私は10年前に介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得しましたが、その時期にアメリカへ転居してしまったので、その資格を用いて実務経験をしていません。今日本で勤務している仕事でも必要ないため、この先使わないのであれば、時間とお金をかけて講習を受け更新をする必要があるのだろうかと考えるところです。ただ、将来使えるようにと、この資格を持てるように計らって下さった神様の意図を思い、保持をしてきたという経緯(一度試験に落ちたのに、試験問題の不備で繰り上げ合格となったという奇跡!)があります。とりあえず、コロナ禍もあるので、更新講習を一年延期することにし、来年また考えることにしました。
私は先々のことを考え、計画を建てて、こつこつと準備するタイプです。でも、私の計画はいつも計画通りにいきません。つまり、私の計画は完全ではないし、ましてや社会がどう動くかは先行き不透明であり、何事にしても計画通りにいかないのが当たり前と思っています。しかし、社会生活をする上で、計画をたて、実行することはむしろ常識的で、求められることです。ただし、計画を立てる上で、その動機というのが今日の聖書の箇所のよると計られるようです。
自身も含め、人は自分の考えたことは正しいし、妥当だと、自分の常識や自分の置かれた立場、状況によって思い、それらの考えに基づいて、計画し、実行するでしょう。ただし、人の価値基準は相対的であり、時代や国によっても異なります。その人には良くとも、周りの人には共通して正しいことでない、損となる場合もあります。皆が神様に自分の都合に基づき、「願いを叶えて下さい」と祈ったとしたら、利益が相反してしまうのではないでしょうか。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 *1と聖書には書かれています。性格の良い人、仁徳がある人は、「私は陰険ではない」と思うかもしせません。しかし、もしかしたら本人に自覚がないだけかもしれません。聖書の前提が、人は罪の性質を持って生まれ、自分の持ち前の気質では聖く、正しくいられず、自己中心的な思いは必ずあるというところに立っています。それを「陰険」と表現してしまうのは、いささか言い過ぎなのでしょうか。キリストを信じた後でさえも、その陰険な性質が残っている場合があります。例えば聖書を基に、自分の行い・主義・主張が神の前に正しいと思い、他者を裁き、愛の心が欠ける、そして決裂してしまう悲しいケースが教会の中でも見られます。なぜ和解できず、決裂してしまうのか。それは陰険さが残っているからではないでしょうか。
グッドニュースは、だれもその陰険を直せないけれども、神様には直せるということです。そのために、神様がイエス・キリストを救い主としてこの世に送って下さったからです。すぐには、性格や性質はかわらなくとも、まずは自覚するところから始め、神様に正直に祈って告白することが互いにできれば、平和の源であるイエス様が和解に導いて下さると信じます。「これくらい、いいでしょう」という小さいことは心に根付き、後々大きな問題となっていきます。だからこそ、私も日々、自分の内側を聖霊に探っていただき*2、罪があれば示され、その罪をごめんなさいと神様の前にもっていき、赦され、清められたいと願います。自分の思いや計画が異なっても、寛容な心を与えられ、他者が自分より優れていると思える、柔和な、謙遜な心で対応できるように、その機会があるごとに心が変えられていきたいと願っています。 そうしていけば、陰険さが直されていくことでしょう。すると、たとえ思ったように物事が進まなくとも、神様に委ねることができます。そして、一度自分の立てた計画の狙い、動機をもう一度吟味し、神様の思いにそった計画に導かれること期待し、柔軟性を持っていきたいと思わされました。
「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」 箴言16章1-3節 (新改訳聖書)
*1 エレミヤ17:9 (新改訳聖書)
*2 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23-24節)
私は先々のことを考え、計画を建てて、こつこつと準備するタイプです。でも、私の計画はいつも計画通りにいきません。つまり、私の計画は完全ではないし、ましてや社会がどう動くかは先行き不透明であり、何事にしても計画通りにいかないのが当たり前と思っています。しかし、社会生活をする上で、計画をたて、実行することはむしろ常識的で、求められることです。ただし、計画を立てる上で、その動機というのが今日の聖書の箇所のよると計られるようです。
自身も含め、人は自分の考えたことは正しいし、妥当だと、自分の常識や自分の置かれた立場、状況によって思い、それらの考えに基づいて、計画し、実行するでしょう。ただし、人の価値基準は相対的であり、時代や国によっても異なります。その人には良くとも、周りの人には共通して正しいことでない、損となる場合もあります。皆が神様に自分の都合に基づき、「願いを叶えて下さい」と祈ったとしたら、利益が相反してしまうのではないでしょうか。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 *1と聖書には書かれています。性格の良い人、仁徳がある人は、「私は陰険ではない」と思うかもしせません。しかし、もしかしたら本人に自覚がないだけかもしれません。聖書の前提が、人は罪の性質を持って生まれ、自分の持ち前の気質では聖く、正しくいられず、自己中心的な思いは必ずあるというところに立っています。それを「陰険」と表現してしまうのは、いささか言い過ぎなのでしょうか。キリストを信じた後でさえも、その陰険な性質が残っている場合があります。例えば聖書を基に、自分の行い・主義・主張が神の前に正しいと思い、他者を裁き、愛の心が欠ける、そして決裂してしまう悲しいケースが教会の中でも見られます。なぜ和解できず、決裂してしまうのか。それは陰険さが残っているからではないでしょうか。
グッドニュースは、だれもその陰険を直せないけれども、神様には直せるということです。そのために、神様がイエス・キリストを救い主としてこの世に送って下さったからです。すぐには、性格や性質はかわらなくとも、まずは自覚するところから始め、神様に正直に祈って告白することが互いにできれば、平和の源であるイエス様が和解に導いて下さると信じます。「これくらい、いいでしょう」という小さいことは心に根付き、後々大きな問題となっていきます。だからこそ、私も日々、自分の内側を聖霊に探っていただき*2、罪があれば示され、その罪をごめんなさいと神様の前にもっていき、赦され、清められたいと願います。自分の思いや計画が異なっても、寛容な心を与えられ、他者が自分より優れていると思える、柔和な、謙遜な心で対応できるように、その機会があるごとに心が変えられていきたいと願っています。 そうしていけば、陰険さが直されていくことでしょう。すると、たとえ思ったように物事が進まなくとも、神様に委ねることができます。そして、一度自分の立てた計画の狙い、動機をもう一度吟味し、神様の思いにそった計画に導かれること期待し、柔軟性を持っていきたいと思わされました。
「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」 箴言16章1-3節 (新改訳聖書)
*1 エレミヤ17:9 (新改訳聖書)
*2 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23-24節)