和泊町誌歴史編 P143に薩摩藩が侵攻してきた時の様子が書かれています。
その中に驚くべきことが書かれているのです。青でラインを入れている箇所です。
島主である首里の主(那覇の国王の婿)と書かれています!
この島主である首里の主とは、沖永良部島が薩摩藩に侵攻される前の琉球時代に、琉球から派遣されていた(島民であった可能性もある)大親子や大屋子と呼ばれた役人の類です。
この大親子や大屋子などの役職を当家のご先祖様が代々やっていたという伝承と、この薩摩侵攻時の島主が当家のご先祖であった平安統という人であったとうことは、Vol.61で島唄の歌詞のことからも書いておりますが、その島主が那覇の国王の婿だったという話です。
薩摩侵攻時の琉球の国王は第二尚氏:7代目の尚寧王です。
記述の内容からすると、この琉球の国王である尚寧の娘と結婚している婿が、沖永良部にいた首里の主=平安統ということになるのですが、、、
そもそも尚寧王には子供がいたのでしょうか?
色々と調べてみたのですが、子供の存在が見当たらない。。。
もしかしたらと思い、尚寧の前の国王であった6代目の尚永王を見ると、娘が二人いました。
尚永王の娘
長女 - 阿応理屋恵按司加那志:童名・真銭金、号・南叢、尚寧王に嫁ぐ。
次女 - 聞得大君加那志:号・月嶺 小禄御殿支流四世大里王子朝長に嫁ぐ。
あれ?
長女は尚寧王に嫁いでいますね。
そうでした、尚永王には世継の嫡子がいなかったので、親戚になる尚寧と自分の娘を結婚させて次の国王にしたのでした。
那覇の国王が尚永王のことだとすれば、その王の婿は尚寧王ということになりますが、彼は薩摩侵攻時は沖永良部の島主ではなく那覇の国王です。よって、国王の婿は長女の夫である尚寧ではありません。
次女の方ですが、大里王子朝長に嫁いでます。この朝長という方は向姓家譜・小禄家に記録がある方です。
次女は万暦12(1584)年生まれで、薩摩侵攻時は25歳。夫である朝長は生卒不明となっていますが、恐らく妻とは同年代でしょう。
天啓7(1627)年に8代国王であった尚豊時代に知行高の記録がありますので、少なくともこの年までは生きています。妻と同じ1584年生まれとしたら1627年で43歳です。
年齢や状況で見ると、和泊町誌に掲載の那覇の国王の婿とは、この朝長のことではないかと思われます。もちろん私の素人的な考察ですが、、、
そもそも和泊町誌に記載のこの記述内容の出どころがね、、、分からないんですよ。そのあたりも調べてみないといけないのですが。
この朝長さんのこと、私の中では今は那覇の国王の婿候補No.1として君臨しております。
次回はこの方のことを、もう少し書きたいと思います。