山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

皆さま、良いお年を!

2012-12-30 07:21:26 | モノローグ【エトセトラ】
この暮れは大好物の忘年会をいくつかキャンセルすることになった。
お世話になった方々へのお礼ができず、淋しい気持ちもあります。
美味しいことは皆で分け合う!・・・とりわけ、11月の今年最後の公演が終わってからの劇団関係者と会うことが減り、こころの中を隙間風が吹いているような年末だった。

温泉で充電、家族で鍋料理、今日30日は餅つき。
美しい日本を一時的に凌いでいます。
この後、嵐がやって来る。だから、今、充電しているのです。

2013年は過激になります。暴れます。
皆さま、良いお年をお迎え下さい。

帰っておいで!寺山修司

2012-12-29 08:00:29 | モノローグ【エトセトラ】
あれから30年たった。あれからとは寺山修司が世界の涯てへ旅立った時から。
劇団夢桟敷が寺山修司の劇へ挑戦したのは没後20年の時からだった。
それまではオリジナル劇を通していた。犯罪と戦争と革命がテーマだった。
私と座長=夢現が1979年に東京の晴海ふ頭で見た「レミング」によって衝撃を受け、テラヤマ的摩訶不思議なハテナが伝染していたことは拭いきれない。
政治的なメッセージの中にテラヤマの言葉を入れ込むことで深い闇となって突き刺さるように感じていた。眩い闇。影が踊る。

2003年10月 No.38「観客席」於:熊本市子ども文化会館 第1弾。
その5年後
2008年8月 No.49「疫病流行記」於:同仁堂スタジオライフ 第2弾。
そして5年越しの2013年がやって来る。
第3弾を撃つ。

「レミング~世界の涯2013」
■4月27(土)28日(日)■熊本市現代美術館アートロフト

寺山修司が亡くなった1983年5月4日。「百年たったら帰っておいで。」と送り出した。
自らのメッセージでもある「百年の孤独」。
熊本にアングラ劇と言われたものを東京から引っ提げて帰って来たのが没後1年後の1984年だった。



あれから百年も待てやしない。後70年だったら今の劇団メンバー、殆ど死んでいる筈だ。
私130才、座長(夢現)126才、大介124才、犬彦110才!このあたりは確実に亡くなっている。もしや座長は世界の長寿番付No.1となって「ここは何処だ、何処なんだ♪」と町を徘徊しているかも知れない。生きていればバケモノだ。想像すると気絶する。
サキと肥後丸99才、クドシン97才、まなみ95才。きっと死して屍、拾う者なし。無縁仏になっているかも知れない。心配の種だ。後期高齢者として舞台に立っていればアッパレアッパレ、アッパラパッパッパー。
待てよ!今のキッズメンバーたち(小中学生)は77才から85才か。KARENたちは生きているだろう。孫は72才だ。きっと生きている。地球が平和でありますように!と祈るばかり。平和でなければ死んでも怨んで化けて脅かしてやる。

百年目の世界同時演劇革命である。
今、寺山修司が帰ってくる日を見届けるメンバーとは繋がっているのである。
だから、劇を通じてテラヤマの劇言語を体験し、身体を磨こうとしている。色あせていない世界を!劇のDNAを増殖しようと企む。
これが公演の意図であり、見に来られるお客さんには演劇の革命を届けよう。

2012年も残り僅かとなった。・・・今、じっくり台本と出演者を思い浮かべながら2013年の次回公演「レミング」4月公演に向かう。
5年ぶりです。おかえりなさい!
劇は寺山修司 作でありながら寺山修司に捧げる。
今、劇団員以外にも参加を呼び掛けている。但し、日常感覚の劇作りにもの足らなさを感じている役者を求む。・・・只今1本釣り中。劇団はオルガナイザー(工作員)と化す。我こそはと思う者歓迎。
「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」

公演詳細は1月15日に発表予定!

