中央自動車道「園原インターチェンジ」(下り線入口と上り線出口のみ)から車約20分、「飯田山本インターチェンジ」から車約40分の「長野県下伊那郡阿智村智里杉ノ木平」で、古代から中世にかけて幹線道路だったという旧「東山道(『とうさんどう』『とうせんどう』など諸説)」最大の難所「御坂峠/神坂峠(みさかとうげ)」の信濃国側登り口を左脇にして、「神坂神社」が鎮まり坐す。
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海の神であり航海の神である三神「住吉三神(すみよしさんし)」と言われる「底筒男命(そこつつのおのみこと)」「中筒男命(なかつつのおのみこと)」「表筒男命(うわつつのおのみこと)」が祭神だが、この山中に祀られた経緯は不詳だという旧社格「無格社」の神社だ。
❖ 園原碑
❖ 園原碑
「神坂神社」境内に、1901(明治34)年8月建立されたという石碑で、題字は江戸時代末期から明治時代の政治家「東久世道禧(ひがしくぜ みちとみ)」(1834/天保4年~1912/明治45年)、本文は明治・大正期の文人画家「富岡鉄斎/百錬(とみおか てっさい/ひゃくれん)」(1837/天保7年~1924/大正13年)の書で、「園原の里」の由来を刻む。
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「園原の里」とは、天台宗開祖「最澄」が布教のため「東山道」を下った時、「御坂峠(神坂峠)」の長く続く杣道に難渋したことから、旅人の救済・宿泊施設「布施屋」(現在は「広拯院月見堂」となっている)を設けた土地で、我国古代史における伝承上の英雄第12代景行天皇の皇子「日本武尊(やまとたけるのみこと)」(「古事記」では「倭建命」)の東征にはじまり、「御坂峠(神坂峠)」越えにおける防人歌や、平安時代前期の歌人で三十六歌仙のひとり「坂上是則(さかのうえ の これのり)」の歌に詠まれ、また「紫式部(むらさきしきぶ)」が「源氏物語」巻二「帚木」の想を得るなど、連綿と続く時間のなかで人びとの哀歓を語る文学に度々かかわってきたという「東山道」沿いの集落だ。
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その「園原碑」碑文を文語文で表すと「みすずかる信濃国伊那郡園原の里は みず垣の久しき昔に開け ちはやふる神代にしては八意思兼神の御子天表春之命天降り着き給ひぬ 阿智神社川合の陵などそのみ跡なる うつし身の人王となりては 景行天皇の皇子倭建命いでまして御坂の神を言向け給ひぬ 御坂の杜あるはその遺蹟になむ かく夙よりの官道なれば おのづから都人の往来も多かりしゆゑに、万葉集にも神の御坂と詠み また園原 伏屋 帚木等もいにしへ人の歌詞にもみえて 国風と共にその聞え世に高く また紫の女は物語の巻の名にさへ負わせたりき かく名所多くある地なるにかつて久しく岐蘇路開けし以後 清内路大平などの枝道も漸漸に多くなりきて ここを往き反る人いと稀稀なれば つひにはかくある名所の消え滅びむことを太く慨み この地の志篤き者ら相議りてその由を碑文にのこし 後の世に伝へあるいは古を好む忠人の導にもとて その梗概をかくの如くになむ」となる。
❖ 神坂神社万葉集歌碑
「神坂神社」境内に、1902(明治35)年建立されたという歌碑で、755(天平勝宝7/皇紀1415)年に防人として徴用された信濃国の若者が「御坂峠(神坂峠)」を越える時に詠んだ4402番の歌(「万葉集」巻二十)が刻まれる。その「防人歌」は、「萬葉集 知波夜布留賀美乃 美佐賀爾怒佐麻都 里伊波負伊能知波 意毛知知我多米 主帳埴科郡神人部子忍男」(「万葉集 ちはやふる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父がため 主帳埴科郡神人部子忍男」「まんえふしふ ちはやふる かみのみさかに ぬさまつり いはふいのちは おもちちがため しゆちやうはにしなこおりかんとべのこおしお」)だ。
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「ちはやふる」は「神の枕詞」、「神の御坂」とは「東山道の難所と言われる神坂峠のこと」で、その登り口に鎮まり坐しているのが御坂神社(神坂神社)だ。また、「幣」は「祈願するため神前に捧げる供え物」で、神坂峠からは幣の原型といわれる石製品が千数百点出土しているという。
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歌意は「神の境域の御坂峠に幣を手向けて、祈る命の無事は、母と父のためです。」だが、徴用され日々の生活から切り裂かれて信濃の国を後にしなければならない若者の愁嘆が、残された両親のため生きて帰りたいと祈る思いへと集成されて、こころに迫り来る歌となっている。
❖ 坂上是則歌碑(帚木)
❖ 坂上是則歌碑(帚木)
三十六歌仙のひとり平安時代前期の歌人で、「小倉百人一首」31番「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」(「古今和歌集」冬 332番)の作者「坂上是則(さかのうえ の これのり)」(生年不詳~930/延長8年)歌碑「その原や伏屋におふるははき木のありとはみえてあはぬ君かな」(「新古今和歌集」巻十一 恋歌一 997番)が、中央自動車道「園原インター(下り線入口と上り線出口のみ)」から車約15分、「飯田山本インター」からは車約35分の「下伊那郡阿智村智里」で、「神坂神社」に向かう途次にある。その歌に詠まれる「ははき木(帚木)」とは、遠方からは箒を立てたようにはっきりと見えるが、近づくと何れが帚木か見分けられなくなってしまう「園原山」に生える伝説の檜の大木だという。
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この帚木に想を得て、紫式部(生没年に定説を得ないが 一説に978/天元元年~1015/長和4年)は、1008年頃(平安時代中期)一部が流布しはじめたとされる「源氏物語」の巻二「帚木」において、17歳の「光源氏」にはかない愛を経験させる。光源氏が、求愛を拒む「空蝉」におくった歌「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな」(歌意「近づけば見えなくなってしまう帚木のようなあなたの心が分からないで、園原の道に迷うようにわけが分からず迷ってしまうことだ。」)は、まさに碑の歌に通じていると言える。なお、「ははき木」は1958(昭和33)年9月の台風で倒木してしまったといい、現在は若い後継木になっている。
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