二本足の學者を目指して

賢を見ては齊しからん事を思ふ

平成二十九年一月二十八日(土)「型無し」の日本人

2017-01-28 08:47:35 | 語學
 「型無し」の日本人

 「英語達人塾」(中公新書)に於て著者の齋藤兆史が、批判乃至嗤つてゐる事だが、文法をマスターせずして、「ペラペラ」と英語を喋る癖がついて了ふと、いづれ英語の力は頭打ちになるし、樂しい英會話教室のやうな處で、英語が出來るやうになる訣がない。何でもさうだが、一つのものを極めようと思へば、樂しいと云ふ事は、まづない。アスリートの毎日のトレーニングと同樣、語學のトレーニングも、辛く、苦しく、單調なものだ。

 それなのに、英語が全く出來ない輩は、既存の英語教育を批判して、「文法をやつてゐるから、英語が出來ない」だの、「文法のやうな詰らない勉強は廢(よ)して」「樂しい英語學習をしたい」と云ふ。然し、文法を勉強し、自らの血肉と化すトレーニングを行はない限り、英語を聽く事も、讀む事も、話す事も、書く事も出來ない。たゞ、知つてゐる單語を竝べて、「ペラペラ」と喋る、そして、「意味が相手に傳はればいゝ」と云ふが、それは英語ではない。が、大抵の日本人はそれでいゝと云ふ。さう云ふ誤つた語學に對する認識を、日本人の多くが懷いてゐるからこそ、多くの日本人は、語學が出來ない。

 齋藤も云つてゐる事だが、既存の文法讀解中心の英語教育が駄目だつたのではなくして、文法讀解の教育が、トレーニングに迄、行き屆かなかつたのが問題なのである。が、實は、トレーニングとは、教師が教へるものではなく、生徒なり學生が、自らの意志で、習慣的に行ふべきものである。トレーニング方法は教授出來るが、その實行は、個人の意志に據る。

 昨今の日本人は、「自由」と云ふ言葉を好み、「型破り」が恰好いゝと云ふ。さう云ふ事を世に知らしめてゐる一つが、新聞で、以前、廣島の地方紙の中國新聞も、「型破り」と云ふ事で、廣島東洋カープの二壘手(菊池涼介)を取上げてゐた。が、本來、「型破り」とは、破る爲の型があると云ふ事である。昨今の日本人は、破る爲の型を有しない「型無し」に過ぎない。そして、無論、型があるとしても、矢鱈に型を破つていゝものではない。

 語學に關しても、文法や構文や語法とは、型である。この型を重視し、秩序を實現するのが、言葉である。一體、「秩序抔どうでも良く」「相手に意味が傳はればいゝ」とはどう云ふ事か。成程、秩序を學び、秩序を體現する事は、樂しい事ではない。が、本來、家庭や學校に於ては、秩序を押附けられるものだし、社會にあつては、秩序が求められる。言葉の型を重視しない輩は、「秩序抔どうでも良い」と云つてゐる訣で、兔角、外國語に就いては、さうであると云つてゐる訣だが、それは外國の文化としての秩序を否定してゐる事である。それでゐて、日本人の多くは、「國際的」と云ふ言葉を好むのだから、之はもう出來の惡い漫畫である。
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平成二十九年一月十四日(土)齋藤兆史著「英語達人塾」(中公新書)讀了

2017-01-14 08:43:19 | 語學
 齋藤兆史著「英語達人塾」(中公新書)讀了

 上述の本を、先日、讀了した。

 人間の腦が、百年や二百年そこらで、劇的に進化する訣がない。となれば、英語をマスターするにしても、明治大正昭和に於ける英語の達人達が、達人になる爲、自らに課して來た、型を重視するトレーニングを、吾々が採用するのは、今もなほ、有効な王道なのである。無論、幾分か現代風にアレンジする必要はあるが。――と云ふ事が本書では書かれてゐる訣だが、その型を重視する王道とは、王道であるがゆゑ、これ迄、英語トレーニングを行つて來、それなりの成果を得て來た讀者にとつては、馴染みのもの許りである。本書を讀む意義とは、英語を極める爲、理想を最高に設定する事と、その理想に近附く爲には、長期間(少くとも十年以上)の多大な努力が必要である事を確認する事にある。

