前回のVol.106で書いた那覇の国王の婿候補となった大里王子朝長ですが、第二尚氏の血縁から見て見ると以下のようになります。
黄色のところが朝長ですが、第二尚氏の初代である尚円王の系統になります。7代尚寧王の従妹になります。
この朝長ですが、下記の小禄家の家譜によると、尚寧王の時代は中城間切の地頭職についています。中城といえば世子の領地ですが、この時代はまだそれが確定されておらず、11代の尚貞王の時から世子領は中城となりました。よって朝長は王位を継ぐ世子ではありません。
尚寧王世代
萬暦二十七年己亥二月二十二日卒享年五十號春山葬于浦添極樂陵
四世朝長(島添大里王子)
童名眞三郎金唐名尚煕行一號瑞公(生卒不傅葬于平良墓)
父朝久
母不傅
室
尚永王姫聞得大君加那志童名思武太金(萬暦十二年甲申九月初七日誕生順治十年癸巳三月二十日卒壽七十號月嶺)
長女勢能君按司加那志童名真蜷甲金(萬暦二十八年庚子三月十三日誕生尚氏金武王子朝貞室生一女後離別順治十二年乙未十二月二十一日卒享年五十六號瑞岩一女聞得大君加那志乃月嶺為猶子然瑞岩與女子共同骨故安置向氏大宜味按司朝知墓)
萬暦二十七年己亥二月二十二日卒享年五十號春山葬于浦添極樂陵
四世朝長(島添大里王子)
童名眞三郎金唐名尚煕行一號瑞公(生卒不傅葬于平良墓)
父朝久
母不傅
室
尚永王姫聞得大君加那志童名思武太金(萬暦十二年甲申九月初七日誕生順治十年癸巳三月二十日卒壽七十號月嶺)
長女勢能君按司加那志童名真蜷甲金(萬暦二十八年庚子三月十三日誕生尚氏金武王子朝貞室生一女後離別順治十二年乙未十二月二十一日卒享年五十六號瑞岩一女聞得大君加那志乃月嶺為猶子然瑞岩與女子共同骨故安置向氏大宜味按司朝知墓)
尚寧王世代
萬暦年間任中城間切總地頭職
萬暦三十七年己酉中山為薩州之附庸由此同五月十九日我 王渡御于薩州而投情時為隨從此日那覇開洋到于薩州同三十九年辛亥九月十三日歸國矣
萬暦四十六年戊午十二月二十日轉任島添大里間切總地頭職
萬暦年間任中城間切總地頭職
萬暦三十七年己酉中山為薩州之附庸由此同五月十九日我 王渡御于薩州而投情時為隨從此日那覇開洋到于薩州同三十九年辛亥九月十三日歸國矣
萬暦四十六年戊午十二月二十日轉任島添大里間切總地頭職
尚豊王世代
天啓七年丁卯六月初四日賜知行高四百斛
天啓七年丁卯六月初四日賜知行高四百斛
そしてもう1つ注目すべきは、萬暦四十六年戊午十二月二十日轉任島添大里間切總地頭職
この島添大里間切地頭職というのは、「島添」とは「島々を支配する」という意味を持つそうです。
南山時代の島添大里按司は大里・佐敷・知念・玉城地域を支配下に置き、中国の明王朝とも盛んに貿易を行っていたと言われるほど、当時大きな勢力を誇っていたようです。
朝長の時代は三山統一後ですので、琉球王府による辞令書によってこの大里の地頭職に就いていますが、島添とついているので琉球の島々をやはり支配していたのではないかと思われます。
ここで1つ問題点がみつかりました。島添大里間切地頭職についたのが万暦四十六年(1618年)となっています。あれ? 薩摩藩が侵攻してきたのは1609年ではないか!
年代が合わず気になるところですが、、、
実は朝長の娘である勢能君が喜屋武朝重(きゃん ちょうじゅう、1600年 - 1653年)という親族と結婚して婿入りさせて島添大里間切地頭職を継承させています。朝重が26歳(1626年)ということですが、その後に二人は離婚しており、朝長は実家の跡目に戻って喜屋武間切の総地頭に転任したそうです。
その点を考慮しても、やはり薩摩藩が侵攻してきた1609年と島添大里間切地頭職になった1618年は年代が少し合わないですね。
しかし、萬暦年間任中城間切總地頭職との記録もあるので、万暦年間に中城間切地頭職と島添大里間切地頭職の兼任も無理があると思うので、このあたりはグレーということでしょうかね。
年代問題が出てきてパーフェクトな考察とまではいきませんでしたが、可能性を探りながらご先祖様の繋がりを発見してしていくことが大事です。
もしかしたら那覇の国王の婿は他の人の可能性だってあるかもしれませんので、引き続き調査をしていきたいと思います。