プロミッソン市。1908年にブラジル移民が始まり、その10年後に「第一上塚植民地」開設。ここに上塚周平氏は眠っており、劇の舞台もここをイメージした。
劇団員の宿泊所としてお世話になった家は上塚周平先生の墓守をしている安永忠邦さん。安永ファミリーと言えばブラジルの日系社会では有名。プロミッソン市でも大きな影響力を持っている。
2月8日(日)
この日の朝は弓場農場とのお別れである。会場担当者のましまんは目に涙を溜めている。感謝の涙。・・・「みんな純粋に演劇をやっておられる。」会場でお世話をしてくれた矢崎さんから頂いた言葉である。
この劇場では火を使わせてもらった。日本では消防法で問題になる為、火の使用は基本的には禁止。
食事や宿泊所も提供して下さり、何から何までお世話になりっぱなしで去ることになる。「又、お会いしましょう。」お互いに握手をして別れる。
何よりも劇で感動してもらえたことが一番である。・・・本当にありがとうございました。大変、お世話になりました。涙の別れです。
貸し切りバスで一路、プロミッソン市へ。アリアンサ市からプロミッソン市は100km離れている。それでも隣だと言う。スケールの大きさを知る。
プロミッソン市では市の主催事業として演劇公演を受け入れてもらった。宿泊所からの移動は市提供の小型貸し切りバスになる。プロミッソン市全面協力である。私たちの知らない間に安永さんたちがフォローして下さった。
昼には安永忠邦さん(お父さん)の家、広いガーデンで歓迎昼食会となる。ここに17人宿泊できるのだから、日本だったら考えられない。個人の家屋である。周辺はコーヒー園。信一兄さんが「皆さん、ピンガ(酒)でもどうぞ。昼からでもどうぞどうぞ。これがブラジルの流儀です。」と配ってくれる。一杯飲んで、くらぁ~と倒れそうになったが、余りの美味さに隠れて三杯飲んだ。考道兄さんが私を見つけて「もう一杯飲めー!」と追いかけて来るが、私は三杯が限界である。走って逃げたらよろけてこけた。・・・毎晩の飲みすぎで目が充血してきた。
酔い覚ましにマンゴーとスイカ、葡萄。フルーツは山盛りだ。
昼食後、上塚街道にある上塚公園に行く。移植を記念して作られた公園。・・・それから、いよいよ上塚周平の眠る墓参りである。
劇団員たちが飛行機の中で織った千羽鶴を捧げる。墓には石造が建っており、それを見つめる上塚周平役の田中幸太が立つ。不思議なものだ。この時から田中幸太が上塚に見えてきたのだ。乗り移ったか。安永ファミリーから彼のことを「先生!」と呼ばれるようになる。そう呼ばれると益々、そのように見えてくるから七不思議である。
夜。ガーデンにて交流会となる。プロミッソン市の文化部長(女性)さん、元市長さんたちが駆けつけてくれる。お世話になっているお礼を述べたかったが、ポルトガル語が喋れないこともあって、近くに座ることに躊躇していた。
2月9日(月)
朝8時半、市長表敬訪問に行く。後から判ったことだが市長はプロミッソン大学の現役教授とのこと。親しみ易い目は劇団員を熊本の大学生が大半だと知っていたからか、教授の顔に見えた。日本の政治家のような匂いを感じられない。
プロミッソン市の環境問題への取り組みを見てもらいたい、とゴミ処理場なども見学する。市長はエタノール工場(砂糖きびで燃料を作るところ)も見学・昼食をとらせたかったらしいが、午後からの劇場仕込みのために断念。
午後2時から6時までプロミッソン市劇場で仕込みに入る。近所の子どもが日本人が何をしに来たのだろうか?と興味をもって見つめていた。この劇場は新しく、演劇公演は初めてだと言う。300席程度の劇場である。
安永ファミリーも「何か仕事はないか。」と買出しに出かけてくれたり、水の世話までしてくれる。
(注)本来、ここまでお世話してくれることが当たり前だと思っては勘違いが起こるのではないかと心配していた。自分たちでやらなかれば劇団として甘えが生じる。それが心配だった。感謝しなければ!感謝してもしきれない程のことなのだ。
