「型無し」の日本人
「英語達人塾」(中公新書)に於て著者の齋藤兆史が、批判乃至嗤つてゐる事だが、文法をマスターせずして、「ペラペラ」と英語を喋る癖がついて了ふと、いづれ英語の力は頭打ちになるし、樂しい英會話教室のやうな處で、英語が出來るやうになる訣がない。何でもさうだが、一つのものを極めようと思へば、樂しいと云ふ事は、まづない。アスリートの毎日のトレーニングと同樣、語學のトレーニングも、辛く、苦しく、單調なものだ。
それなのに、英語が全く出來ない輩は、既存の英語教育を批判して、「文法をやつてゐるから、英語が出來ない」だの、「文法のやうな詰らない勉強は廢(よ)して」「樂しい英語學習をしたい」と云ふ。然し、文法を勉強し、自らの血肉と化すトレーニングを行はない限り、英語を聽く事も、讀む事も、話す事も、書く事も出來ない。たゞ、知つてゐる單語を竝べて、「ペラペラ」と喋る、そして、「意味が相手に傳はればいゝ」と云ふが、それは英語ではない。が、大抵の日本人はそれでいゝと云ふ。さう云ふ誤つた語學に對する認識を、日本人の多くが懷いてゐるからこそ、多くの日本人は、語學が出來ない。
齋藤も云つてゐる事だが、既存の文法讀解中心の英語教育が駄目だつたのではなくして、文法讀解の教育が、トレーニングに迄、行き屆かなかつたのが問題なのである。が、實は、トレーニングとは、教師が教へるものではなく、生徒なり學生が、自らの意志で、習慣的に行ふべきものである。トレーニング方法は教授出來るが、その實行は、個人の意志に據る。
昨今の日本人は、「自由」と云ふ言葉を好み、「型破り」が恰好いゝと云ふ。さう云ふ事を世に知らしめてゐる一つが、新聞で、以前、廣島の地方紙の中國新聞も、「型破り」と云ふ事で、廣島東洋カープの二壘手(菊池涼介)を取上げてゐた。が、本來、「型破り」とは、破る爲の型があると云ふ事である。昨今の日本人は、破る爲の型を有しない「型無し」に過ぎない。そして、無論、型があるとしても、矢鱈に型を破つていゝものではない。
語學に關しても、文法や構文や語法とは、型である。この型を重視し、秩序を實現するのが、言葉である。一體、「秩序抔どうでも良く」「相手に意味が傳はればいゝ」とはどう云ふ事か。成程、秩序を學び、秩序を體現する事は、樂しい事ではない。が、本來、家庭や學校に於ては、秩序を押附けられるものだし、社會にあつては、秩序が求められる。言葉の型を重視しない輩は、「秩序抔どうでも良い」と云つてゐる訣で、兔角、外國語に就いては、さうであると云つてゐる訣だが、それは外國の文化としての秩序を否定してゐる事である。それでゐて、日本人の多くは、「國際的」と云ふ言葉を好むのだから、之はもう出來の惡い漫畫である。
「英語達人塾」(中公新書)に於て著者の齋藤兆史が、批判乃至嗤つてゐる事だが、文法をマスターせずして、「ペラペラ」と英語を喋る癖がついて了ふと、いづれ英語の力は頭打ちになるし、樂しい英會話教室のやうな處で、英語が出來るやうになる訣がない。何でもさうだが、一つのものを極めようと思へば、樂しいと云ふ事は、まづない。アスリートの毎日のトレーニングと同樣、語學のトレーニングも、辛く、苦しく、單調なものだ。
それなのに、英語が全く出來ない輩は、既存の英語教育を批判して、「文法をやつてゐるから、英語が出來ない」だの、「文法のやうな詰らない勉強は廢(よ)して」「樂しい英語學習をしたい」と云ふ。然し、文法を勉強し、自らの血肉と化すトレーニングを行はない限り、英語を聽く事も、讀む事も、話す事も、書く事も出來ない。たゞ、知つてゐる單語を竝べて、「ペラペラ」と喋る、そして、「意味が相手に傳はればいゝ」と云ふが、それは英語ではない。が、大抵の日本人はそれでいゝと云ふ。さう云ふ誤つた語學に對する認識を、日本人の多くが懷いてゐるからこそ、多くの日本人は、語學が出來ない。
齋藤も云つてゐる事だが、既存の文法讀解中心の英語教育が駄目だつたのではなくして、文法讀解の教育が、トレーニングに迄、行き屆かなかつたのが問題なのである。が、實は、トレーニングとは、教師が教へるものではなく、生徒なり學生が、自らの意志で、習慣的に行ふべきものである。トレーニング方法は教授出來るが、その實行は、個人の意志に據る。
昨今の日本人は、「自由」と云ふ言葉を好み、「型破り」が恰好いゝと云ふ。さう云ふ事を世に知らしめてゐる一つが、新聞で、以前、廣島の地方紙の中國新聞も、「型破り」と云ふ事で、廣島東洋カープの二壘手(菊池涼介)を取上げてゐた。が、本來、「型破り」とは、破る爲の型があると云ふ事である。昨今の日本人は、破る爲の型を有しない「型無し」に過ぎない。そして、無論、型があるとしても、矢鱈に型を破つていゝものではない。
語學に關しても、文法や構文や語法とは、型である。この型を重視し、秩序を實現するのが、言葉である。一體、「秩序抔どうでも良く」「相手に意味が傳はればいゝ」とはどう云ふ事か。成程、秩序を學び、秩序を體現する事は、樂しい事ではない。が、本來、家庭や學校に於ては、秩序を押附けられるものだし、社會にあつては、秩序が求められる。言葉の型を重視しない輩は、「秩序抔どうでも良い」と云つてゐる訣で、兔角、外國語に就いては、さうであると云つてゐる訣だが、それは外國の文化としての秩序を否定してゐる事である。それでゐて、日本人の多くは、「國際的」と云ふ言葉を好むのだから、之はもう出來の惡い漫畫である。