【下半期】私的2012回顧

2012-12-28 06:01:58 | モノローグ【エトセトラ】
【上半期】2012回顧につづく【下半期】7月~11月。
演劇公演サダ三部作の②「赤色時代」7月から③「極楽少女」11月を駆け抜けた。
当初の予定では「サダ」企画を出前劇するつもりだったが、7月の九州集中豪雨で被害を受けた旅館からキャンセルされた。改築に1年はかかるとのこと。温泉巡りのツアー公演は先送りとなる。
同時進行でキッズミュージカルのワークショップも11月の発表会に向けてやっていた。
商業(芸能界)でも教育(学校)でもなく「表現」として取り組むために!キッズ演劇で未来へ繋ぎたいのである。演劇を作るのはロボット(産業技術)ではなく人間(こころと身体)だ。

【7月】
河原町秘密基地は仮オープン「アートの日・7月8日」にシャッターを開けた。焼肉と缶ビールで乾杯する。内装は未完成のまま。運営方針未定。暫くは物置として使おう。
12日~13日は熊本市内でも「これまで経験したことのないような大雨」(気象庁発表)に見舞われた。九州各地で水没・崖崩れや死者まで出た。
キッズの稽古はダンス振付で汗を流していた。夢現より台本もあがってきた。「座敷わらしの不思議な呪文」。形が見えてきた。
■No.60「赤色時代」公演。7月27日(金)~30日(日)4ステージ。河原町ギャラリーADO。最終日は入場できないお客さんも出た。完全予約制で人数制限していたのだが・・・。

【8月】
公演が終わって速攻、熊本市舞台芸術事業への企画書を作成提出する。
実は「極楽少女」の台本があがっていなかったのである。
リフレッシュしなければならない。演劇公演を行事消化としてやってはならない。休息は必要だ。と言う訳で、
8月3日(日)は御立岬海水浴場へ劇団員たちと行った。女性陣たちの水着姿を眺めながらエネルギーは蘇った。ビキニ姿は目の保養になる。難問を考えなくなることも必要だ。空っぽになることが休養さ。
尚、No.61「極楽少女」は演劇エクスプレス3として公演されることに決まった。

【9月】
キッズのダンスレッスンは順調に進んでいた。身体のリズム感、表情が良い。キッズは週に一度の稽古だが楽しみにして通ってくれていた。公民館講座の募集で10名加わり、総勢20名となった。講師陣は夢現(台本 台詞と演技指導 制作)/山南純平(演出)/工藤慎平(音楽 照明)/山本真実(POPダンス メイク)/坂本咲希(日舞 夕沈ダンス 演技指導 衣裳)
「極楽少女」は舞台図面で難航中。会場が円形ホールになっており、これを活かすことを前提にしていた。稽古では何処を向くか、視線ばかりが気になるようになった。
肥後丸.のチラシがあがった。いよいよ公演体制である。
秘密基地(中央区河原町)に劇団の道具を置いているが、事務所(北区清水町)も手狭になり私と座長=夢現は東区(動物園近く)へ引っ越す準備に入る。事務所は残したままサキ・クドシンが引っ越して来ることになった。定着するのに時間はかかるが、・・・。多重生活のハジマリ。

【10月】
高校の同窓会(還暦パーティー下関)と岐阜県中津川での演劇キャンプに参加した。懐かしい人たちと会った。時間の流れを確認する。
キッズと劇団の公演も迫ってきた。追い込み月間である。
■キッズ・出演
KAREN(中2・夢桟敷)/ゆっきー(中2)/さき(小6)/みずき(小6)/かなこ(小5)/りゅうのすけ(小4)/はな(小4)/ゆうか(小3)/あきら(小3)/なな(小2)/のん(小2)/りな(小2)/しほ(小2)/あいり(小2)/ほのか(小2)/そうた(小1)/ゆうな(小1)/ことみ(小1)/坂本咲希(夢桟敷)/山本真実(猫目おろち)
■極楽少女・出演
夢 現/坂本咲希/肥後丸/工藤慎平/赤井犬彦/山南純平/海幸大介/山本真実(ダンサー)/中村大輔(ダンサー)/コバヤシユカリ(小林どろり)/東田まなみ/KAREN/はる(劇団「魂」照明)/希望(「魂」)/雪(「魂」)/雨(「魂」)/タカハシユウジ(電子ドラム)/りゅうのすけ(キッズ)/はな(キッズ)/ゆうか(キッズ)/なな(キッズ)/馬場真治(音響)
これだけのメンバーと過ごした。  

【11月】
■清水公民館講座「キッズミュージカル③」「座敷童子の不思議な呪文」
3日(土) 熊本北区役所清水総合出張所2Fホール
■演劇エクスプレス熊本3劇団夢桟敷No.61「極楽少女」
8日(木)-9日(金)-10日(土)熊本市男女共同参画センターはあもにい多目的ホール

この公演回顧については後日、次回公演2013年の活動計画との関連でメモ追加予定!

