Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

Servant Leadership (人に仕えるリーダー)

2020年09月19日 | 日記
 数十年前の日本では、セルフサービスのガソリンスタンドはほとんどありませんでした。お店の人に「レギュラー満タンお願い」と言うと、一人がガソリンを入れてもう一人が車の窓を拭いてくれてと、私たちはただ車に乗ったままでお金を払えばよいのです。現在でも、そのサービスは続いていますが、改めて全て人にしてもらうことが快適と感じたのは、その後、アメリカに住み、給油をセルフでするのが当たり前だったことを経験してからでした。給油に限らず、人に何かしてもらう、「こうして」というと、その通りに人が自分に仕えてくれるのはいい気分です。また、通常仕事上で管理職になれば責任を伴いますが、部下は上司の指示に従います。

 Servant Leadership(直訳すると、僕的リーダーシップ?)。これは相対する言葉をつなげたように見えますが、アジア学院という、有機農業とリーダーシップを教える学校の基本理念の一つとして打ち出されている言葉です。正確な意味については、アジア学院のホームページに書かれているので参照いただければとおもいますが、この姿勢は農業に限らず、どの分野でも適用されうると思います。リーダーには統率力、リーダーシップ、決断力、能力・技能が問われますが、そのリーダー自身が部下をこき使うのではなく、かえって部下に仕えるという、謙遜な姿勢を持って共に働くと、そのリーダーの下に皆が働きやすく、良い成果を上げることが出来るのではと思います。現実には、政治家でも、企業でも上司は威張っている人が多いかもしれません。しかし、本当に仕事の出来る人、ある分野で秀でる人、皆に信頼されている人は謙虚な方なのかもしれません。

 この精神は聖書に記されている、イエス・キリストが言われた言葉に由来しています。イエス様は神であられたのに、わざわざ限界のある人間となって生まれ、私たちに仕える為にこの人間界に来てくださったからです。下記の聖書の箇所にあるように「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(人の子とはイエス様ご自身を指す)と、イエス様は弟子たちにも、ご自分に倣って、仕える人になりなさいと教えられています。更に、仕えるためだけでなく、ご自分の命を与えるために来て下さったこと、これは神の子であるイエス様にしかできない業です。

 もし、キリスト教の神が、全能で畏れ多い、恐怖で支配するような存在であれば、私は信じたいと思いません。恐れでは人を支配出来ないからです。しかし、私が信じている神様は、愛そのものであり、優しい方であり、そのご性質は、人となって現れて下さった神の子イエス・キリストに示されています。だから、私はその愛を受けとることが出来、信じる信仰が与えられて、今は日々感謝して過ごすことができます。信じたからといって、良いことばかりでなく、生活上、人生の中で困難なこと、苦しいことも、引き続き起こります。しかし、どんな状況においても神様の守りの中に、自分が生かされているという安心感が与えられます。それだけでなく、信じてキリストに従って歩んでいこうとすると、自分の内側の性質が、キリストの光に照らされて、汚い部分、心の苦い部分が変えられていくという希望が与えられているので、日々、自分の心のふがいなさに落ち込むことにとどまらず、仕切り直してなんとか生きています。

 傲慢な心、不満を持つ心では、人との関係においてどうしてもギクシャクしてしまいますが、相手がどうであれ、親切に、謙遜な姿勢で、立場とかに関わらず相手に仕える気持ちで対応していくことができれば、相手も柔らかい態度になってくるでしょう。私も、日々傲慢な心がふっと湧ます。そういう時はすぐにこのイエス様の相手に仕えるという姿勢に倣い、家庭でも、職場でも、教会でも、街中でちょっと出会う人に対しても実行できるように、変えられていきたいと願います。

”そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 ” マルコの福音書10章42-45節