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先祖を探して

Vol.86 薩摩の郷士の娘と結婚していたご先祖様

1609年3月に薩摩藩に侵攻されて以降、沖永良部島は政治的には琉球から切り離され、薩摩藩による支配が始まり、代官が島にも常駐するようになりました。
琉球時代に首里から派遣や任命されていた役人たちが、薩摩の支配下になってもそのまま与人職などについていたそうです。

当家の池久保という与人職をしていたご先祖様がいます。生まれが不明なのですが、他界したのは1695年。長男の佐久田が生まれたのが1674年。5男の平安統惟次が生まれたのが1693年。その2年後に池久保は他界しています。
20歳で長男が生まれ、39歳で5男が生まれたと計算すれば、池久保は1654年頃の生まれとなります。

この池久保ですが、妻の名前を梅千代といいます。
お爺様の書によると1660年に沖永良部で土地丈量が開始された時に、薩摩の出水郷士であった武宮大覚左衛門という人が来島しており、その娘が梅千代だったそうです。
池久保は薩摩の武士の娘と結婚しているのです。

身分階級の区別が厳しかった時代に、当家は薩摩藩の配下で与人職を代々やってはいましたが、士族の身分はもらっていなかったはずです。
それなのに武士の娘と結婚できたというのは、いったいどんな状況であったのか? 

この件に関する詳しい記録が残っていませんので、残念ながらこれ以上に追及は難しそうです。
しかし出水郷士というものについては調べることができました。


出水郷士について

江戸時代に薩摩藩に属し出水郡出水郷が置かれた。特に出水郷の武士団は事実上の鎖国状態であった薩肥国境地帯の防衛・警備・関所の管理を任ぜされ、出水兵児と呼ばれた。
当時、肥後の加藤清正との関係が悪化していた上、出水郷には豊臣秀吉に改易された薩州島津家の家臣が浪人となって在住していたため、その備えとして配置される。肥後との国境最前線のため出水郷には有能な武士が配置され、彼等は薩摩武士には珍しく、粘り強く常に実直冷静な強兵であったため、藩内でも高く評価されていた。そのため他の郷と比べて出水郷士の知行は厚遇された。


出水郷士は薩摩藩の中でも優秀な武士だったようですね。その薩摩郷士であった武宮大覚左衛門とはいったいどういう人だったのでしょうね。
この武宮さんの子孫ですが、島の与人一覧に名前がある平安山という人になるようです。現代の姓は大坪さんと言われるようですが、当家の親族としてお爺様の書には名前が書かれています。


まさかの薩摩士族との婚姻。驚きと不思議感がありますので、このあたりはもう少し調査ができたらいいなと思っております。


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