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井上井月句碑 上伊那郡内(全昌寺 聖徳寺 飯島町文化館 大草城址)😐😐😐井月有縁の地に建つ句碑

2020-10-22 14:00:00 | 文学 美術 音楽
「井上井月(いのうえ せいげつ)」は、1822(文政5)年に「越後長岡藩」で生まれたとされるが、生い立ちや俳人になった経緯は知られていない。
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1858(安政5)年、忽然と「伊那谷」に姿を現したと言われ、いたるところで昼寝もすれば野宿もする浮浪の生活を続けて、酒を好み漂泊を主題に俳句を詠んでいたという俳諧趣味人の家や旧家から、酒食のもてなしを受けて日を暮したが、晩年には乞食の風体極まり、その風体から女性や子どもたちには、「乞食井月」と忌み嫌われていたとも伝えられる。
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「柳の家井月」「北越漁人」などとも号し、近世の俳諧沈滞期「月並俳句の時代」にあって、芭蕉の再評価を目指していたという。同地の趣味人の男性たちの中には、師事する者もいたというが、影響を受けた後の時代の文人に「芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)」(1892/明治25年~1927/昭和2年)「種田山頭火(たねだ さんとうか)」(1882/明治15年~1940/昭和15年)「つげ義春(つげ よしはる)」(1937/昭和12年~ )などの名前もあがる。
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1884(明治17)年、井月の健康不安を心配する「塩原折治(梅関)」の配慮により、「上伊那郡美篶村末広太田窪」(現在の「長野県伊那市」)の「塩原家」厄介人として付籍し、「塩原清助」を名乗った井月だが、1886(明治19)年12月に路傍で行き倒れているところを発見され、塩原家で看病を受けるも、1887(明治20)年2月16日に66歳で没したという。「伊那谷」で句や書の理解者を得て、同地の土になった俳人だ。


 ❖ 「全昌寺」句碑  「医王山 全昌寺(いおうざん ぜんしょうじ)」は、国道153号信号交差点「宮田村役場前」から車約5分の「上伊那郡宮田村大字北割」にある曹洞宗の寺院だ。1449(宝徳元)年、僧「八玄破(はちげんぱ)」により、現在地の西方500m「堂平」に天台宗祈願寺として開基、正保年間(1644~1647)に、現在は中央自動車道になっている地に移転し、1653(承応2)年に「真慶寺」2世僧「閑説」によって再興されて、以来同寺末寺として現在に至っているという。1972(昭和47)年に「中央自動車道」建設によって、現在地に新築移転されている。宮田村指定有形文化財の本尊「薬師如来像」は、鎌倉時代中期の制作と考えらる檜寄木造立像で高さ89.1cmだが、秘仏で60年に1度の御開帳での公開だ。
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現在は住職不在で、無人のお堂脇には、句碑「雁鳴くや町の明かりの小田にきく 井月」(かりなくやまちのあかりのおだにきく)が、1988(昭和63)年に建立されている。「上伊那の地」のいたるところで、昼寝をすれば野宿もする浮浪の生活を続け、旧家や俳諧趣味の家などから酒食のもてなしを受けて日を暮らしたという井月の日記に、「明治17年7月16日全昌寺御開帳の祭礼にやって来」ての顛末が書き留められていることから、「井月百年忌に当りこの有縁の地に碑を建て」たという。

 ❖ 「聖徳寺」句碑  JR飯田線「田切駅」駅前の山号「石上山」院号「太子院」寺号「聖徳寺(しょうとくじ)」は、本尊が「阿弥陀如来」、本山が「知恩院」(京都市)の浄土宗の寺院だ。はじめ、聖徳太子自作という「聖徳太子像」を安置した「太子堂」だったが、寛永年間(1624~1645)に「相誉了頓和尚」が、現在の「飯島町田切北河原」で「太子院聖徳寺」として興したと伝わる。
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1715(正徳5)年「中田切川」の洪水で流失し、1717(享保2)年に現在地に移転再建した。その後、2度の火災で「聖徳太子像」などを焼失したというが、1961(昭和36)年の宗祖750年忌記念事業で、ほぼ現在の寺観になった。「法身(ほっしん)」(真理そのもの)、「報身(ほうじん)」(修行して成仏した姿)、「応身(おうじん)」(人々の前に現れる姿)の「三身(さんじん/さんしん)」(仏の身のあり方をいう)をなぞった三つの石を配した枯山水の庭園を持つ、「伊那七福神福禄寿の寺」だ。
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井月が、寄宿寄食の放浪の中で立ち寄ったという同寺の「鐘楼門」手前左に、「井上井月百回忌記念」として、「霜除る菊や小庭のしき松葉 井月」(しもよけるきくやこにわのしきまつば)の句碑が、1987(昭和62)11月に建立されている。

 ❖ 「飯島町文化館」句碑  井月の日記の1884(明治17)年2月26日に「申刻時分聖徳寺へ寄、茶漬無心。日陰坂寄。六時過七久保新花亭投じ泊、馳走。肴北海の如し。 灰に書く西洋文字や榾明り」の記述がある。「新花」は「松村伝平」の俳号で、井月を手厚くもてなしたというが、井月の満足し悦ぶ様子が思われる。
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ここ「飯島町文化館」敷地内にその句碑「灰に書く西洋文字や榾明り 井月」(すみにかくせいようもじやほたあかり)が、1993(平成5)年3月に建立されている。

 ❖ 「大草城址」句碑  国道153線で、伊那市方面からは信号交差点「坂戸峡」左折、飯田市方面からは信号交差点「中川中学校入口」右折、車約5分の「上伊那郡中川村大草」にある「大草城址」は、南北朝時代「後醍醐天皇(ごだいご てんのう)」(1288/正応元年~1339/延元4年)の第8皇子、南朝方「宗良親王(むねよし しんのう)」(1311/応長元年~1385/元中2年)を迎えて、手厚く守護したという「大河原城」主「香坂高宗(こうさか たかむね)」(生年不詳~1407/応永14年)が、重要拠点として南北朝時代初期に築城したと伝わる城址だ。
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その「大草城」は、1581(天正9)年の織田軍による伊那侵攻後に廃されたというが、現在は地元の熱心な取り組みで、中央アルプスの山なみを背景に、10種以上の桜を眺める景観がつくりあげられている
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ここ「大草城址公園」に、「われらの父祖たちの風雅」を追想し「井月を慕って」、1989(平成元)年に句碑「秋も良面白うなる瓢かな 井月」(あきもややおもしろうなるふくべかな)を建立したという。

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