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先祖を探して

Vol.95 薩摩藩:唐通事募集(1)

道の島と呼ばれていた奄美諸島には、唐船の漂着がしばしばあったようです。琉球時代には、琉球に漂着船を届けていたようですが、薩摩時代になると鹿児島の山川に送り届けています。
1694年に沖永良部島に漂着した中国船については、島に赴任していた附役と島役人が付き添って、年貢米輸送の御用船で鹿児島の山川に送り届けています。
薩摩藩は、琉球や奄美諸島を侵攻し直轄地にしたことを中国にはひた隠しにしていたようですが、この頃の漂着船の鹿児島送り届けを通して、すでに薩摩支配は中国に発覚していた可能性が高いそうです。
特に害がなく、これまで通りの冊封ができれば中国にとっては何ら問題がなかったのかもしれませんね。それで見て見ぬふり。それもこの時代の外交政治の1つの形なのかもしれません。

1696年、「大島要文集」には、中国からの漂着船は琉球に届けて欲しいという要請があり、以降は道の島に漂着した中国船は琉球へ護送するようになったと記されています。
漂着船は中国船ばかりでなく朝鮮船もあり、同様に琉球に護送するようになったそうです。

そうした漂着船に対する護送などを含む対応ですが、島役人が対応することも多々ありました。ではその島役人たちは中国語が達者であったのでしょうか?
いやいや、どうもそうでは無かったようです。筆談や身振り手振りで何とか会話をしていたようです。
しかし、1694年には7件の漂着船が代官系図に記録されており、この年に沖永良部の西原海岸に漂着した中国船には110人も乗っていたそうです。こうした状況に対応するために、唐通事について「与論在鹿児島役人公文綴」に、次のような通達が記載されています。

沖永良部島は前々から唐通事がいないので、唐船漂着の節は、筆談または手様などで済ませていたが、以降は万一入り込みたる事も起こり、御用に差し支えるため、唐通事の稽古をしたい者がいたら、鹿児島に差し登るように仰せつけてよい。与論島についても希望者がいたら吟味を遂げ、名前と年齢を船便次第で差し出すこと。

沖永良部島代官 野村勘兵衛


こうして、身振り手振り、筆談によって漂着船への対応をやってきたが、今後は唐通事を育成してきちんと対応する策を藩が出しました。このような漂着船があった場合には、代官役人と島役人は詳細な聞き取り調査を行って、その調書を異国方に報告しなければならなかったのです。その規定が「異国方御条書」として、藩内に布告されていました。



朝鮮の漂着船に対しては、「彼の国は時折日本に使者を送っていて、他の国とは異なるため、食料等の申し出がある場合は、あり合わせの物を無料で差し上げ、介抱をすること」と特記されている。このような指示に従って、漂着した朝鮮人に一人四号の白米を渡しているが、後に一升に増やしたのだそうです。1740年頃のことです。

朝鮮の使者って、いったい何だったのでしょうかね?

こうして、漂着船への対応が決められ、唐通事の育成が始まったようですが、果たして唐通事を希望した者がいたのか?
次回に書きたいと思います。



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