二本足の學者を目指して

賢を見ては齊しからん事を思ふ

【好きな事を好きと云ふ勇氣】

2024-06-17 08:02:07 | 文學、精神、そして魂

【好きな事を好きと云ふ勇氣】

YOASOBIの「群青」に、好きなものを好きと云ふ事は怖い、と云ふ歌詞があるけれども、僕も大學生の頃、演劇が好きだと云へなかつた。まはりから否定されるのが怖くて、歌詞にあるやうに、その道を擇ぶ事が出來なかつた。でも、之はまはりのせゐではなくて、自分で自分を信じて上げられなかつたのだな。

それが最近、良い歳になつて、良い意味でまはりにも自分にも遠慮がなくなり、好きな事を好きと云へる勇氣を得たやうに感じます。

僕は年甲斐もなく、常に樣々な事に興味を持ち續けて、自分を更新し續けたい。

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【#YOASOBI「#群青」】

2024-06-15 12:00:06 | 文學、精神、そして魂

【#YOASOBI「#群青」】

YOASOBIの「群青」をAlexaにかけさせてゐますが、凄く良い歌ですね! 勇氣や希望を貰へます。

人生に於ける道とは、選擇の聯續ではなく、一つしかなく、違ひがあるとすれば、それは色合ひだと小林秀雄は云ひましたが、同曲は好きな事に邁進する事の樂しみと辛さとが描かれつゝも、勇氣や希望を抱く事の正當性を肯定してもゐ、みづからの色を積み上げて、それを得て行く人生が描かれてゐます。

 

 

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【言葉を綴る事は行動である】

2024-06-10 18:47:30 | 文學、精神、そして魂

【言葉を綴る事は行動である】

「男性の本心は、言葉ではなく、行動にあらはれる」と戀愛系のアカウントで説かれてゐるのだけれども、之もどうだらう。文學をやる人間は、男であつても、言葉を綴る事こそが行動だと考へる訣ですよ。まあ、文學をやる男なんてのは一般的ではないのかも知れないが。

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【それから※追記あり】

2024-06-09 09:07:30 | 文學、精神、そして魂

【それから※追記あり】

「それから」とは漱石の小説に於けるタイトルである。僕も今日に於ける高等遊民の一人と云ふか、元高等遊民と云ふべきか、それともその中間か……。それは扨置き――。

五十を手前にして、之からはなるべく、自分のやりたい事をやりたいと思ふ。が、實はその「やりたい事」とやらに就いて、判つてゐるやうで、全く判つてゐないのが本當ではないだらうか。少なくとも僕はさうだ。

生活の手段として、何らかの仕事を得、その仕事を契機に東京へと歸り、その東京でなるべくやりたい事をやる。未だその手段を得る事にも成功してゐない僕だけれども、やりたい事とは何なのか。

東京にて、文學をやり、映畫を觀、芝居を觀、その關聯のイヴェントに參加する。それが僕が思ひ附く、僕がやりたい事だ。さう云ふ事をやるには華やかな東京にゐなければならない。地方の、それも本洲の西端に過ぎない田舎である廣島では叶はない。

それに僕は他の理由でも廣島には嫌氣がさしてゐる。

一方、東京は第二の故郷だと僕はよく云ふけれども、本當の故郷は東京であり、僕が母校だと云へるのは早稻田大學だけである。高校以下の事なんざ、全く今の今迄、忘れてゐたぐらゐだ。

文學、映畫、芝居云々と云ふまへに、僕には東京と云ふ街しかないのだらう。が、その大好きな街にさへ、容易には歸れないのが人生だ。とある白石一文の小説に就いての書評を、とある作家が書いてゐるやうだが、大凡、「人生とは自分のものである筈なのに、自分の思ひどほりにはならない」と記されてゐた。

以下、追記――。

由紀先生が(以下にリンクしてゐる)ブログで仰有られてゐるやうに、ヒロインである三千代の覺悟を極めた姿は美しく誰もが感動します。

一方で代助は、之は今で云ふ高學歴ニートの魁で、何やら理窟を捏ねる事ばかりに終始し、社會的な實行力とでも云ふものが伴はない……。

私に社會的實行力がない事はないと思ひますが、それでも人生に於て停滯を餘儀なくされて了ふ際、私は「それから」の代助を想起して了ひます。

みづからの人生に於て、奮起を促す存在こそが、私達が文學に見出すべきなのでせうが、代助と云ふ主人公は、決してさう云ふヒーローではあり得ず、彼は常に「現代」の男性に於ける弱さを象徴してゐるのでは、と私はけふ思ひました。

私は、偶にさう云ふ弱さに逃げ出したくなるのかも知れません。

 

それから - Wikipedia

それから - Wikipedia

 

 

 

文芸はいかに道徳的であるべきか その6(「それから」とそれから) - 由紀草一の一読三陳

文芸はいかに道徳的であるべきか その6(「それから」とそれから) - 由紀草一の一読三陳

メインテキスト:『漱石全集第六巻』(岩波書店平成6年)森田芳光監督「それから」昭和60年この小説の主人公長井代助は、漱石が創造した中でも、他に類のない、独時の人...