 亦、著者は始めに日本語を母語とする日本人に向けて、以下のやうに云つてゐるのが、私には印象的であり、なほ且つ、我が意を得たりと思つた。曰――

 基本は日本語
 いまこれをお讀みの讀者が九分九厘日本語を母語とする日本人であるといふ前提で言へば、我々は常日頃日本語でものを考へながら生活をしてゐる。そして、言語が我々の頭のなかにある漠然とした想念を論理的思考として實體化する道具である以上、日本語を用ゐてゐるときにもつとも深くて繊細な思考活動を行つてゐる。よく「英語でものを考へる」とか「英語腦」とか輕々しく言ふけれども、すべての論理的思考や情感的思念において、母語と同程度に英語を操るなどさう簡單にできるものではない。
 僕自身の經驗から言へば、英米に留學してゐたときの出來事を英語で考へるのはけつして難しくはない。ほとんどが英語の母語環境のなかで發生したものであり、それにまつはる情報がそもそも英語で頭のなかに入力されてゐるからだ。だが、故郷の情景とか、幼少時における祖父母との會話とか、その他自分の一番大切な文化的出自に關はることはあまり英語で考へたことがないし、考へたくもない。それをあへて英語で表現するとしたら、今度は「飜譯」といふ技術を使ふことになる。
 だから、たとへば、自分は英語を話すときにどうしても最初に日本語を思ひ浮かべてしまふといつて學生が相談に來たときなど、それは大いに結構なことだと言つて励ますことにしてゐる。日本語を母語として生活してきた人間がいきなり英語で何かを考へようとしたつて、正しい英語がスラスラと出てくるものではない。
 肝心なのは不斷から日本語でしつかりものを考へる習慣をつけることである。その上で、日本語で考へたことをできるだけ早く英語に變換する訓練をすればいい。母語を大事にしない人間は、外國語の習得など望むべくもない。
 齋藤兆史著「第一章 入塾心得」『英語達人塾』(中公新書)

 ――然し、本書が書かれたのは、一昔以上前であり、そのあひだに英語トレーニングに關するツールに就いては、少からずの變化があつた。より便利なツールや情報源が、求め易く存在するに至つたと云ふ事だが、無論、本書が書かれた段階では、その事に言及のしやうがない。亦、本書の著者は、本人の文系學者としての職業柄、文學に傾倒して了ふ傾向がある。昨今、企業で重視されてゐる所謂ビジネス英語のハウツーなんぞには、著者は關心を全く有してゐない。尤もビジネス英語のハウツーなんぞに終始してゐるやうでは、英語を極める意志すらないと云ふ事になるのであらう。
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平成二十九年一月七日(土)言葉に關する努力論

2017-01-07 08:33:08 | 語學
 言葉に關する努力論

 舊ブログ記事の再掲のみでは詰らないので、新しい事を少し許り書かうと思ふ。とは云へ、現段階、殆ど獨り言のやうな形になつてゐるのだが。

 NHKの朝ドラ「べっぴんさん」のけふの囘では、明美がすみれの姉から英語を習ふ事になつたのだが、すみれの姉が云ふやうに、英語一つ習得しようと思へば、恥をかく事は多々あるし、それは簡單な道のりではない。けれども、何かを手に入れようと思へば、中途半端で終つてはならない。それに明美のばあひ、英語の基礎は出來てゐるやうで、後はビジネスに關する用語を習得すれば良いだけの事だつたのだ。因より、元看護婦としての明美の英語は通じてゐたのである。

 然し、英語が出來るやうになると云ふが、この「出來る」とは、一體、どの程度なのか。TOEICをその基準に設けてゐる企業や團體もあるが、TOEICレヴェルの英語とは、ビジネス英語の入り口くらゐのレヴェルである。

 私のばあひ、英語學習に於て、行詰まりを感ずる事もあるのだが、きのふ、Kindleの御勸めとして表示されたとある書籍の紹介とレヴューを讀んで、非常に興味を懷いた。その本とは、齋藤兆史著「英語達人塾 極めるための獨習法指南」(中公新書)である。けふ邊、書店に出掛けて見ようと思ふ。Kindleなのに、何故、書店と思はれるかも知れないが、英語學習に關する本は、書込や印も附けたいので、購入するばあひ、紙の本を購入したいし、何より、まづは書店にて、本の中身を少し許り讀んで見たい。少しまへ迄はレヴューを參考にAmazonで本を購入してゐたが、最近、矢張り、本を買ふばあひ、實際の店舗で、自らの眼で本を確認してからのはうが良いと思ふやうになつた。

 とまれ、言葉一つ習得しようと思へば、非常な努力を要するし、その努力を一生涯續けねばならないと云ふ事であらう。それは日本語に就いても同樣であり、齋藤も主張してゐる事らしいが、(詳細は省略するが)母語である日本語がちやんと出來ないのに、英語が出來るやうになる筈もないのである。
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