山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

サバイバルの小劇場

2012-05-10 17:32:20 | モノローグ【エトセトラ】
来月6月15日で劇団夢桟敷34年目に突入する。
旧名:劇団ブラックホール(1979-1984)、東京の新宿区で産声を上げた。
結成宣言は6畳一間の早稲田鶴巻ハウス。私の走り書きした宣言書には「アングラ」の文字がおどっていた。テラヤマや唐十郎へ続け!という訳である。上は30代から下は高校を卒業したばかりの10代終わりまで。
当時はアングラ第二世代と言われた、つかこうへい、流山児祥、山崎哲などが暴れていた。第三世代の野田秀樹、鴻上尚史、北村想の台頭があった。

私たちが上げた「アングラ」宣言には冷笑が飛び交っていた時代である。「アングラは消し炭だよ。」という声が小劇場界では囁かれていたのである。
1980年代の若者たち演劇の模索が始まっていた。ひと括りに「ポスト・アングラ劇」。だが、それはメジャー路線への転換か、お笑い演劇、新劇への里帰りを予感していた。
それが今の「台詞の時代」や「半径3メートルの私小説演劇」、つまり日常演劇・情報としての演劇を発表する無数の劇作家誕生へと繋がったようにも思える。

今のメンバーは夢現(座長)と私、それに旗揚げメンバーだった海幸大介が復活した。もう初老、中年である。
20代の若きエース数名、キッズの予備軍、中高年もいて世代の幅は広い。
うっかりすると話が通わないこともある。昔だったら世代の断絶だったろう。だが、当初から同世代で固まっていなかった劇団としては違和感はない。それが伝統にもなった。

この34年間、150名を超える劇団夢桟敷の団員たちが入退団を繰り返し通過して来た。余りに短時間の関わりだったため、舞台にも立たずに消えて行った者もいる。顔は思い出すが名前が記憶に残っていない。
1期が東京時代。2期が熊本に拠点を移してからのパフォーマンス(演劇と舞踏のコラボ劇、1984-2000)。3期(2000-2006)は学校演劇から叩きあげられたメンバーによる犯罪劇や戦争劇へ。4期が今へ繋がって進行継続している。
今現在が問題だ。

一つの特徴として、フリーの役者たちが複数の劇団に登場する傾向が強くなってきたのである。客演という形で劇団側が役者を要請して登場させる。劇団は役者を養成する場ではなく、足りない数を要請することで穴を埋める。結果として、劇団の個性が薄れてしまい、劇団の仕事はプロデュースすることになった。
中には劇作家や演出までプロデュースするミニ商業演劇にも見える傾向が伺われるようになった。企画制作は数の論理である。へたをすると一発屋。はい、おしまいである。継続してものが考えられなくなる。
このような傾向は良くはない。フリーのタレントの甘さを助長するばかりでなく、自らの劇団の首を自分で絞める自殺行為にも見えてしまう。

集団としての劇団は閉鎖的でも排他的でもなく、「何をしたいのか。」が常に問われる。これが薄れてしまっては意味がなくなる。そのような問いかけをもって明日は久しぶりの例会をおこなう。
サバイバルの視点で会議に臨む。

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