【上半期】私的2012回顧

2012-12-27 04:07:24 | モノローグ【エトセトラ】
今年を振り返ろうと180°首を後ろに回したら激痛が走った。筋を違えた。
首の痛みを堪えながら振り返る2012年。まだ無理が効く還暦(60)男だが、集団の力に支えられていることを味わった1年だった。感謝、感謝。
私的回顧は視野が狭い。ほとんど演劇のことしか眼中にない。・・・バカである。演劇を中心にメモを残す。記憶のメモだから断片を記す。全てを語ると気絶するから舌足らずで行こう。
まずは上半期の1月~6月まで。

【1月】
昨年末までに書き終える筈だった劇台本を引き延ばしていた。迷惑をかけることに慣れっこになっているのか?いつも申し訳ないの連続である。自分に甘いのか、追いつめられるマゾ感覚に快感を覚えたのか。
今年は「阿部定三部作」に向かう。
昨年の3.11(震災と原発爆発)以降とサダ事件の昭和が重なって見えていた。
愛の影に戦争がやってくる予感がした。過去の亡霊たちがやって来る。そしてナンセンスである。
尚、イメージ映像「サダひとり」製作に取り掛かった。きちくるお:作「球体関節人形」と役者(夢現・サキ・肥後丸.)のオーバーラップ。昨年の「ねじ式」映像につづく第2弾。

【2月】
「サダひとり。~阿部定事件」(第一部)の稽古が本格的に始まった。イメージ映像と舞台とのコラボへ挑戦。稽古場は試行錯誤の修羅場を迎えた。「あーでもない、こーでもない」がヨーイどん!だからだ。
劇団が二つに分かれ、3月に向けてのテント劇の体制に入った。新たに猫目おろち「夢一夜」(サキ・田中幸太・クドシン・山本真実・中村大輔・賀久秀之助[仮面工房])チームが結成された。
尚、「サダ」チームのメンバーは私と夢現・肥後丸.・赤井犬彦・東田まなみ・KAREN。

【3月】
2つに分かれての稽古であったため少々淋しい感があった。このまま分裂、解散になるのではないかと不安もあった。その心配は無用だった。
猫目ACT-01と銘打ったイベントで公演を行った。3月30日(金)-4月1日(日)/会場は河原町駐車場テント。テント設営には大阪の劇団流星群からの協力を頂く。スタッフ海幸大介もこの企画に対する思いが大きかった。これをきっかけに役者復活になっていくのであった。
夢桟敷と猫目おろちの他に出演団体は、上村葉子ベリーダンスグループ・gyagal crunch・小林どろり・湧心館高校定時制太鼓部・Soul Swings又、ギャラリーADOにて写真展(顔シリーズ)ー添島千景/梶原さちこ/けいすけ /きちくるお(人形展示)を同時開催した。
公演当日は強風や雨などのトラブルに見舞われる。近所の店から「うるさい!」の苦情もあった。
叩かれれば強くなるものである。

【4月】
公演が終わって速攻、大衆演劇へ取り組む。卓草四郎プロデュース、大津町にある成和座こけら落とし5月公演へ向かった。番外篇である。
稽古に立ち会いながら胃の痛みを感じる日々が続いた。私はプロデューサーである卓さんをいじめているのではないかの自覚症状があったからである。稽古場に行くのが辛い。しかし、新鮮なものを自分の中で感じていたのだった。
分裂、解散になるのではないかと不安もあった。その心配は無用だった。3月の疲れが癒されず走り続けたからだろう。演劇病である。

【5月】
6日(日)大衆演劇「帰って来た新次」(作演出/卓草四郎)公演。名古屋てんぷくプロの矢野健太郎さんが客演。私と座長=夢現は音響/照明係。ほぼフルメンバーが出演した。キッズのメンバー2名も出演となった。ダンス振付は山本真実も協力。感謝。
この公演を最後に田中幸太が退団する。11年の劇団生活、楽しかったかな~。ズルズルと退団者が出るのではないかと心配した。
連休明け、7月公演サダ3部作2弾「赤色時代」に取り掛かる。結束することがテーマになった。
夢にまで出てくる役者たちに驚かされる夜が続いた。

