先日、久し振りに西那須野の地を訪れました。西那須野教会の皆さんとお会いするのは、益子へ引っ越して以来。皆さんお変わりない様子で安心しましたが、一つだけ、以前と異なることはマスク姿で顔を合わせていることでした。今回の訪問の目的の一つには、病気の方々を見舞うことでしたが、その方々は退院したばかりだったのに関わらず、お会いする機会が与えられました。ソーシャルディスタンスを取り、マスクをしながらでも、このように顔と顔を合わせて集まることが出来たのが本当に感謝でした。お互いの近況等、しばし共に語り合い、楽しいひと時が持てました。
その週末、義理の両親が我が家へ訪問してくれました。お正月に会って以来(約10ヶ月振り)でしたので、益子教会の礼拝にも参加し、また両親の友人で益子在住の方も招いて、家で団欒の時を持つ事ができました。今迄電話では話していましたが、なかなか以前のように頻繁に行き来ができないので、高齢の両親の体調も守られて再会が実現できたことに、本当に神様に感謝しています。家族や友人たちと気軽に会えないという今の世の中において、顔と顔を合わせて会えることがどんなに貴重な時か、改めて思わされます。
下記のみことばの「兄弟」というのは、実際の血のつながりがある兄弟に限定しているのではなく、神の家族という意味合いであります。神の家族とは、天の神様がお父さん、そしてキリストが長子で、キリストを信じる者が神様の子どもとされ、この「座っている」(ヤーシャブ)という動詞 は「住む」という意味もあり、ただ座っているというより、家族のように共同体的に集まっている状態を表しているのだと思います。この詩編の文脈的にも表題が「都に上る歌、ダビデの詩」とありますから、都つまりエルサレムの神殿への巡礼の旅において、ユダヤ人たちはこの賛美の歌を歌いながら都への道を歩いていたのでしょう。神様を礼拝するために都へ上るわけですから、その行く途中も神様を賛美しつつ歩む、つまり礼拝の一環とも言えるでしょう。それがどれ程喜びであり、恵と祝福であるかを、この詩の著者であるダビデは表現したかったのではないかと思います。キリストがこの世に全人類の救い主といて来て下さったおかげで、ユダヤ人だけでなく、血のつながりや人種・身分・年齢の違いを超え、神の家族が集まって礼拝できる時間と場所が今は与えられています。それは教会です。教会は、時代が違っても、礼拝のスタイルが異なっても、キリストを信じる者たちが共に集まり、神様に礼拝を捧げ、このダビデの感じていると同じ喜びと恵み、神様の祝福に預かれるということは、感謝につきないと思います。
また、教会というのは場所的な意味、つまり建物ではなく、キリストを信じる神の家族の集合体です。譬えて言うならば、教会はキリストの体であり、ひとりひとりが体の器官として生かされ、調和して生きていると、使徒パウロは記しています。そのキリストの体においては、健康な人の体の中で調和があるように、各器官がうまくお互いを補いあい、機能しています。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」*
時には、集まってお互いの喜び、苦しみを共有できない事情もあります。たとえ物理的に遠く離れていても、神の家族は霊的に各々がキリストに繋がっているので、互いに祈り合いながら、共に座っている恵み、喜びを味わいたいと願っています。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 」詩編133編1節
* 第一コリントの手紙12章25-27節 (引用 新改訳聖書1965年版)
その週末、義理の両親が我が家へ訪問してくれました。お正月に会って以来(約10ヶ月振り)でしたので、益子教会の礼拝にも参加し、また両親の友人で益子在住の方も招いて、家で団欒の時を持つ事ができました。今迄電話では話していましたが、なかなか以前のように頻繁に行き来ができないので、高齢の両親の体調も守られて再会が実現できたことに、本当に神様に感謝しています。家族や友人たちと気軽に会えないという今の世の中において、顔と顔を合わせて会えることがどんなに貴重な時か、改めて思わされます。
下記のみことばの「兄弟」というのは、実際の血のつながりがある兄弟に限定しているのではなく、神の家族という意味合いであります。神の家族とは、天の神様がお父さん、そしてキリストが長子で、キリストを信じる者が神様の子どもとされ、この「座っている」(ヤーシャブ)という動詞 は「住む」という意味もあり、ただ座っているというより、家族のように共同体的に集まっている状態を表しているのだと思います。この詩編の文脈的にも表題が「都に上る歌、ダビデの詩」とありますから、都つまりエルサレムの神殿への巡礼の旅において、ユダヤ人たちはこの賛美の歌を歌いながら都への道を歩いていたのでしょう。神様を礼拝するために都へ上るわけですから、その行く途中も神様を賛美しつつ歩む、つまり礼拝の一環とも言えるでしょう。それがどれ程喜びであり、恵と祝福であるかを、この詩の著者であるダビデは表現したかったのではないかと思います。キリストがこの世に全人類の救い主といて来て下さったおかげで、ユダヤ人だけでなく、血のつながりや人種・身分・年齢の違いを超え、神の家族が集まって礼拝できる時間と場所が今は与えられています。それは教会です。教会は、時代が違っても、礼拝のスタイルが異なっても、キリストを信じる者たちが共に集まり、神様に礼拝を捧げ、このダビデの感じていると同じ喜びと恵み、神様の祝福に預かれるということは、感謝につきないと思います。
また、教会というのは場所的な意味、つまり建物ではなく、キリストを信じる神の家族の集合体です。譬えて言うならば、教会はキリストの体であり、ひとりひとりが体の器官として生かされ、調和して生きていると、使徒パウロは記しています。そのキリストの体においては、健康な人の体の中で調和があるように、各器官がうまくお互いを補いあい、機能しています。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」*
時には、集まってお互いの喜び、苦しみを共有できない事情もあります。たとえ物理的に遠く離れていても、神の家族は霊的に各々がキリストに繋がっているので、互いに祈り合いながら、共に座っている恵み、喜びを味わいたいと願っています。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 」詩編133編1節
* 第一コリントの手紙12章25-27節 (引用 新改訳聖書1965年版)