梅雨が明け、猛暑の時期となりました。今年は我が家で、プランターになす、きゅうり、トマト、ピーマンの苗を植え、少しですがしばらくの間収穫を楽しむことができました。近所の方もこれらの小さな野菜の成長を見ていて下さり、そのことで会話をかわし、少しだけですがお裾分けできたり、毎日実がなるのを楽しみにしていました。ところが、折しも、熱海に土石流を引き起こした線状降水帯の大雨の時に、これらの野菜は風と大雨で根ごと倒されてしまいました。急いで修復したのですが、それ以来元気がなくなり、水をあげても実がならなくなり、厳しい太陽に照らされて涸れてきてしまいました。とても悲しくなりました。来年は、大雨が降るときには、軒下に移動するなどして野菜を守らなければならないと思います。このように、植物は自然のままではうまく成長せず、損なわれてしまうことがあり、実を結ぶことは簡単ではないことを毎年失敗しながら、試行錯誤しています。
私が小さな野菜を惜しんでいる一方、今年の自然災害、特に洪水の被害は日本だけでなく世界各地でもニュースで報道されており、多くの方々の命が失われていることは心痛みます。聖書に、小さな木が枯れたことを惜しむ人と、12万の人々の命を惜しむ神様のストーリーがヨナ書という書簡に記されていることを思い起こします。ちょっとわがままなヨナという預言者は、自分に日陰を作ってくれていたトウゴマの木が一夜にして涸れてしまい、翌朝太陽がヨナの頭上に照りつけ、暑くてぐったりすると、「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と神様に文句を言いました。すると、神様はヨナに「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。お前は…一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」*1と言われました。
そもそも、ヨナは神様から「ニネベに行け」と命令されていましたが、自国を苦しめていた残虐な国アッシリアへ行くことを拒み、結果船の旅の途中、大魚に呑まれて生死をさまよい、神様に悔い改めて、ニネベの岸に吐き出されます。ヨナは、ニネベの人々が神様からのメッセージを聞いて悔い改め、救われてほしくなかったのです。案の定、ニネベの人々は、ヨナの簡単なメッセージで悔い改めてしまったのです。私たちは、目の前の小さなイベントにがっかりし、文句を言ったり、ましてや残虐に人を殺す者を「赦せない」と思ってしまうのが正直な感情でしょう。ヨナは私の自己中心的な態度、また自分の正義感にもとづく他者にたいする裁きの心を現しているようで、ヨナを責められません。
しかし、神様は私たちとは全く異なり、どんな人に対しても、滅びて欲しくないと救いの手を差し出す方であり、慈悲深く、情け深い方だと聖書を読んでいて思わされます。そのような神様にキリストを通して救って頂いた私は、今でもヨナ的であり、他者に対していつも慈悲深くなく、冷たい人間だなと自分をみると落ち込みます。しかし、それでも、いや、それだからどうしたらいいのかと考えると、不完全で、実を結んでいなくともイエス・キリストにつながり続けることだと下記のみ言葉を通して示されました。つながるには、私が「つながろう」という自分の意志、いつもそう出来なくともそう努めようとしつづける決意が前提であり、それは能動的に私のなすべき責任です。ただ棚から牡丹餅状態で何もしないのでなく、自分の思いをキリストにつながらせようという意志を持ち続ける必要があります。そして、自分をイエス様につなげて頂いた後はお任せする、つまり受動的に栄養を流していただけることになります。私自身が栄養を造らずとも、イエス様が流して下さる栄養をもって、時間がかかっても実を結んでいけるのではないでしょうか。イエス様の側からすると、「わたしもあなたがたにつながっている」というのは、私たちがまず、イエス様を受け入れて、イエス様を私にコネクトさせてはじめて、イエス様が私につながっていてくださり、木が枝に養分を送るように、キリストの力を、愛の性質を私に送ってくれるわけです。
キリストにある愛の実、たとえば喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制*2を、自分の素の性質で結ぶことは私にはなかなか出来ません。しかし、私が生活の中で与えられる希望の一つは、こんな自分でもイエス様につながり続ければ、いつかは実を結び、周りの人々にキリストの愛を示せるように変えられていくということです。主体的、能動的にイエス様につながっていようと、日々み言葉を読んで、思いめぐらし、後は受動的にキリストの愛を流して頂き、それが自分から溢れ出て外へ流れ出ますように、祈りたいと思います。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」ヨハネによる福音書15章4節 (聖書引用、新共同訳)
