となった観がある。片倉中佐の思想は、石原導師と、 H思想の中間を歩み、経済開発に独特の着想を持っていた。 古海氏一派の官僚、岸信介氏、鮎川義介氏一派の財界人と、名コンビで観念満州を、実業満州へと変貌させていた。その手腕は高く買わるべきであろう。
協和会の指導、建国大学の開設、阿片政策の推進等、何れも心魂を傾倒しただけに、中途にして転出するは、情に於て忍び得ないものがある。併し、大命は謹んで奉ずべく、身を以て殉ぜねばならぬ。受命二十四時間以内に、家族の帰国も勿論顧みず、唯一個の軍用行李を携え、北支の戦場に馳せ参じた。
司令部の陣容は、香月軍司令官(陸大幹事)、橋本参謀長 (参本第一課長)、矢野参謀副長(歩七の先輩) 、下山高級参謀(陸士教官)、堀毛作戦参謀主任等々の顔触れである。過去に於て、十分面識あり、厚誼を受けた先輩ばかりである。
七・七事件から約三週間経過しているが、此の間に、第二十師団(朝鮮)が、次いで第五師師団(広島)が動員派遣せられ、関東軍からも、鈴木重康中将指揮の混成旅団が増加されていた。 」
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