夜7時半から9時半までは劇場近くの文協会館にて歓迎レセプションを開いてもらう。只の飲食会だと思って臨んでいたのだが、歓迎市民の盾を頂いたり、様々なプレゼントを頂く。市長や文協会長から9年後はプロミッソン市創立百周年であり、劇団笠戸丸としてご招待したい!と言われる。州知事秘書さんもサンパウロ市から来られていた。ここまで注目されているとは思わなかった。
明日は本番である。
2月10日(火)
本番の日(第二ステージ)である。
朝から夕方までリハーサル2本おこなう。テレビ局からの取材も受ける。「ブラジルに着いてからの第一印象は何でしたか?」と聞かれる。「日本では寒い冬だったのに、ここでは夏なのが信じられない。」とくだらない感想を述べる。脳がレンジで解けてしまって気の利いたことが述べられない。
本番2時間前より客入れとなる。予備席まで作っている。本番前には満席となる。安永ファミリーは受付やお客さん対応に追われる。
弓場での経験からか、出演者たちは心持、余裕が出てきたようにも思えた。が、私(照明係り)と馬場君(音響係り)は焦っていた。客席が階段状になっており、ひとり足元をはずして転倒したお客さんがおられた。注意を促すために二人はお客さんを誘導する。「日本から来られた劇団の方ですか。」と握手を求められたり、「カーニバルまでブラジルにいてくださいよ。」と話しかけられる。気安く、フレンドリーな方ばかりである。
本番が始まると空気が変わった。百年前のことといえ、移民の苦労や上塚周平のことは私たち以上に身近にある方々である。
前列でお父さん(忠邦さん)が見ている。針の筵に立たされている気分。演劇が上手、クオリティーが高い、そんな気持ちで舞台に上がっても通用しない空気なのだ。日本でもそうなのだが、演劇人のための演劇では通用しない空気なのだ。
オープニングと同時に、お客さん自身「この劇に参加している。」ことがわかった。体当たりである。台詞やことばでなく、出演者の顔、表情、音すべてを食い入るように見てくださった。技術では通用しない。既にお客さん内部で「ボクノフルサト。」は個々にあるのである。個人の「フルサト。」を語っているだけでは追いつけない世界がある。百年の重さとはそういうものだ。現地である。
「あっ」という間に100分の劇が終わった。気付けば笑って泣いてくれた。人情芝居のように楽しんでくれた。私たちが追求していた「小劇場」の思いは、見られ方によっては昔懐かしい大衆演劇のようにも感じとられたようだ。
演劇論なんてどうでも良かったのだ。もう、劇が一人歩きしているようで、お客さんの思いが劇の色まで変えてしまうことがある。
この劇で二人の登場人物が自殺とマラリアで死ぬ場面がある。実際、移植当時の日本人たちは大勢、ブラジルで死んでいる。演技者はその悲しみをどう演じきれるかで悩む。いわゆる重い場面である。
最近、よく耳にするが、「どう伝えるか。」演劇をコミュニケーションの道具のように扱っている節がある。ところが、ここで起こった「伝わること」はそんな軽々しいものではなかった。「死」はそれぞれの立会い方や身近な人への無念やセンチメンタルが漂っている。
日常のコミュニケーションとは違う。みんみんが気付いたように「感じ合う場」が劇場でもある。ところが演じ手を上回る感じ方がここにはあった。
私はお父さん(忠邦さん)の顔を伺っていた。
日本からブラジルまで渡って「移民劇」をやる意味が見えたような気がした。演劇はお客さんと共に時間を越える力がある。その場、その時間を共有することのすばらしさを教えてもらったのである。
終演後、ピザ屋に連れて行ってもらう。
プロミッソン市とも明日はお別れでである。安永ファミリー、市役所の人とピンガを飲みながら「プロミッソン百周年には又、劇を持って来てください。」と言われる。もし、死んでいたら散骨させてもらおうと思った。
約束した。
今度、劇で来るとしたらメンバーも変わっていることだろう。今のメンバーだと若い劇団員たちは30代になっている。子どもがいる者もいるだろう。
私と座長、卓さんは60代である。兄さんたちは70代、お父さんは百歳近く。
