「尾崎紅葉(おざき こうよう)」(1868/慶応3年~1903/明治36年)門下の「泉鏡花(いずみ きょうか)」(1873/明治6年~1939/昭和14年)は、処女作「冠弥左衛門」(1893/明治26年)を紅葉の幇助で完成、その後「外科室」「夜行巡査」(1895/明治28年)などの所謂「観念小説」で好評を得たが、やがて繊細優美な独自の浪漫的境地を開いて、晩年まで旺盛な執筆を続けた作家だ。
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その独特の文体とともに、少年時代の追懐、母性崇拝、幻想、エロチシズムなどが織り込まれた300編以上の作品で、近代小説史に異彩を放つが、自然主義隆盛期には文壇的に不遇の時期もあったという。師の紅葉を超える人気作家の地位を獲得し、岩波書店「鏡花全集」(1973/昭和48年~1976/昭和51年)は全29巻にもなる。
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代表作には「照葉狂言」(1896/明治29年)「化鳥」(1897/明治30年)「湯島詣」(1899/明治32年)「高野聖」(1900/明治33年)「婦系図」(1907/明治40年)「草迷宮」(1908/明治41年)「歌行燈」(1910/明治43年)「天守物語」(1917/大正6年)「眉かくしの霊」(1924/大正13年)「縷紅新草」(1939/昭和14年)などがあげられる。
❖ 泉鏡花旧居跡 「泉鏡花」が1903(明治36)年3月から暮らしたという借家「泉鏡花旧居跡」が、東京メトロ「有楽町線/南北線/東西線」都営地下鉄「大江戸線」の「飯田橋駅」B3出口から徒歩約1分、JR総武線「飯田橋駅」から徒歩約3分で、「東京理科大学」裏手「新宿区神楽坂2丁目」の「小栗通り」に面して残る。
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「泉鏡花旧居跡」は、1899(明治32)年の「硯友社」新年会で、「神楽坂(かぐらざか)」の芸妓「桃太郎」(本名「伊藤すず」1881/明治14年~1950/昭和25年)と出会い、落籍し同棲を始めたという場所だ。二人の同棲を知った師「尾崎紅葉」の激怒は、「婦系図」の中で「俺を棄てるか、婦を棄てるか」と迫る恩師の言葉となって描かれる。現実に一旦は別離を余儀なくされたが、紅葉が没すると復縁し、1906(明治39)年7月までここで生活したという。
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「伊藤すず」を苦しめたこの顛末は、「婦系図」の名台詞として知られる「お蔦」の「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉。私には死ねとおっしゃってくださいな」を生んだとされている。
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なお、「泉鏡花旧居跡」は、「北原白秋旧居跡」でもある。白秋は鏡花の後、1908(明治41)年10月から翌年10月まで、約一年をここで過ごしたという。
❖ 湯島天満宮 泉鏡花揮毫の筆塚 東京メトロ千代田線「湯島駅」から徒歩約6分の「湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)」は、旧社格が1868(明治18)年に「郷社」から「府社」へ昇格した「江戸/東京」を代表する「天満宮」で、神社本庁「別表神社」だ。
❖ 湯島天満宮 泉鏡花揮毫の筆塚 東京メトロ千代田線「湯島駅」から徒歩約6分の「湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)」は、旧社格が1868(明治18)年に「郷社」から「府社」へ昇格した「江戸/東京」を代表する「天満宮」で、神社本庁「別表神社」だ。
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由緒は、458(雄略天皇2)年 「雄略天皇」の勅命により「天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)」を祀る神社として創建され、1355(正平10)年に「菅原道真(すがわらのみちざね)公」を勧請合祀したという。合格祈願の受験生やその家族の参詣は、年間を通して絶えることないが、「小畑実」の出世曲、1942(昭和17)年の「湯島の白梅」で歌われた境内の梅の花も知られている。
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1899(明治32)年に刊行された「神月梓」と神楽坂の芸者「蝶吉」の恋を、戯曲的構成で描く小説「湯島詣」の作者「泉鏡花」揮毫の「筆塚」が境内に建立されている。