先日、東京の実家に帰っていた時に、大学時代の友人から、また一人、共通の仲良くしていた友の訃報を聞きました。思わず声を挙げ、しばし泣きました。「また」というのは、40-50代のこの数年間で3人の学友と1人の元職場の同僚が病気等で他界し、皆後になってから知らせを受けたため、4人とも突然のことで最後に会うチャンスもなく、葬儀にも行くこともできませんでした。私が落ち込んでいると、そこに居合わせた妹が「人はいつかは亡くなる。お姉ちゃんだって、以前死にかけたじゃない」と言われ、ああ、そうだったと。自分も40代前半で癌を患い大手術をして生かされ、これからは一日一日を大切に生きようと決意したものでした。あれから時が過ぎ、そのことを忘れかけている自分に気がつかされます。その夜、知らせてくれた友人と久しぶりに会うことが出来て、二人で故人を偲ぶ時が持てたことは慰めとなり、感謝しています。
若い時は死を考える暇がなく、高齢になる迄、同世代が亡くなるということはそれほど現実味がないものです。人は他者の死に際し、その時は人生や死を考えますが、日々の忙しさの中で次第に埋没されていくのではないでしょうか。逆に、死んだらどうなるかが分からないまま、死のこと、将来の先行きばかり考えてしまうと、心の病になってしまうかもしれません。それでも、現実に私たちの体は日々老化し、永久にはこの体で生きることはできません。何のために生きているのか、なぜ自分が存在しているのか、そんな難しいことを考えることはせず、とりあえず目の前のやるべきことを一生懸命こなすしかない。また、うまく心のバランスを取るために、一時的な気晴らしや癒しを求めて、何かに打ち込むこともできます。しかしながら、私の友人たちのように、死は突然やって来ます。
もし、瞬く間に過ぎ去っていく人生であっても、「死んだ後にこうなる」という、いわば希望があればどうでしょうか。私は神の存在を信じ、自分が目的を持って神に創られた存在で、私が生きている間も私を助け導き、死んだ後も天国でケアしてくれると聖書に書かれているので、その約束を信じています。すると、死に対する恐怖、自分の存在がいつか消えてしまうのかという不安に怯えることはありません。もちろん、感情的には家族や友人の死は悲しいし、思い出して泣くこともありますが、その都度神様から慰めが与えられます。寿命については、どんなに頑張っても私がコントロールできないことも承知していますが、夫とは、共に力を合わせて人々に仕えられるように神様が夫婦としてくれたのですから、なるべく長く共に生かさせてくださいと願い求めています。しかし、たとえそうでなくとも、全てのことは神様が何とかしてくださるという信頼が持てることは、本当に幸いです。
ちょうど、タイムリーに与えられた聖書の箇所が下記の「生涯の日を正しく数える」というところでした。「生涯の日を正しく数える」とはどういう意味なのでしょうか。これは、何歳まで生きられるかしら?と算定することではなく、いつかはこの世での生活が終わるという現実を受け止めた上で、「きょう」という日に何をなすべきかを見極めることかと思います。それは、ある人を赦すと決めることかもしれない。何もできなくても、ベッドで静かに祈ることかもしれない。私の思いは愚かで、状況に左右されやすく、頼りにならないので、神様からそのような判断力、知恵を頂く必要があります。私を創った全知全能の神様は、今のこの時の私に何が必要か、また何を私がするのがベストなのかをご存知だからです。同時に、私がロボットのように神様のプログラムに従えというわけではなく、神様は私の願い、私の志も考慮した上で、また私が自分の判断で失敗したとしても、優しく軌道修正に導いて下さる、愛のある方であるのが感謝です。
今日が最後かもしれないと覚えつつも、その日を喜んで通常通りに生活し、そして死ねば天に召されるという平安な気持ちでいたいと願います。残された日々を大切に生きようと、以前した決意を忘れずに。。
「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」 詩編90篇12節
若い時は死を考える暇がなく、高齢になる迄、同世代が亡くなるということはそれほど現実味がないものです。人は他者の死に際し、その時は人生や死を考えますが、日々の忙しさの中で次第に埋没されていくのではないでしょうか。逆に、死んだらどうなるかが分からないまま、死のこと、将来の先行きばかり考えてしまうと、心の病になってしまうかもしれません。それでも、現実に私たちの体は日々老化し、永久にはこの体で生きることはできません。何のために生きているのか、なぜ自分が存在しているのか、そんな難しいことを考えることはせず、とりあえず目の前のやるべきことを一生懸命こなすしかない。また、うまく心のバランスを取るために、一時的な気晴らしや癒しを求めて、何かに打ち込むこともできます。しかしながら、私の友人たちのように、死は突然やって来ます。
もし、瞬く間に過ぎ去っていく人生であっても、「死んだ後にこうなる」という、いわば希望があればどうでしょうか。私は神の存在を信じ、自分が目的を持って神に創られた存在で、私が生きている間も私を助け導き、死んだ後も天国でケアしてくれると聖書に書かれているので、その約束を信じています。すると、死に対する恐怖、自分の存在がいつか消えてしまうのかという不安に怯えることはありません。もちろん、感情的には家族や友人の死は悲しいし、思い出して泣くこともありますが、その都度神様から慰めが与えられます。寿命については、どんなに頑張っても私がコントロールできないことも承知していますが、夫とは、共に力を合わせて人々に仕えられるように神様が夫婦としてくれたのですから、なるべく長く共に生かさせてくださいと願い求めています。しかし、たとえそうでなくとも、全てのことは神様が何とかしてくださるという信頼が持てることは、本当に幸いです。
ちょうど、タイムリーに与えられた聖書の箇所が下記の「生涯の日を正しく数える」というところでした。「生涯の日を正しく数える」とはどういう意味なのでしょうか。これは、何歳まで生きられるかしら?と算定することではなく、いつかはこの世での生活が終わるという現実を受け止めた上で、「きょう」という日に何をなすべきかを見極めることかと思います。それは、ある人を赦すと決めることかもしれない。何もできなくても、ベッドで静かに祈ることかもしれない。私の思いは愚かで、状況に左右されやすく、頼りにならないので、神様からそのような判断力、知恵を頂く必要があります。私を創った全知全能の神様は、今のこの時の私に何が必要か、また何を私がするのがベストなのかをご存知だからです。同時に、私がロボットのように神様のプログラムに従えというわけではなく、神様は私の願い、私の志も考慮した上で、また私が自分の判断で失敗したとしても、優しく軌道修正に導いて下さる、愛のある方であるのが感謝です。
今日が最後かもしれないと覚えつつも、その日を喜んで通常通りに生活し、そして死ねば天に召されるという平安な気持ちでいたいと願います。残された日々を大切に生きようと、以前した決意を忘れずに。。
「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」 詩編90篇12節