生きている内に会いたい人たちばかりだ。
劇団員の宿泊所としてお世話になった家は上塚周平先生の墓守をしている安永忠邦さん。安永ファミリーと言えばブラジルの日系社会では有名。プロミッソン市でも大きな影響力を持っている。
2月8日(日)
この日の朝は弓場農場とのお別れである。会場担当者のましまんは目に涙を溜めている。感謝の涙。・・・「みんな純粋に演劇をやっておられる。」会場でお世話をしてくれた矢崎さんから頂いた言葉である。
この劇場では火を使わせてもらった。日本では消防法で問題になる為、火の使用は基本的には禁止。
食事や宿泊所も提供して下さり、何から何までお世話になりっぱなしで去ることになる。「又、お会いしましょう。」お互いに握手をして別れる。
何よりも劇で感動してもらえたことが一番である。・・・本当にありがとうございました。大変、お世話になりました。涙の別れです。
貸し切りバスで一路、プロミッソン市へ。アリアンサ市からプロミッソン市は100km離れている。それでも隣だと言う。スケールの大きさを知る。
プロミッソン市では市の主催事業として演劇公演を受け入れてもらった。宿泊所からの移動は市提供の小型貸し切りバスになる。プロミッソン市全面協力である。私たちの知らない間に安永さんたちがフォローして下さった。
昼には安永忠邦さん(お父さん)の家、広いガーデンで歓迎昼食会となる。ここに17人宿泊できるのだから、日本だったら考えられない。個人の家屋である。周辺はコーヒー園。信一兄さんが「皆さん、ピンガ(酒)でもどうぞ。昼からでもどうぞどうぞ。これがブラジルの流儀です。」と配ってくれる。一杯飲んで、くらぁ~と倒れそうになったが、余りの美味さに隠れて三杯飲んだ。考道兄さんが私を見つけて「もう一杯飲めー!」と追いかけて来るが、私は三杯が限界である。走って逃げたらよろけてこけた。・・・毎晩の飲みすぎで目が充血してきた。
酔い覚ましにマンゴーとスイカ、葡萄。フルーツは山盛りだ。
昼食後、上塚街道にある上塚公園に行く。移植を記念して作られた公園。・・・それから、いよいよ上塚周平の眠る墓参りである。
劇団員たちが飛行機の中で織った千羽鶴を捧げる。墓には石造が建っており、それを見つめる上塚周平役の田中幸太が立つ。不思議なものだ。この時から田中幸太が上塚に見えてきたのだ。乗り移ったか。安永ファミリーから彼のことを「先生!」と呼ばれるようになる。そう呼ばれると益々、そのように見えてくるから七不思議である。
夜。ガーデンにて交流会となる。プロミッソン市の文化部長(女性)さん、元市長さんたちが駆けつけてくれる。お世話になっているお礼を述べたかったが、ポルトガル語が喋れないこともあって、近くに座ることに躊躇していた。
2月9日(月)
朝8時半、市長表敬訪問に行く。後から判ったことだが市長はプロミッソン大学の現役教授とのこと。親しみ易い目は劇団員を熊本の大学生が大半だと知っていたからか、教授の顔に見えた。日本の政治家のような匂いを感じられない。
プロミッソン市の環境問題への取り組みを見てもらいたい、とゴミ処理場なども見学する。市長はエタノール工場(砂糖きびで燃料を作るところ)も見学・昼食をとらせたかったらしいが、午後からの劇場仕込みのために断念。
午後2時から6時までプロミッソン市劇場で仕込みに入る。近所の子どもが日本人が何をしに来たのだろうか?と興味をもって見つめていた。この劇場は新しく、演劇公演は初めてだと言う。300席程度の劇場である。
安永ファミリーも「何か仕事はないか。」と買出しに出かけてくれたり、水の世話までしてくれる。
(注)本来、ここまでお世話してくれることが当たり前だと思っては勘違いが起こるのではないかと心配していた。自分たちでやらなかれば劇団として甘えが生じる。それが心配だった。感謝しなければ!感謝してもしきれない程のことなのだ。
夜7時半から9時半までは劇場近くの文協会館にて歓迎レセプションを開いてもらう。只の飲食会だと思って臨んでいたのだが、歓迎市民の盾を頂いたり、様々なプレゼントを頂く。市長や文協会長から9年後はプロミッソン市創立百周年であり、劇団笠戸丸としてご招待したい!と言われる。州知事秘書さんもサンパウロ市から来られていた。ここまで注目されているとは思わなかった。
