Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

デリバリー

2020年11月15日 | 日記
 最近は、外食よりも家族や少人数で「お家ごはん」やテイクアウトが以前より用いられるようになりました。外食産業としては痛手ですが、感染対策にはとても有効です。結局、マスクを常時していてソーシャルディスタンスをとっていても、食べる時はどうしてもマスクを外し、そして多少でも話すことになるので、ウイルス感染の機会となるからです。そのことが分かっていても、たまにはレストランで食べたいという、外食にはそれなりの価値があります。座ってオーダーすると、美味しい料理が運ばれて来て、食べ終わるとお店の人が下げてくれますし、料理を作らず、後片付けもせず、家の中とは異なる空間で、食べて、話して、何もかまわずお支払いだけすればいいわけですから。一方、たとえおいしい料理であっても、店の人の対応が悪かったら、嫌な気分になり、せっかくの料理の味が台無しになることはないでしょうか。また、ピザのデリバリーの人が、乱暴な運転をしてピザの箱をひっくり返してしまい、中身が崩れたものを渡したらどうでしょうか。基本は味ですが、料理を運ぶ人の態度や方法も大切な要素です。

 イエス様がこの世に生きておられた時、5千人の人にパンと魚を奇跡で増やして給食したことが聖書に記されています。*1イエス様は5つのパンと2匹の魚を、5千人が満腹し、さらに12のかごに有り余るまでにパンを奇跡で増やされました。これは、イエス様の話を聞きにきた群衆がお腹がすいていて、かわいそうに思って必要を満たされたのですが、同時に霊的な意味も示しています。パンは神のことばを指し、神のみことばはどんなに人数が多くても、十分届けられ、皆が味わうこと(知ること)ができるのです。私達は生きるためには食べ物が必要なように、心の食べ物が必須で、それが神のことば、つまり聖書に書かれている神の言葉です。
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる。」 *2
ここでは、イエス様がそのパンを運ぶのではなく、弟子達が運びました。このように、クリスチャンは牧師や教師に限らず、神様の伝えたいメッセージ:聖書に書かれているみことばを、自分の置かれた立場と様々な方法で知らない人々に「伝える、運ぶ」という役割があると思います。

 下記の箇所は、キリストの福音を「伝える」ことについて書かれています。デリバリーの人は運ぶ中身には手を出さないように、伝える人はメッセージの中身(キリストの福音)を変えることは出来ないし、付け加えたり、差し引いたりしてはならず、聖書に書かれていることをそのまま伝えるべきです。そして、運んだあと、つまりメッセージをした後や、個人的に神様がどのように自分の人生を変えて下さり、救ってくださったかを証した後は、その結果(聴き手が神さまを信じるか、信じないか)に対しては責任を負うことはないと思います。なぜなら、メッセージを受け取る側を信じさせることは神様のなさる領域であって、神様だけがその人の心に語られたみ言葉を響かせ、気づかせ、そしてもっと知りたいと神様を求めさせ、救いに導くからです。人の役割はデリバリーの人、ウエイター・ウエイトレスの役割。ただ宣べ伝える人としての責任は、そのメッセージを忠実に伝えること、また私たちの態度で台無しにしないよう、相手をつまづかせないように配慮することではないでしょうか。そのためには、神様の愛と知恵をいただかなければならないと思います。
 
 「神の計画は神からの霊感を受けた人間が、神のことばに従ってあげた成果によって実現するばかりではなく、人間の過ちによっても、罪によってさえも実現するのです」*3と記している人がいます。聖書を読んでいると、神様が選ばれた信仰の人達でさえも、失敗や罪を犯すことも記され、それでも神様はその人たちを用いられるケースがあるからでしょう。ましてや私のような普通のものが、今までを振り返ると、いつもメッセージの運ぶ時の態度等が適切であったかは自信がありませんし、失敗、失言が多いことを認めます。つまづいてしまった人もいたかもしれないので、ごめんなさいとその方々と、神さまの前に謝るのみです。いつか、神様がその人の心を和らいで下さることを祈ります。神さまの憐み、赦し、愛は深く、その御業は私たちの思いを超えたところで行われる、と安心して委ねられることは、なんと幸いでしょうか。相手に伝える際、みことばの内容に忠実に、そして自分の態度についてよく吟味しつつ、文章を書くときも、話すときも、人と日常生活で関わるときも、神様から助けを頂いて日々歩んでいきたいと願います。
 
 「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」   ローマ人への手紙10章14-15節


*1 ヨハネによる福音書6章1-4節
*2マタイによる福音書 4章4節
*3  ポール・トゥルニエ 「人生の四季」より