僕の友人であり、我が楽団の作詞担当でもある紀勢やう子さん(33)。
紀勢さんの住む茅場町のご近所さんに「綿貫の爺さん」と呼ばれる齢90近くにもなる古老がいる。
綿貫の爺さんは、紀勢さんが通っていた小学校の登校時の交通整理をボランティアで行っていたことから、地元の茅場町キッズの間ではかなりメジャーな存在だ。
なんでも紀勢さんの兄の時分から現在でも続けていることから、実に40年近く、地元キッズを「気をつけてな」の言葉とともに送り出していることになる。
綿貫の爺さんを一言で表すと「産まれた時からお爺さんのような人」。その枯れっぷりのせいで、若い時分の爺さんがイメージできない、そうな。そういえば近頃そんな老人がめっきり減った。
紀勢さん、たまに綿貫の爺さんを見かけても、会釈程度はすることはあるが、特段言葉を交わすことは今ではない。
紀勢さんが最後に綿貫の爺さんと言葉を交わしたのは、中学生の時だった。
社会科の授業で地元の古老に茅場町の今昔と戦争体験を聞く、という催しに綿貫の爺さんが現れた。
最初は、茅場町の下町情緒溢れる牧歌的な昭和初期の様子、戦争の悲惨さ理不尽さを朴訥と語り、オーガナイザーの社会科の小林先生もうんうん頷いていた、が、自分が北支へ出兵し、戦友を失ったという話くらいから、ヒートアップし、神国日本のため、とか、陛下にもらいたもうたこの命、とか、にっくき支那人、八路軍の馬鹿野郎、とか、右寄りな発言が目立ち始め挙句、~旭日高く輝けば~と涙目で軍歌(愛国行進曲)を歌い出す始末。
左:裕仁天皇 中央:セラシエ皇帝 右:香淳皇后
綿貫の爺さんは、なを暴走し、曰く、玉音放送はよく意味が分からず、なんかとてつもなく偉い人による最後の玉砕命令だと勘違いし、弾の入ってない銃剣一つで特攻しようとしたが上官に止められた、そうな。その後、敗残兵として満州に落ち延び、這々の体で日本に帰って来たそうな。
綿貫の爺さん、「そんときオレは満州で志ん生師に会ったんだ…」
んで、落語の話に脱線しそうになった時、流石に先生のストップがかかった。
左:志ん生師
小林先生の唇はカサカサで、手元はわなわな震えていた。
先生は、保護者会で国旗掲揚国歌斉唱に異を唱えるような人物で、この授業も太平洋戦争の悲惨さを伝えるとともにナショナリズムの愚を中学生に伝えるねらいがあったようだが、綿貫の爺さんの想定外の暴走により、先生の思惑が玉と砕けた、と紀勢さんは述懐した。
授業後、紀勢さん、綿貫の爺さんに「今日はありがとう、もっと聞きたかった。」と感謝の言葉をかけたら、綿貫の爺さんは、頬を赤めて「今日は喋りすぎた。面目ない。」と言った。
その赤めた頬は、ひょっとしたらすこぶるシャイな江戸っ子の爺さんだけに、景気付けに酒でも飲んじゃったからだったのかもしれない、と紀勢さんは述懐した。
紀勢さんはその授業で初めて綿貫の爺さんの若かりし頃がちょっとイメージできて嬉しかったそうな。
しかし、それっきり、綿貫の爺さんは、社会科の授業に呼ばれることも無く、朝、交差点で見かけ会釈程度はすることはあれど、紀勢さんと言葉を交わすことも無かった。
そんな綿貫の爺さんだが、紀勢さん一月程前に、実に20年ぶりに言葉を交わしたそうな。
それは、夏の盛り、蝉が威勢よく鳴く朝、いつもより早い出勤、綿貫の爺さんが交差点で小学生の交通整理をしているところを見掛けた時だった。
「おーい、紀勢とこの、ちょっとこっちへ来う」
あらなにかしら、と紀勢さん。
綿貫の爺さん、志ん生師の落語に出てくる長屋の隠居みたいな、抑揚の無いモゴモゴした口調で、
「これから大変な時代になるが、夢も希望も無くても良いが、義理と人情は欠くんでねえぞ。」
続けて綿貫の爺さん、
「これ、返す」
それは、古今亭志ん生師の古い速記本だった。
「お前の大叔父さんのだ。ついぞ渡せなかったが」
紀勢さん「ありがとう」と礼を言い、「気をつけてな」と返され、会社に向かった。
その翌日綿貫の爺さんが死んだことは、つい最近になって分かったという。
紀勢さんやっぱり虫のしらせだったか、と、志ん生師の速記本はとりあえず、紀勢家の神棚……日枝神社のお札の他、破魔矢、般若心経、昭和天皇の写真、千社札、瓢箪、おはぎ、ハッピーターン、おーいお茶、などが供えてある…に奉ったそうな。
ちなみに綿貫の爺さんの命日は8/15の終戦記念日だった。とのこと。
死に際に「オボンニカエル サケタノム」と言い残していったのは、志ん生とお酒好きの綿貫の爺さんらしい、とのこと。
