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先祖を探して

Vol.65 奄美諸島編年史料から見るご先祖様

奄美諸島編年史料の上・下巻から、以下のような情報を得ることができました。当家のご先祖様にも書籍のデータからお目にかかることができました。(情報が多いので、漏れがあるかもしれません😅

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①1466年 泊宗重 
 琉球より北緯の奄美地方の管轄をする 
(2021年5月13日:先祖探し 名前からの考察1【宗重】)の記事にした人で
 す。
 *呉姓

②1539年 毛 盛寛 
 国頭・与論・永良部の政治を司る役人に任命

③1543年 毛 盛寛 
 国頭・与論・永良部の御物城(おものぐすく)職に任ず
(中国をはじめ諸外国との交易品を保管する倉庫として築かれた城)

④1568年 毛 盛埋 
 5島の政治を司る役人に任命

*毛姓は護佐丸の子孫

*②③の盛寛の兄弟である盛□←(文字が不明)は泊宗重の長男の子孫が養子
 になっているとのことで、毛家は泊宗重と繋がっている。
*兄弟であることが分かるのは 上巻 p118の系図に記載

⑤1558年 名前不明 
 首里大屋子 永良部に任ず 名前が不明です。誰だったのでしょう。

⑥1568年 栄 吉久
 永良部大屋子に任ず 琉球から赴任 → 1580年 44歳で死亡

*栄姓は①泊宗重の呉姓の筋にある  

⑦1575年 容義貫を永良部の役人に任ず 
 琉球から赴任 妻は永良部大屋子の娘で眞鶴

*役人というのが大屋子のことなのか? 嫁の眞鶴は栄 吉久の娘かな?
*容姓は①の泊(呉家)の系列のようです

⑧1608年 永良部首里主の思鎌戸 徳之島も兼任
 徳之島の大屋子が急死にて、徳之島に3年在島し兼任。
 その間に、死亡した徳之島の世之主の後妻と縁組し子供を設ける。 
 1612年 思鎌戸死す

*縁組し子供もできたので、それなりに若かったと思われるが、兼任後4年程
 で他界 若死か?
*1609年薩摩侵攻時に、戦いをせずの姿勢で薩摩との対応にあたった人物で、
 アンマメグゥという島唄に、そう歌われている。
(2021年6月1日:島唄アンマメグゥが教えてくれた真実)
 歌詞で平安統と言っているので、当時から既に名前は平安統を使っていた可
 能性がある。
 平安統は当家のご先祖です。

思鎌戸が当家の先祖といわれており、その子供(徳之島にいたであろう子供)と当家との繋がりを捜索開始!
徳之島の「八十八呉良謝佐栄久由緒記」に系図があるようで、一部は研究家の先生の方の資料や編年史にも記載がありますが、詳しく知りたくて原本情報を探しています。

⑨次郎かねを沖永良部の大屋子に任ず → 年度が不明であるが、1613年に知
 行目録があるので、それに近い年で、それより前は確か。

*思鎌戸が1612年死亡なので、その後に大屋子になったのでは?
*次郎かねは世之主の母親の家系であり、当家とも養子縁組などで血縁がある
 要家の人。

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以上が編年史から拾えた情報です。しかしこの資料は当然ながら古文書として残っている資料を集めたものですので、現存しない辞令書などの情報は分かりません。

今回の編年史の情報から見えることは、当家のご先祖様が琉球統一後に代々大屋子をしていたという言い伝えが確かであれば、三山統一後の第一尚氏時代に琉球側から派遣されていた泊宗重を始祖とする呉家や、護佐丸の子孫である毛家(呉家ともつながっている)あたりと当家が何か繋がりや関係があるのかもしれません。
調査は広域に渡ってきましたが、まだまだ続きます。

それにしても、「奄美諸島編年史料上・下」を監修された「石上英一」先生は
凄いですね。こんなに大量の資料をよくまとめられたものだと感心致します。さすがプロですね。この書籍のおかげで、一般人の私でも貴重な資料を読むことができました。大変感謝です。

  

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