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先祖を探して

Vol.144 与人データから見えたこと


奄美群島の島々は、1609年の薩摩侵攻時以降は琉球時代からの制度が廃止され、薩摩の統治下での厳しい生活がスタートしました。
一番変化に戸惑ったのは、もしかしたら支配階級層の人達だったかもしれませんね。

琉球時代の島の最高職であったのは、大屋子(大親子)と呼ばれる役職で、首里の主などとも呼ばれたり、与論・永良部・徳之島の三島を統括していた三嶋大親子などと呼ばれた役職者もいたようで、そこあたりの役職名や階層は、少しはっきりしないところがあります。
また島々によって呼び方や役職が少し違っていたようです。

薩摩が侵攻した当初は、しばらくは琉球時代の大屋子や首里の主が沖永良部島を統括していたようですが、1623年には奄美5島に完全に大屋子制度の廃止の通達があったようです。

大屋子や首里の主などに変わって沖永良部島を島役人として管理するようになったのは、与人と呼ばれる役職者です。薩摩からは代官が赴任し、代官が県知事のような役割で、与人が市長のような役割だったのかもしれません。
沖永良部で記録がある最初の与人は、要家の古文書にある「次郎かね」という方です。この方は、琉球時代の最後の大屋子でもあったようです。

この「次郎かね」と同時代位の与人として、当家のご先祖様である「中城」が記録上に登場します。
沖永良部では3つの間切りがあったようなので、同時期に3名の与人がいたはずですが、1711年頃までは記録が全て無いようで、そこがはっきり分かりません。

今回私は、当家のご先祖様が琉球時代は代々大屋子、薩摩の管轄になってからは代々与人を務めていたということで、当家を含めた与人達がどう移り変わっていったのかを調べて、表にまとめてみることにしました。

1. そもそも与人職って就任してから何年ぐらいやっていたんだろうか?
2. 琉球の役職者は十代の頃から役職についていた者もいたようだが、与人はどうだったんだろうか?
3. 間切りで与人職があったが、それは居住地での与人職として選ばれていたのか?
4. 世襲制だったのか?

こんな疑問点を解消すべく、和泊町史やその他の資料からデータをピックアップしました。
このデータは1814年の当家の最後の与人職のところまでしか作っておりません。実際には、1865年までの与人データがありますが、当家の動きをメインで見たかったので、以降はカットしています。

データには与人就任年度が分からない物もあり、与人として活動した履歴があるものもありましたので、そこも含めて表にしています。
鹿児島への上国や、琉球への渡流のデータも入っておりますが、これが全てではありません。特に鹿児島への上国は与人が変わるたびにあっていますし、任期中も2年に1回で上国していたようなので、もっと回数は多いと思います。






まず当家のご先祖様ですが、記録上の最初の中城を1代目として、7代目まで継続して与人職をやっておりました。名前のところを赤文字で表示しているのが当家のご先祖様ですが、婚姻関係で親戚になっていることが明らかに分かる方も赤文字にしております。
当家の7代目以降あたりからは、時代が明治に近づき、島の支配層が琉球から鹿児島を出自とする人に移り変わっていったようです。

与人になる前には、目差しなどの役をしてから与人にあがった者も確認出来ました。ここには与人としての記録しかないのではっきりとは分かりませんが、与人になる前は皆さん卵として、与人以下の役職として活動していたのだと思います。

疑問1の就任期間ですが、おおよその区切りを色分けしています。3名だったり4名だったりの数の違いは、同期間中に死亡などでいなくなった後に就任した人が入っているからです。
就任期間ですが、ざっくりとは5・6年が任期なのでは?と見れます。時代によっては10年程やっていたような感じもありますが、一度与人になれば、何十年もやっていけるというわけではなかったようです。

疑問2の就任年齢ですが、これは当家のデータしかないので確実ではありませんが、だいたい早くても30代後半からで、40歳過ぎでからが多いですね。
日本のビジネス界と同じような感じですね。

疑問3の担当間切りですが、必ずしも居住地ではなかったようです。当家の場合は喜美留か久志検が多いですね。前任の退職状況などもあるので、例えば大筋は喜美留だが、久志検で現職が急死の場合はそちらの与人でといった感じだったのでしょう。

疑問4の世襲制ですが、ほぼそうだったようですね。当家に限らず、他でも同じ名前が沢山出てますので、基本はそうだったのでしょう。
ただ、初めから世襲制と決めてあったわけではなく、与人の家では子供に後を継いでもらいたく教育もしっかりやっていたでしょうから、島の代官の推薦で鹿児島の家老に推薦状がいく時に、必然的に教育を受けた適切な人材ってことで結果として世襲制になっていたのだと思われます。

この表を作りながら、実は親戚だと思われる名前の家が沢山ありました。繋がりがはっきり分からないので、それは今後ボチボチと調査していきたいなとは思っていますが。

沖永良部島で作成されている与人一覧では、私が持っていたデータは繁栄されていませんでしたので、もしかしたら現在はこれが一番詳しい資料かもしれません。
もし、このデータを見た島の方がいらして、ご自分の家のご先祖様のデータで追加できることがあれば、ぜひ教えて頂きたいなと思っております。
これは私というより、島の財産としてデータを充実させて残せたらと思っております。
ご協力いただける方がいらしたら、ぜひメッセージをくださいね。


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