【6月】
河原町問屋街の小スペースを借りた。まるで廃墟。暑い!
「秘密基地」と名付けた。腐った畳や臭いにクラクラした。海幸大介が先頭に立ってゴミ捨てや解体作業に取り組んでくれていた。私は喘息と目まいで萎えていた。
キッズミュージカルの稽古もスタートした。公民館講座の下準備としてワークショップのような形になる。KARENがリーダー。10名(小中学生)が集まる。台本は座長=夢現、演技指導はサキ、ダンス振付は山本真実。私とクドシンがスタッフとして分担した。
劇団の7月公演「赤色時代」に向けての稽古も同時進行である。
日々、ワルツだった。三つのリズム。劇団の稽古はスピードアップした。

キッズXmas【直前告知】

2012-12-19 06:30:52 | ワークショップ
ご案内

【キッズ クリスマスパーティー】

時◎12月21日(金)午後6時~8時
場◎亀井公民館(熊本電鉄亀井駅スグ)
会費◎500円

キッズミュージカルのメンバー(小学1年~中学生)と保護者
劇団夢桟敷の関係者&サポーター&ファン大歓迎です。

キッズメンバーで連絡をとれる人は取り合って下さい。子どもたちには可愛いケーキとささやかなプレゼントあります。
尚、持ち込み歓迎します。

■このパーティーよりキッズミュージカル2013年の活動方針(キッズ部会の結成と1月からの稽古予定、公演計画)を打ち合わせも兼ねます。
子ども劇に興味ある方、大人の参加も可。

(問)劇団夢桟敷
yumesajiki@ybb.ne.jp
参加されたい方は21日pm3:00までにメールを下さい。

祝☆半径3メートル

2012-12-17 22:58:51 | モノローグ【エトセトラ】
他人の不幸は蜜の味がする。不幸や事件をネタに劇にしてきた悪い癖が職業である。
演劇は始末に負えない稼業である。不幸の中に夢や希望を混ぜる。この業が劇的な世界を生み出し人に感動も与えられる。
悩み苦しみ、そこから立ち上がったり落ちたり、笑ったり泣いたり、歌って踊ると、虚構の舞台=世界が広がる。・・・本日はお祝いの席である。

以下は半径3メートルの日常日記である。自分にとっては蜜の味がするが、他人のアルバムを眺めて喜ぶ者は少ないと思うのだが。ここが親馬鹿チャンリンの正体見せたり。劇にはならない。

■12月15日(土)結婚式と披露宴

先日から白髪染めをした故、その刺激で頭皮が痒くて気が狂いそうになっていた。しかし、狂いそうな時に我慢することには慣れている。それが得意だからだ。

正午からの娘の結婚式は劇団の稽古場として使わせてもらっている武蔵丘教会の礼拝堂だった。
身内だけで質素にやるのだと思っていたら、新郎新婦の友人たちも駆けつけてくれ賑やかな式になった。キッズミュージカルのメンバー、劇団員たち、牧師さんファミリーの子どもたちもスタッフとして参加してくれた。
黒髪と髭なしで、いつもの私とは気付かない者もいた。零細企業で働くオッサンに見られた。
主人公は新郎新婦である。キラキラ光って見えた。涙目になっていたから光って見えたのか。
式は厳粛に終わった。・・・二人にとっては新しい門出である。形は整った。



午後3時からの披露宴会場へは貸切バスで移動。通常20~30分もあれば到着するのだが1時間かかった。交通渋滞に巻き込まれたのだった。
堅苦しいエライ人の挨拶もなく肥後丸女史(劇団員)の乾杯の音頭で披露宴が始まった。
途中、劇団のダンスなども披露され、新郎新婦にスポットが当たる。劇団らしいじゃん。このダンスパフォーマンスは数回の稽古で仕上がっていた。
出席者は若者が多く反応も良かった。野次や掛け声がタイミング良く飛び交った。
元劇団員や子どもの頃から知っている者も出席してくれた。新郎の関係者は札幌からも!全国各地から駆けつけてくれている。私の兄姉夫婦も笑顔で見守ってくれていた。