明日は本番である。
2月10日(火)
本番の日(第二ステージ)である。
朝から夕方までリハーサル2本おこなう。テレビ局からの取材も受ける。「ブラジルに着いてからの第一印象は何でしたか?」と聞かれる。「日本では寒い冬だったのに、ここでは夏なのが信じられない。」とくだらない感想を述べる。脳がレンジで解けてしまって気の利いたことが述べられない。
本番2時間前より客入れとなる。予備席まで作っている。本番前には満席となる。安永ファミリーは受付やお客さん対応に追われる。
弓場での経験からか、出演者たちは心持、余裕が出てきたようにも思えた。が、私(照明係り)と馬場君(音響係り)は焦っていた。客席が階段状になっており、ひとり足元をはずして転倒したお客さんがおられた。注意を促すために二人はお客さんを誘導する。「日本から来られた劇団の方ですか。」と握手を求められたり、「カーニバルまでブラジルにいてくださいよ。」と話しかけられる。気安く、フレンドリーな方ばかりである。
本番が始まると空気が変わった。百年前のことといえ、移民の苦労や上塚周平のことは私たち以上に身近にある方々である。
前列でお父さん(忠邦さん)が見ている。針の筵に立たされている気分。演劇が上手、クオリティーが高い、そんな気持ちで舞台に上がっても通用しない空気なのだ。日本でもそうなのだが、演劇人のための演劇では通用しない空気なのだ。
オープニングと同時に、お客さん自身「この劇に参加している。」ことがわかった。体当たりである。台詞やことばでなく、出演者の顔、表情、音すべてを食い入るように見てくださった。技術では通用しない。既にお客さん内部で「ボクノフルサト。」は個々にあるのである。個人の「フルサト。」を語っているだけでは追いつけない世界がある。百年の重さとはそういうものだ。現地である。
「あっ」という間に100分の劇が終わった。気付けば笑って泣いてくれた。人情芝居のように楽しんでくれた。私たちが追求していた「小劇場」の思いは、見られ方によっては昔懐かしい大衆演劇のようにも感じとられたようだ。
演劇論なんてどうでも良かったのだ。もう、劇が一人歩きしているようで、お客さんの思いが劇の色まで変えてしまうことがある。
この劇で二人の登場人物が自殺とマラリアで死ぬ場面がある。実際、移植当時の日本人たちは大勢、ブラジルで死んでいる。演技者はその悲しみをどう演じきれるかで悩む。いわゆる重い場面である。
最近、よく耳にするが、「どう伝えるか。」演劇をコミュニケーションの道具のように扱っている節がある。ところが、ここで起こった「伝わること」はそんな軽々しいものではなかった。「死」はそれぞれの立会い方や身近な人への無念やセンチメンタルが漂っている。
日常のコミュニケーションとは違う。みんみんが気付いたように「感じ合う場」が劇場でもある。ところが演じ手を上回る感じ方がここにはあった。
私はお父さん(忠邦さん)の顔を伺っていた。
日本からブラジルまで渡って「移民劇」をやる意味が見えたような気がした。演劇はお客さんと共に時間を越える力がある。その場、その時間を共有することのすばらしさを教えてもらったのである。
終演後、ピザ屋に連れて行ってもらう。
プロミッソン市とも明日はお別れでである。安永ファミリー、市役所の人とピンガを飲みながら「プロミッソン百周年には又、劇を持って来てください。」と言われる。もし、死んでいたら散骨させてもらおうと思った。
約束した。
今度、劇で来るとしたらメンバーも変わっていることだろう。今のメンバーだと若い劇団員たちは30代になっている。子どもがいる者もいるだろう。
私と座長、卓さんは60代である。兄さんたちは70代、お父さんは百歳近く。
生きている内に会いたい人たちばかりだ。
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