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アランの言葉

2024-05-29 11:28:18 | 文學、精神、そして魂

「苦勞が喜びの質を高める」と云ふアランの言葉を信じて、生きる爲の杖として、進んで行くしかない。「ロープウェイで來た人は登山家と同じ太陽を見る事は出來ない」。

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【#留守晴夫 先生「#この世が舞臺」】

2024-05-19 22:31:03 | 文學、精神、そして魂

【#留守晴夫 先生「#この世が舞臺」】

留守晴夫先生の「この世が舞臺」では古今東西の文學が紹介されてゐます。

その中でも私が最も感動して、涙しさうにさへなつたのが、 #グリルパルツァー「#ウィーンの辻音樂師」を扱つた囘です。純粹で且つ哀しい愛に感動します。

http://haruorusu.web.fc2.com/wien.pdf

 

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【青春に就いて】

2024-05-19 19:35:50 | 文學、精神、そして魂

【青春に就いて】

まあ正字正假名の表記を見て、何か違和感を覺えて了ふのは、極一般的な反應だらう。殊に眞面目な人ほど違和感を覺えるだらう。でも、だからと云つて、表記を略字現代假名遣に變へた處で、世間から受け容れられる訣ではない。今の社會では、一般受けする事に長けた人間を知識人と呼ぶ風潮があるやうだが。

と云つて、私は自分が偉い抔とは思つてゐないし、さう思ひ込める程の若者でもない。小林秀雄は還暦を迎へて、自分の青春はをはつたと宣言したが、私も向上を希ふと云ふ點では、未だに青春ではある。

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【客觀と主觀と】

2024-05-18 15:49:29 | 文學、精神、そして魂

【客觀と主觀と】

「自分は客觀的だ」と宣言出來て了ふその態度こそ、頗る附きのエゴであり、そのエゴには何ら生産性が認められないものも珍しい。

福田恆存さんは、エゴにも生産的なエゴと云ふものがあり、生産的なエゴは自己の向上に寄與すると説かれてゐます。

自分は客觀的だ、自分は事實に基づいて言動してゐる、延いては自分は正しいと云ふ風に、みづからを疑ふ事がない人と云ふのは、いづれ、多くのばあひ、爭ひを招來します。

神ならぬ身である私達は、みづからの主觀から脱する事は出來ないと自覺し、覺悟したはうが、みづからにとつても、他者に對しても、精神的に安定するものと思はれます。

そして、上記した自覺や覺悟を有する事こそが、生産的なエゴを有する事に繋がるのではないかと私は思ひます。

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【「#中原中也記念館」をたづねて】

2024-05-13 12:07:32 | 文學、精神、そして魂

【「#中原中也記念館」をたづねて】

先日、初めて「#中原中也 記念館」をたづねたのだが、館内の展示にも中原中也に就いては「早熟」と云ふ言葉が見受けられた。

その「早熟」と云ふ言葉は、中原中也のみならず、 #小林秀雄、 #富永太郎 らにも當嵌る。

私なんぞは四十代もをはらうと云ふ歳になつて、やうやく、詩に就いて感じ入る事が出來るやうになつたのだが、さう云ふ境域に就いて、上記した詩魂を有した文學者達は、それこそ十代後半には既に至つてゐるのである。

そして、上述した三人は、「早熟」であるがゆゑに、をんなに關しても事件とでも云へるやうな出來事を經驗してゐる。

また、彼らは語學にも長けてをり、無論、日本語にも長けてゐた。青年である時點に於てである。今日の日本人は、その多くが成熟してゐないと云はれる事があるが、慥かに自覺出來るのは、この私は既述のとほり、今の歳にあつて、やうやく、彼らの青年期に追ひ著いたと云ふ事である。

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【人生に就いて】

2024-05-12 18:36:24 | 文學、精神、そして魂

【人生に就いて】

自分を大事にしないものに就いては、自分のはうから捨てゝ了ふに限る。自らの時間は有限だし、運氣の總量なんてものもあるだらう。努力や才能は當然必要だが、この世と云ふのは運も人生を左右する。捨てゝ了つた大きなスペイスに、大きくて新たな自分の爲の運氣を呼び込まう。

最近、矢鱈、自分の力ではどうしようもない事に就いて考へる。若い頃は根據のない自信とでも云ふものがあり、樣々な事に挑戰出來る。地方の無名高校出身の僕が、早大にはひらうと決心したのも、根つこには、根據のない自信とやらが存在してゐた。そして、早大に合格した事ぐらゐが、僕の人生に於ける成功體驗だらうか。

と云つても、之はいはゞ社會的な成功體驗である。精神的な成功體驗であれば、僕には數多ある。讀書をとほして、樣々な先生方に會ふ事が出來たからだ。それが僕の財産であるが、歳を經て、樣々な出會ひを經驗して、人生をそれなりに歩んで來ると、人間の限界とでも云ふものを痛感するやうになる。そして、運氣と云ふものや、延いては祈ると云ふ事に就いて思ひが至る。それは最初は日本的な現世利益を望むものかも知れないが、後にはさう云ふ領域を脱するかも知れない。

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