どうも瞼が重い。メモリアルビデオや披露宴ラストでの新郎新婦友人のメッセージを頂いた時の感傷だったのだろうか。
新郎と新婦、新郎の父、お礼の言葉はあっさりスッキリしたものだった。
ご来場の皆さまの中には浪花節や演歌のお涙頂戴を期待していたかも知れないが、爽やかに幕を閉じた。

披露宴が終わって、若者たちは二次会へ。新郎家族と私たちは熊本城近くの和食店に行った。
両家ゆっくりご対面である。
いずれ、こちらからも札幌へご挨拶に行かなければ!白い北海道へ。





トイレに行って自分の顔を見て愕然とした。目が潰れていた。
頭皮アレルギーが顔面へ影響してきた。
「扇風機爺さん!」と笑われていたのだ。笑えない。ところで、何故、「扇風機」なのか理解に苦しむ。・・・顔は命だ。大切にしなければならない。

(注)本人希望により晴れ舞台の新郎新婦の写真は削除致しました。

骨肉の争い(笑)

2012-12-14 17:37:35 | モノローグ【エトセトラ】
明日に迫った娘の結婚式。

昨夜から徹夜でメモリアルビデオ編集を仕上げた座長(娘の母)。
実はパソコンで編集していて機械が上手く作動していなかったのである。私はこの間、お手上げだった。万歳!意味が違う。・・・娘は間に合ったことに大感謝していた。
母は強し。徹夜明けながら美容院や買い物へとバタバタである。夕方はマッサージにも出かけた。

私は白髪染めの刺激が強かった故か、頭皮はヒリヒリと痛み、汁が流れている。それがカサブタとなり頭のテッペンが歪なバケモノに覆われたようになってもがき苦しんでいる有様。
お洒落は性に合わない。
黒髪と髭なし猿になってしまった。孫悟空である。頭が痛む。締め付けられる。
明日の結婚式、披露宴では大人しくしておこう。皮膚の薬が手放せない。

昼過ぎには息子夫婦と孫が兵庫伊丹市から帰って来た。
息子曰く、「労働組合は民主、経営側は自民。」・・・息子の働く会社での選挙構図をほのめかした。私が「反戦・反核」の立場であることを知っての挑発である。
振り返ればこの息子、中学生の時、制服を拒否して私服登校をしたことがある。校長室に監禁され理不尽を味わった経験を持つ。人民の力に発揮すれば良いものを!今は会社組織に吸い取られた。
ひひひ。・・・笑えるのは孫の仕草が可愛いからである。娘も早く自分の子どもを欲しがっている。孫の扱いを見ていれば、母性本能丸出しになっている。 

夜には大分市出張中の息子も帰って来る。今夜は家族水入らずの晩さん会になる。
未だ結婚していないが、下の息子の彼女も参加することになった。もう半分は家族のような関係だからだ。

未だに嫁に出て行くという意識がない。何か、イベントがあるという意識だ。
これで「お世話になりました。」と涙を流して言われると札幌へミサイルを飛ばしたくなる。相手が札幌からやって来た劇団員だからだ。宇宙へ飛ばすロケットではない。ミサイルである。
考えてみれば、劇団員も家族のようなものだ。戦争の話は辞める。

札幌からも家族や友人が熊本に到着したようだ。
骨肉の争いではなく、お祝いは明日。今日は両家別れて前夜祭になる。

恐怖の床屋談義

2012-12-13 22:22:43 | モノローグ【エトセトラ】
明後日(土)に迫った娘の結婚式のために床屋に行った。散髪と白髪染めをした。
ついでに髭を落としてもらった。・・・その時である。
「お客さん、昨日は北朝鮮がミサイルを発射しましたね。どう思いますか。」
丁度、咽に剃刀を立てていた時である。
「あ、ロケットのことですか。」私は答えた。
「いいえ、ミサイルですよ。」
喉に痛みを覚えた。強く剃刀が突き刺さったような気がした。
「ミサイルと言いなさい。ミサイルと言わないと殺す。」
そこまでは言っていないのだが、・・・。殺されると思った。
命がけだった。

妄想は治外法権である

2012-12-11 06:09:41 | モノローグ【エトセトラ】
寺山修司は「夢の中は治外法権である」と言っていた。
夢の中を表わそうとする劇は治外法権であるべきだと思う。劇に限らず、夢の中を表わそうとする音楽も美術も表現に関わる全ての分野にも言える。
「表現の自由」あるいは自由な表現を志す者たちにとっては<治外法権>=<無政府状態>こそが新しい価値を生み出す可能性が大だと思うからである。

