Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

召命?コーリング?

2021年05月05日 | 日記
 よく、クリスチャンの世界では「あなたの神様からの召命はいつ?どのようにありましたか?」と、特にある人が牧師もしくは宣教師になろうとすると必ず聞かれます。その答えとして「どこどこの集会で祈っていた時、神様に私は呼ばれました」、「聖書のこの箇所が示されて、私は牧師になる決心が与えられました」等、また晩年牧師になった私の父の場合は「イスラエル旅行に行った時、死海のほとりで神様の召命を受けた」と言っていました。また、伝道集会に行って、その場でキリストを信じる決心をし、まもなく「私は献身し、神学校に行きます!」と信じてすぐに牧師になろうという若い人もいます。各々が牧師や教師になる自分なりの理由を持っていて、他者への説明が求められます。何事も、その動機が重要です。しかし、いつ、どこでという、ピンポイントの召命でなければならないのでしょうか。
 オズワルド・チェンバース*という、スコットランド出身の19世紀の伝道者、神学校教師、説教者が神の召命についてこう記していました。「我々が忘れがちなことは、神は私たちに、霊的に、超自然的に触れられるということです。もし、神の召命を受けたのはいつ、どこで、どのようにと正確に全て説明できるのであれば、あなたが本当に神の召命を受けたのか疑問です。神の召命はそのように来ないからです。神がその人を呼ばれたと認識する仕方はもっと超自然的な呼びかけであり、雷鳴のようなもの、もしくは、ゆるやか夜明けのようなものです。それは表現し難いものであり、輝きを生み出します。」
 私は、オズワルド・チェンバース師のような霊的な神様に用いられた偉大な人の定義する召命が、全ての人に当てはまるかどうかはわかりませんが、「表現のし難い、もっと心の深い部分での霊的な呼びかけである」ということには同意できます。召命というのは、神様が個人に語り掛けるものであって、個々人の体験であり、よって必ずしも論理立てて他者に説明できるとは限らない、もしかしたら口で説明するともっとあいまいなぼんやりしたものの場合もあると思います。聖書を読んでいて、旧約時代の預言者やパウロのことばから見いだせる共通点は、神様から福音伝道に呼ばれている人々は、神のことば・福音をなんとか人々に伝えたいという、「そうせずにはおられない」という一種の押えがたい欲求で動かされていること、それが原動力となって、どんな迫害にも困難にも耐え、主に期待して、喜んでいるという姿です。
 私のような名もない信徒のレベルであっても、少なくとも、神様の愛、キリストの福音をもっと人々に知らせたい、説明したいという欲求は夜明けのように、いつの頃から次第に与えられてきました。私の場合それが原動力となって、突然アメリカに単身で移住したリ、日本に帰って結婚したりとなっていて、傍からみると一つのところに落ち着かない不安定な生活に見えるかもしれません。しかし、私の中には一貫性があり、神様に守られ、導かれているという安心感があり、神様がキリストの福音を伝えるために私をどう用いられるだろうかと迷いながらも探り求めた結果が、今の自分であると言えます。私は欠点の多い、神様に用いられるにはふさわしくない資質で、自分を見ると落ち込みます。しかし、神様はあえてそのようなふさわしくない者さえも用いられると信じます。もし、こんな私がどんなに小さい働きであっても、誰かの心に神様を求めるきっかけの種を蒔くことに用いられれば、自分の能力・資質を誇るのではなく、全て神様の力と業のおかげであると神様に栄光が返されるためのサンプルとなり、私の喜びとなります。キリストを信じる信仰が与えられている人生の豊かさと神様の救いの恵み、神様の私たちに対する無償の愛を知らない人々に伝えたい、また辛い時には神様が共にいて下さるから、なんとかなるという事を伝えたいと、日々願っています。
  
「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」第一コリント人への手紙9章16節 (口語訳聖書)


*オズワルド・チェンバーズ(Oswald Chambers, 1874年6月24日 - 1917年11月15日)は、スコットランド出身、バプテスト・ホーリネス ムーブメントの伝道者、神学校教師、説教家。著書「『いと高き方のもとに(My utmost for his highest)』、いのちのことば社、1990