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先祖を探して

Vol.105 義本王の三男(2)


前回のVol.104で書いた義本王の三男説ですが、以下のような伝承があります。

義本王が統治した時代は飢餓や疫病が大流行し、国民の半数が死亡したと言われています。そのため義本王は心を痛め、徳の無い自分では国を統治するのは無理だと責任を取ってわずか11年で退位し、血縁はないけど国民に慕われていた英祖に王を譲ったとされています。
その後に国頭の山中で隠居を始めた義本ですが、やがてその地域の娘との間に男の子をもうけます。しかし、当時のしきたりでは、自分の集落外の人との恋愛は許されざる行為。娘や娘の親は、この子どもをどうするべきか悩みました。
 
悩んだ末に結局、男の子を手放す事を決意し、朱塗りされた桶に水が入らないよう子どもを寝かせ、「徳のある方が拾って下さいますように」と願い、海へ放ちました。数日間、海を漂った桶は伊是名島までたどり着き、そこで漁師によって拾われます。
 
漁師が桶の中を確認するとびっくりしたことに、中には赤ちゃんがぐったりした様子で入っていたのです。すぐに水を与えて、何とか泣き出した赤ちゃん。子どもを亡くしたばかりのその漁師は「神様からの授りものだ! 我が子の再来だ!」と喜び、家へ連れて行きました。
 
そして、夫婦で大切にその子どもを育てます。愛情をたくさん受けて育ったその子は、村でも評判の好青年へ成長していきます。
 
その青年の子孫に、やがて金丸という男の子が現れ、金丸は尚円王という名の琉球国王にまで上り詰めます。江戸幕府よりも長い、19代410年も続く第2尚氏の初代国王として琉球史の中に燦然と名を残す金丸こと尚円王。
 
その祖先となる義本王は、国王の地位や息子を手放したあと、ひっそりと逝去し、山の中に陵墓が作られたと伝わります。義本の墓と伝えられるものは、国頭や北中城、さらに鹿児島の奄美地方にもあります。

この伝承が事実とすれば、
義本王 → 三男(隠居後に国頭の娘との子供:伊名島へ流れつく) → 数代後の子孫が金丸=尚円王 
ということになりますが、赤ちゃんを桶に入れて海に流し、しかも伊是名島まで流れ着くまで無事だったとは、川から流れてきた桃太郎みたいに少し現実味がない話ですよね。実際には海に流したのではなく、島で里親を探したっていうのでしたらあり得るのでしょうが。

伝承は史実ではないので、全てを鵜呑みにすることはできませんが、逆に事実がなければ伝承は語られないと思うので、話のどこかの部分は事実なのだと思います。

義本王が生きたとされる時代が1209~1270年頃、伝承ではその三男とされる男児が海流しされ伊是名島で育ち、その子孫である金丸=尚円王が生まれたのが1415年、約200年後の子孫ということになりますね。1代30年で考えると、6~7代を経ての金丸が登場し、第2尚氏として歴史の表舞台で活躍します。

お爺様の書には、今のところはこの義本王の三男の詳細についての記録は見つかっていません。どこかに記録が残っていないものか、探求の日々は続きます。

当家の先祖は中城御殿という情報に繋がる金丸=尚円王については、先祖探しの情報の1つとして別記したいと思います。


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