*1 ヨナ書4章9-10節
*2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23
私が小さな野菜を惜しんでいる一方、今年の自然災害、特に洪水の被害は日本だけでなく世界各地でもニュースで報道されており、多くの方々の命が失われていることは心痛みます。聖書に、小さな木が枯れたことを惜しむ人と、12万の人々の命を惜しむ神様のストーリーがヨナ書という書簡に記されていることを思い起こします。ちょっとわがままなヨナという預言者は、自分に日陰を作ってくれていたトウゴマの木が一夜にして涸れてしまい、翌朝太陽がヨナの頭上に照りつけ、暑くてぐったりすると、「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と神様に文句を言いました。すると、神様はヨナに「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。お前は…一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」*1と言われました。
そもそも、ヨナは神様から「ニネベに行け」と命令されていましたが、自国を苦しめていた残虐な国アッシリアへ行くことを拒み、結果船の旅の途中、大魚に呑まれて生死をさまよい、神様に悔い改めて、ニネベの岸に吐き出されます。ヨナは、ニネベの人々が神様からのメッセージを聞いて悔い改め、救われてほしくなかったのです。案の定、ニネベの人々は、ヨナの簡単なメッセージで悔い改めてしまったのです。私たちは、目の前の小さなイベントにがっかりし、文句を言ったり、ましてや残虐に人を殺す者を「赦せない」と思ってしまうのが正直な感情でしょう。ヨナは私の自己中心的な態度、また自分の正義感にもとづく他者にたいする裁きの心を現しているようで、ヨナを責められません。
しかし、神様は私たちとは全く異なり、どんな人に対しても、滅びて欲しくないと救いの手を差し出す方であり、慈悲深く、情け深い方だと聖書を読んでいて思わされます。そのような神様にキリストを通して救って頂いた私は、今でもヨナ的であり、他者に対していつも慈悲深くなく、冷たい人間だなと自分をみると落ち込みます。しかし、それでも、いや、それだからどうしたらいいのかと考えると、不完全で、実を結んでいなくともイエス・キリストにつながり続けることだと下記のみ言葉を通して示されました。つながるには、私が「つながろう」という自分の意志、いつもそう出来なくともそう努めようとしつづける決意が前提であり、それは能動的に私のなすべき責任です。ただ棚から牡丹餅状態で何もしないのでなく、自分の思いをキリストにつながらせようという意志を持ち続ける必要があります。そして、自分をイエス様につなげて頂いた後はお任せする、つまり受動的に栄養を流していただけることになります。私自身が栄養を造らずとも、イエス様が流して下さる栄養をもって、時間がかかっても実を結んでいけるのではないでしょうか。イエス様の側からすると、「わたしもあなたがたにつながっている」というのは、私たちがまず、イエス様を受け入れて、イエス様を私にコネクトさせてはじめて、イエス様が私につながっていてくださり、木が枝に養分を送るように、キリストの力を、愛の性質を私に送ってくれるわけです。
キリストにある愛の実、たとえば喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制*2を、自分の素の性質で結ぶことは私にはなかなか出来ません。しかし、私が生活の中で与えられる希望の一つは、こんな自分でもイエス様につながり続ければ、いつかは実を結び、周りの人々にキリストの愛を示せるように変えられていくということです。主体的、能動的にイエス様につながっていようと、日々み言葉を読んで、思いめぐらし、後は受動的にキリストの愛を流して頂き、それが自分から溢れ出て外へ流れ出ますように、祈りたいと思います。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」ヨハネによる福音書15章4節 (聖書引用、新共同訳)
*1 ヨナ書4章9-10節
*2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23