【それから※追記あり】
「それから」とは漱石の小説に於けるタイトルである。僕も今日に於ける高等遊民の一人と云ふか、元高等遊民と云ふべきか、それともその中間か……。それは扨置き――。
五十を手前にして、之からはなるべく、自分のやりたい事をやりたいと思ふ。が、實はその「やりたい事」とやらに就いて、判つてゐるやうで、全く判つてゐないのが本當ではないだらうか。少なくとも僕はさうだ。
生活の手段として、何らかの仕事を得、その仕事を契機に東京へと歸り、その東京でなるべくやりたい事をやる。未だその手段を得る事にも成功してゐない僕だけれども、やりたい事とは何なのか。
東京にて、文學をやり、映畫を觀、芝居を觀、その關聯のイヴェントに參加する。それが僕が思ひ附く、僕がやりたい事だ。さう云ふ事をやるには華やかな東京にゐなければならない。地方の、それも本洲の西端に過ぎない田舎である廣島では叶はない。
それに僕は他の理由でも廣島には嫌氣がさしてゐる。
一方、東京は第二の故郷だと僕はよく云ふけれども、本當の故郷は東京であり、僕が母校だと云へるのは早稻田大學だけである。高校以下の事なんざ、全く今の今迄、忘れてゐたぐらゐだ。
文學、映畫、芝居云々と云ふまへに、僕には東京と云ふ街しかないのだらう。が、その大好きな街にさへ、容易には歸れないのが人生だ。とある白石一文の小説に就いての書評を、とある作家が書いてゐるやうだが、大凡、「人生とは自分のものである筈なのに、自分の思ひどほりにはならない」と記されてゐた。
以下、追記――。
由紀先生が(以下にリンクしてゐる)ブログで仰有られてゐるやうに、ヒロインである三千代の覺悟を極めた姿は美しく誰もが感動します。
一方で代助は、之は今で云ふ高學歴ニートの魁で、何やら理窟を捏ねる事ばかりに終始し、社會的な實行力とでも云ふものが伴はない……。
私に社會的實行力がない事はないと思ひますが、それでも人生に於て停滯を餘儀なくされて了ふ際、私は「それから」の代助を想起して了ひます。
みづからの人生に於て、奮起を促す存在こそが、私達が文學に見出すべきなのでせうが、代助と云ふ主人公は、決してさう云ふヒーローではあり得ず、彼は常に「現代」の男性に於ける弱さを象徴してゐるのでは、と私はけふ思ひました。
私は、偶にさう云ふ弱さに逃げ出したくなるのかも知れません。
文芸はいかに道徳的であるべきか その6(「それから」とそれから) - 由紀草一の一読三陳
メインテキスト:『漱石全集第六巻』(岩波書店平成6年)森田芳光監督「それから」昭和60年この小説の主人公長井代助は、漱石が創造した中でも、他に類のない、独時の人...
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