物理的なことではない。
夢の中=妄想は精神(こころ)の中の問題だ。ここに規制が入り込むことはない。
だが、このことに恐怖を抱く存在もあることは確かである。

政治という存在。政治は物理的な権力を要求する。国益であり国権でもある。(国民の権利ではない。人権と国権は対立する。)
国権と人権(国民)が対立すると内乱になり、国家同士の対立は戦争を引き起こす。

私は危機意識を持っている。
この国の近い将来にとても不自由な社会が見えるのである。もう始まっているのだ。
「夢の中」や「妄想」まで管理されてしまう怖い現実が来る。

妄想は治外法権である。

次回公演 劇団夢桟敷「レミング」(作:寺山修司)は覚悟を決めて虚構を形にしよう。
その仕掛けが役者たちの精神(こころ)の中に芽生えなければ劇は死ぬ。
舞台は物理になる。もうひとつの思想を持たなければ!もうひとつの政治だ。
内乱の劇。これが「夢の暴力」として位置付く。

命を守る【脱原発】

2012-12-10 06:41:38 | モノローグ【エトセトラ】
考えよう。阻止しよう、原発。

山本太郎の演説です。



東京杉並区から立候補した山本太郎。素人の乱も全国へ広がりつつある。原発推進派に騙され続けた理由を彼は訴え続けている。声を上げること、阻止することが大きな課題になっている。

今後、この国ニッポンは誰を守ろうとするのか鮮明になっていく時代に入った。
経済優先は終わった。「命」そのものが問われる。戦争も破壊を意味するが、放射能も同じこと。

寺山修司の劇「疫病流行記」を現在に置き換えれば「放射能流行記」を予感する未来劇だったのだと気付いた。

メモリアル

2012-12-09 04:12:51 | モノローグ【エトセトラ】
いよいよ娘の結婚式が1週間後となった。

父親らしいことは何もしたことがない。親はなくても子は育つと言うが、親があっても子は育つ。

今、メモリアルビデオを編集している。師匠は座長(私のツマ、娘の母)。
アナログだと仕事でやっていたから自信はあったのだが、今はデジタルである。
編集方法はまるで違う。
BGMに合わせて画像を繋ぐところまでは理解できた。
まだ初歩の段階である。

娘の小さかった頃のビデオを眺めながら涙もろくなった。親馬鹿チャンリンリンだ。

脱原発。

2012-12-07 07:53:45 | モノローグ【エトセトラ】
むしゃんよか。
(注:熊本弁で『武者の良い』⇒『かっこいい」という意味です。)
山本太郎はむしゃんよか。

制服向上委員会「ダッ、ダッ、脱原発の歌」
はカワイイ。



先日、ある方から政治的な発言は慎んだ方が良いのでは?と忠告された。
「あなたは影響力のある人」だと?
60男に口封じかい。・・・ちょっとシラケタのだった。
政治?違う。・・・政治不信である。
ニッポン、危ないと思っている。それが本音だ。騙されるものか。

演劇人がおとなしいと思ったら大間違い。オドレや歌えだ。

戦争ごっこ

2012-12-04 17:19:39 | モノローグ【エトセトラ】
子どもの頃(昭和30年代)、近所の友達と秘密基地を作って遊んでいたことがある。
小学校の裏山には大小さまざまな防空壕が残っており、「危険だから遊んではいけない」と禁止命令が出ていたところ。
禁止されると遊びたくなるのが子どもの冒険心。
今にも崩れてしまいそうな洞穴だった。蛇やムカデ、コウモリもいる。
ハングル文字の新聞が散乱しており、密入国者の生活した後も伺えた。
学校が終わるとそこに集まり、戦争ごっこをして遊んでいた。
当時、「コンバット」なる戦争ドラマがテレビで流れていた故か、アメリカ軍とドイツ軍に分かれて石を投げ合ったり、棒で叩き合ったりして怪我をしていた。
赤チンや包帯が少年たちにとっては男の勲章のようになっていた。
その内、2B弾という火薬を使って遊ぶようになった。
手元で火薬が爆発して指が千切れた子もが出た。
片目を失明した子もいた。
怪我が自慢にはならなくなった。
それから戦争ごっこは辞めた。

私の子どもの頃のバカ話、おわり。