8月14日の河原町アートに参加や、8月28日の演劇ワークショップ、旅公演(大阪-鹿児島)、子どもミュージカルの準備に追われている。
とりわけ、この夏は劇団としても新たな①Vシネマ製作、②町の「劇場化」計画を手掛けており、活動が広がっている。
この日記は自分たちの活動の点検整理をする意味合いが濃くなってきた。そこで新たなカテゴリーとして「ワークショップ」を追加した。
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演劇の現場にいると「ワークショップ」は日常的な概念として通用する。それは「稽古」の範囲であり公演や演技、表現方法を磨く手段としても有効だからだ。身近に捉えることができる。
ところが生活者としての人々、とりわけ演劇に無縁な方々にとって「ワークショップ」に何の意味があるのだろうかと考えることがある。
ある者は演劇を「コミュニケーション」の道具として役立つという。それは人間、演技で成り立っている前提がある。つまり、人類総役者という訳だ。ここには舞台人も日常生活者も区別なくなる。
そうだろうか・・・?
生活者を「役者」として認識できるだろうか。すべての行為を「演技」だと言えるだろうか。
私は疑問に思う。
「演劇ワークショップ」は日常の行為や会話、人々の生活の中での表情を点検確認することはできるが、日常そのものを再現することではない。日常を誇張したり省いたりする。ここから浮かび上がるのは虚構。つまり「非日常」。言いかえれば「もうひとつの日常」が舞台として形作られる。
ワークショップは「日常」を比較する。強く、日常を意識する。観察する。そうすることによって「日常批判」が生まれる。
な~んちゃって!・・・そんな小難しいことじゃないよ。
自分の中に他人がいる。!・・・楽しみながら見つけましょう。
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新たに「ワークショップ」の観点から日記に綴ることがあります。
とりわけ、この夏は劇団としても新たな①Vシネマ製作、②町の「劇場化」計画を手掛けており、活動が広がっている。
この日記は自分たちの活動の点検整理をする意味合いが濃くなってきた。そこで新たなカテゴリーとして「ワークショップ」を追加した。
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演劇の現場にいると「ワークショップ」は日常的な概念として通用する。それは「稽古」の範囲であり公演や演技、表現方法を磨く手段としても有効だからだ。身近に捉えることができる。
ところが生活者としての人々、とりわけ演劇に無縁な方々にとって「ワークショップ」に何の意味があるのだろうかと考えることがある。
ある者は演劇を「コミュニケーション」の道具として役立つという。それは人間、演技で成り立っている前提がある。つまり、人類総役者という訳だ。ここには舞台人も日常生活者も区別なくなる。
そうだろうか・・・?
生活者を「役者」として認識できるだろうか。すべての行為を「演技」だと言えるだろうか。
私は疑問に思う。
「演劇ワークショップ」は日常の行為や会話、人々の生活の中での表情を点検確認することはできるが、日常そのものを再現することではない。日常を誇張したり省いたりする。ここから浮かび上がるのは虚構。つまり「非日常」。言いかえれば「もうひとつの日常」が舞台として形作られる。
ワークショップは「日常」を比較する。強く、日常を意識する。観察する。そうすることによって「日常批判」が生まれる。
な~んちゃって!・・・そんな小難しいことじゃないよ。
自分の中に他人がいる。!・・・楽しみながら見つけましょう。
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新たに「ワークショップ」の観点から日記に綴ることがあります。
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