【「おむすび」を觀て】
最近、正義だのモラルだのを主張する聯中がSNSを中心に目立つと云ふ印象がある。世間的には「モラル」と云ふのだが、要は道徳である。
で、どんな聯中が道徳を語つてゐるかと云へば、フェミニストや左翼なのである。處で道徳の據り所とは何だらうか。日本國に於ては、それは過去から現在へと繋がる生き方であり、クリスト教では、舊約新約の聖書に求められよう。
然し、日本國のフェミニストや左翼は、過去を否定するし、凡ゆる宗教も認めない。結局、彼等彼女等が云ふ處のモラルとは、自らの正義に過ぎず、もつと云へば、彼等彼女等の好みに過ぎない。
そんな彼等彼女等にとつて、家族を否定する、そして家父長制を否定する「虎に翼」は、非常に心地好い作品だつたやうだ。然し、彼等彼女等が云ふ處の家父長制とやらは、結局、みづからにとつて不都合な諸々に過ぎない。子供を大事にする、家族を愛する、そんな女性にしても、彼等彼女等にとつては、打倒すべき家父長制の構成員としか認識されないやうだ。
成程、正義を主張する作品があつても構はない。が、どんなに高邁な正義とやらでも、正義と云ふ價値觀の性質上、相對的な主張でしかあり得ず、それを絶對視する事があれば、それは制作陣の思ひ上がりである。マスコミの聯中は、兎角、自分達の正義を絶對視して、一般人を啓蒙してやらうと思ひ勝ちである。
ぢやあ、既存の在り方からはみ出して了ふ人に救ひはないのか、家族と云ふ恩惠に預かれない人には救ひはないのか、と疑問に思ふ人もゐよう。正直に云へば、不完全な人間に據るこの世にあつて、救はれない人は存在する。然し、家族の恩惠に預かれない人がゐるからと云つて、家族の在り方自體を、政治的に否定して了ふのは間違ひである。
福田恆存に「一匹と九十九匹と」と云ふ名文がある。今、その文章に就いて、詳述は出來ないが、九十九匹と云ふ多數を救ふ爲に行はれるのが政治であり、一匹を救ふ爲に存在するのが文學や宗教である。
一匹の主張を、政治的に行ひ、家族と云ふ在り方を否定して了ひ、九十九匹の在り方を否定して了ふのは間違ひなのである。政治的な在り方と云ふのは、總てを救ふ事が出來ず、國家として、社會として仕方がないと云ふ事は必ず起こる。その人間的な事實から眼を逸らさない者こそが、眞の強者である。
今囘の朝ドラである「おむすび」では、人間と人間との結び附きや家族が描かれると云ふ。僕は、殊更にそれを正義として主張する必要はないと思ふし、未だ「おむすび」は第三週にはひつた許りだが、さう云ふ氣配は微塵も感じない。たゞ極自然な在り方として、ヒロインを中心とした家族や人間が描かれゝばいゝなと僕は思ふ。