Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

3.11と9.11

2021年09月13日 | 日記
 日本人にとって忘れらない、悲しみの日の一つは2011年の3.11、東日本大震災の日であると思いますが、アメリカ人にとって同様に忘れられない日は、2001年の9.11、同時多発テロが起こった日です。今年でちょうど20年が経ち、アメリカの各地で式典が行われ、教会でも残された遺族たちの悲しみに神様の慰めが与えられるように祈ったことでしょう。私は個人的に、これらが起こった日にアメリカと日本にいなかったのですが、その前後に両国に在住していた者として、両日ともにその日が来ると深い悲しみを覚え、祈りを捧げています。そして今、新型コロナウイルスのパンデミックが起こり、もはやこれは一つの国や地域だけでなく、世界中の地域でこのウイルスが広まり多くの方が亡くなっているという患難の時代に私たちは直面しています。

 なぜこれらが起こるのか?というよりも、なぜ人の命が突然奪われてしまうのか?という疑問に行きつくのだと思います。災害も、事故も、病気もなければ、人は長くて100歳くらいまで生きられるだろうという前提があって、その前提が破られるからです。建物であれば、壊れてもある程度再建がなされます。しかし、命は再建ができません。逆に言えば、たとえすべてが失われてしまっても、命さえ残ればやり直せます。元通りの生活ができないとしても、新しい生活にて生き続けられます。その命よりも、経済を優先するのかとの声が今巷であがっていますが、経済活動と人命救助の両立は、どの政府にとっても難しい政策です。政府も試行錯誤しますが、国民も何をしてよいか、何が最善なのか、私たち一人一人に問われていることだと思います。

 「神がいるなら、なぜこのような災害やテロ、病が起こることを許されたのか」と、思う人々のことも考えます。もし神がいるなら全て平和になるよう支配できるはずだと。なぜ人間を好きにさせているのかと。もし神が、人を平和的に生きるようプログラムしたロボットとして創られれば、そうなるかもしれません。しかし神様はそうなさらず、自由意志を持つ存在として人を創られました。自発的に自分の意志で「良い」ことを選択し、神様を信じてほしいからでしょう。不条理なことはたくさんあります。しかし明らかなことは、神様が不条理なことを引き起こすのではなく、人間が引き起こしているということです。そうだとしても、「なぜ?」という質問はでてきます。それを神様にぶつけてよいのです。そこから、模索が始まり、神様との対話が様々な媒体を通して始まり、結局、神様を求めることに繋がるからです。そしてその質問に答えられるのは、人ではなく、神様だけです。

 聖書では命は、単なるこの体が生物学的に生きることだけを指しません。命とは、キリストを知って信じ、救われることを指し、死とはキリストを信じず、救いから外れてしまうこと、という2元論的な内容と言えます。キリストについてどの様な情報を「信じる」のでしょうか。まず、イエス・キリストが今存在している全てを創った神であること*1、そしてキリストがその被造物である人間を大切に思い、永遠に神と共に生きれるように、自ら人となってこの世来られ、私たちの罪が赦され、救われるために、代わりに神からの罪に対する罰をうけ、死なれたこと、神により復活されて今も天で生きておられること、これらのことを信じる人が永遠の命を与えられるということです。

 そんなことをどうやって信じるのか?と思われる人もいるかもしれません。「人には出来ないが神には出来る」*2、とイエス様は言われました。これは、人には「そんなことを信じるなんてありえない」と思えても、神様の力によって、求める人には信仰も与えられることを含みます。人はどういう時に本当の神様を求めるかというと、たいがい、その人が困っている時、自分の思うように人生がいかない時、苦しんでいる時に助けを求めます。そして、自分を救ってくれる神様を求め、そしてキリストに個人的に出会うのです。単に、神様は今困っている状態から救うのではなく、魂のもっと深い根本的なところから、湧いてくる質問「自分はなぜ存在していいのか」にキリストは愛を持って答えてくれます。「私があなたを目的を持って存在させた、愛するために存在させたんだよ」と。

 使徒パウロは、下記のみことばにあるように、キリストを宣べ伝える活動において死を覚悟する程の患難に何度も会いましたが、そのたびに助けられ、神様への希望が強まって行ったことを記しています。このように、をあらゆる苦難の中にある人々に、信仰を持つきっかけ、もしくは信仰が強められる時は、ある意味、患難の時かもしれません。そう思えるとしたら、その辛い体験をした人にのみ理解できることでしょう。今、多くの辛い思いの中にいる方々が、パウロやそのほか多くのキリストを信じる信徒たちが経験してきたように、神様に助けを求め、神様に助けられるという経験を重ね、どんな時でも神様がなんとかしてくださると信頼できるようになり、心に安らぎと希望を持てますように、祈ります。また、神様が、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださったので、今こうして、平安のうちに恵みを受けて生きています。ですから、神様が全ての人を心にかけて下さり、慰めを与えて下さる方であることを、今苦難の中にある方々へ伝えていきたいと願います。

「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」 コリント信徒への手紙2一章9-10節
 
*1 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 」ヨハネによる福音書1章1-3節 (言とはイエス・キリストを指します)
*2イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 マタイによる福音書19章26節  (聖書引用 新共同訳聖書)