紀勢さんの住む茅場町のご近所さんに「綿貫の爺さん」と呼ばれる齢90近くにもなる古老がいる。
綿貫の爺さんは、紀勢さんが通っていた小学校の登校時の交通整理をボランティアで行っていたことから、地元の茅場町キッズの間ではかなりメジャーな存在だ。
なんでも紀勢さんの兄の時分から現在でも続けていることから、実に40年近く、地元キッズを「気をつけてな」の言葉とともに送り出していることになる。
綿貫の爺さんを一言で表すと「産まれた時からお爺さんのような人」。その枯れっぷりのせいで、若い時分の爺さんがイメージできない、そうな。そういえば近頃そんな老人がめっきり減った。
紀勢さん、たまに綿貫の爺さんを見かけても、会釈程度はすることはあるが、特段言葉を交わすことは今ではない。
紀勢さんが最後に綿貫の爺さんと言葉を交わしたのは、中学生の時だった。
社会科の授業で地元の古老に茅場町の今昔と戦争体験を聞く、という催しに綿貫の爺さんが現れた。
最初は、茅場町の下町情緒溢れる牧歌的な昭和初期の様子、戦争の悲惨さ理不尽さを朴訥と語り、オーガナイザーの社会科の小林先生もうんうん頷いていた、が、自分が北支へ出兵し、戦友を失ったという話くらいから、ヒートアップし、神国日本のため、とか、陛下にもらいたもうたこの命、とか、にっくき支那人、八路軍の馬鹿野郎、とか、右寄りな発言が目立ち始め挙句、~旭日高く輝けば~と涙目で軍歌(愛国行進曲)を歌い出す始末。
左:裕仁天皇 中央:セラシエ皇帝 右:香淳皇后
綿貫の爺さんは、なを暴走し、曰く、玉音放送はよく意味が分からず、なんかとてつもなく偉い人による最後の玉砕命令だと勘違いし、弾の入ってない銃剣一つで特攻しようとしたが上官に止められた、そうな。その後、敗残兵として満州に落ち延び、這々の体で日本に帰って来たそうな。
綿貫の爺さん、「そんときオレは満州で志ん生師に会ったんだ…」
んで、落語の話に脱線しそうになった時、流石に先生のストップがかかった。
左:志ん生師
小林先生の唇はカサカサで、手元はわなわな震えていた。
先生は、保護者会で国旗掲揚国歌斉唱に異を唱えるような人物で、この授業も太平洋戦争の悲惨さを伝えるとともにナショナリズムの愚を中学生に伝えるねらいがあったようだが、綿貫の爺さんの想定外の暴走により、先生の思惑が玉と砕けた、と紀勢さんは述懐した。
授業後、紀勢さん、綿貫の爺さんに「今日はありがとう、もっと聞きたかった。」と感謝の言葉をかけたら、綿貫の爺さんは、頬を赤めて「今日は喋りすぎた。面目ない。」と言った。
その赤めた頬は、ひょっとしたらすこぶるシャイな江戸っ子の爺さんだけに、景気付けに酒でも飲んじゃったからだったのかもしれない、と紀勢さんは述懐した。
紀勢さんはその授業で初めて綿貫の爺さんの若かりし頃がちょっとイメージできて嬉しかったそうな。
しかし、それっきり、綿貫の爺さんは、社会科の授業に呼ばれることも無く、朝、交差点で見かけ会釈程度はすることはあれど、紀勢さんと言葉を交わすことも無かった。
そんな綿貫の爺さんだが、紀勢さん一月程前に、実に20年ぶりに言葉を交わしたそうな。
それは、夏の盛り、蝉が威勢よく鳴く朝、いつもより早い出勤、綿貫の爺さんが交差点で小学生の交通整理をしているところを見掛けた時だった。
「おーい、紀勢とこの、ちょっとこっちへ来う」
あらなにかしら、と紀勢さん。
綿貫の爺さん、志ん生師の落語に出てくる長屋の隠居みたいな、抑揚の無いモゴモゴした口調で、
「これから大変な時代になるが、夢も希望も無くても良いが、義理と人情は欠くんでねえぞ。」
続けて綿貫の爺さん、
「これ、返す」
それは、古今亭志ん生師の古い速記本だった。
「お前の大叔父さんのだ。ついぞ渡せなかったが」
紀勢さん「ありがとう」と礼を言い、「気をつけてな」と返され、会社に向かった。
その翌日綿貫の爺さんが死んだことは、つい最近になって分かったという。
紀勢さんやっぱり虫のしらせだったか、と、志ん生師の速記本はとりあえず、紀勢家の神棚……日枝神社のお札の他、破魔矢、般若心経、昭和天皇の写真、千社札、瓢箪、おはぎ、ハッピーターン、おーいお茶、などが供えてある…に奉ったそうな。
ちなみに綿貫の爺さんの命日は8/15の終戦記念日だった。とのこと。
死に際に「オボンニカエル サケタノム」と言い残していったのは、志ん生とお酒好きの綿貫の爺さんらしい、とのこと。