事件が起こったのは1733年のことです。1609年に薩摩の支配下になり124年が経過していた時期ですが、この少し前の1728年には、「大島規模帳」「大島物定帳」「用夫改規模帳」が布令され、奄美諸島は薩摩藩による締め付けがだんだんと厳しくなっていた時期でもあるようです。
加計呂麻の渡連というところは、かつて東間切渡連方と呼ばれる地域の中心地であったそうです。ここの与人であった「文仁演:ぶにんえん」という人物が薩摩藩に出した直訴状が、奄美全島の島役人を巻き込む大騒動に発展し、代官・島役人の島流し・投獄を招いた事件です。
この「文仁演崩れ」と呼ばれる事件は、単なる関係者の処罰にとどまらず、慣例的に受け継がれてきた島役人の任命権が、完全に薩摩藩に握られることとなる結果を招いたようです。奄美に対する薩摩藩の圧政は、この事件から始まったといっても過言ではないとのこと。
*********************************
事の発端は個人的な米の貸し借りだったそうです。渡連方与人の文仁演は、親類の佐富・佐喜美・稲里という者から米を大量に借りました。「代官記」によると元利1千石の超高金利であり、返済期に都合がつかず矢のような催促を受けたとのこと。
藩は「年利三割以下を守れ」と命じているにもかかわらず、年に倍などの高利貸しが横行していたのです。佐富ら3人は、代官北郷伝太夫に米30石・金子30両と島トジ(妾)を賄賂として贈り、金利の確保を願い出た。悪徳代官・伝太夫は文仁演に「渡連方の蔵にある薩摩藩の米を横流しして金利を払え」と命じた。藩への上納時に不足米がでることを案じて、命令を拒否した文仁演に対し佐富ら3人は「不足分がでたら肩代わりで上納してやるから。」と持ちかけた。一度は代官の命令を断った文仁演も「上納米に不足がでたらまた借りる」という約束の上で、しぶしぶ横流しを承諾したそうです。
ところが上納期になると、予期したとおり不足米がでて上納できない。そしてなんと、取り分をとった佐富らは約束をくつがえし、不足米を出そうとしなかった。「代官記」によると「最前ノ約束トハ大キ相違・・・米一升モ相貸サズ」と書かれている。文仁演は、まさに見殺しにされたのです。
上納不足がでたと知るや、「蔵米の横流し」を指示した張本人の悪代官・伝太夫は、文仁演に対し血も涙もない仕打ちをします。文仁演本人はおろか、その弟の文仁志(横目)文仁覇(筆子)の家財まで差し押さえにかかったのです。記録には「はぎ取った」と表現されるほど、強権をかさにきた、すさましい略奪だったに違いない。差し押さえた家財道具は赤木名に運び、半額で佐富ら3人に売り、上納の不足分を埋めた。心配した文仁演の一族は、彼らの老母のために米を出し合い世話をする下女10人をつけたのだが、伝太夫はこの下女たちをも取り上げ、人身売買の末に米にかえた。更に文仁演兄弟の役職は取り上げられ、その与人役は佐富とともに画策した稲里の子に与えられたそうです。
単なる個人の貸し借りに、代官が乗り出したゆえに騒ぎは大きくなり、渡連方に栄えた一族は没落し、老母の面倒すらみられなくなった。しかも噂は島中に広がり、文仁演一族は笑いものとなった。意を決した文仁演は、自分をおとしめた佐富、伝太夫らとの「抱き合い心中」の覚悟を決めたようです。
とっておきの紗の反物に、事の発端からの全てを記し、本国の薩摩藩へと訴え出たのである。わざわざ反物に記録したのは、海に落ちた場合に紙だと無くなってしまうのでと考えてのことだそうです。この海を越えての上訴により、島全体の役人全員が呼び出され、そのうちの多くが投獄されるという、更なる大事件へと発展していったのだそうです。
ところが上納期になると、予期したとおり不足米がでて上納できない。そしてなんと、取り分をとった佐富らは約束をくつがえし、不足米を出そうとしなかった。「代官記」によると「最前ノ約束トハ大キ相違・・・米一升モ相貸サズ」と書かれている。文仁演は、まさに見殺しにされたのです。
上納不足がでたと知るや、「蔵米の横流し」を指示した張本人の悪代官・伝太夫は、文仁演に対し血も涙もない仕打ちをします。文仁演本人はおろか、その弟の文仁志(横目)文仁覇(筆子)の家財まで差し押さえにかかったのです。記録には「はぎ取った」と表現されるほど、強権をかさにきた、すさましい略奪だったに違いない。差し押さえた家財道具は赤木名に運び、半額で佐富ら3人に売り、上納の不足分を埋めた。心配した文仁演の一族は、彼らの老母のために米を出し合い世話をする下女10人をつけたのだが、伝太夫はこの下女たちをも取り上げ、人身売買の末に米にかえた。更に文仁演兄弟の役職は取り上げられ、その与人役は佐富とともに画策した稲里の子に与えられたそうです。
単なる個人の貸し借りに、代官が乗り出したゆえに騒ぎは大きくなり、渡連方に栄えた一族は没落し、老母の面倒すらみられなくなった。しかも噂は島中に広がり、文仁演一族は笑いものとなった。意を決した文仁演は、自分をおとしめた佐富、伝太夫らとの「抱き合い心中」の覚悟を決めたようです。
とっておきの紗の反物に、事の発端からの全てを記し、本国の薩摩藩へと訴え出たのである。わざわざ反物に記録したのは、海に落ちた場合に紙だと無くなってしまうのでと考えてのことだそうです。この海を越えての上訴により、島全体の役人全員が呼び出され、そのうちの多くが投獄されるという、更なる大事件へと発展していったのだそうです。
*奄美瀬戸内町立図書館の記述より
********************************
事件の概要は上述の通りですが、ではなぜ文仁演が米を借りたのかということです。
この時代、2.3年間隔で風水害による大凶作、飢餓が繰り返されていて、農民たちは蘇鉄や野草を食べて命をつないでいたそうです。与人たちが代官所を通じて、琉球や薩摩本国に救援米を請願します。しかし、当時の船は順風が無ければ風待ちになって米の到着も遅れ、2~3000人の飢餓が出ることも珍しくなかったようです。
こんな時に与人たちが果たせる役割は、死を覚悟で藩庫を開くか、大量の借米をして農民たちに与えるか、それとも現状を傍観するかしかなかったのです。
文仁演は島の人間です。飢え死にする島民を傍観するなんてできないし、藩庫を無断で開けることもできなかった。だから親類筋だった佐富を頼って住民たちを救ったのでしょう。
しかし、佐富たちの裏切りや悪代官によって、最悪の事態へとなってしまったのです。
薩摩から赴任していた代官のすべてが悪人だとは思いませんが、少なくともこの代官は悪人だった。悪人だったから、その周りにいる島の権力者たちも、悪人に取り入ろうと、裏切ったのでしょう。
そして、国元の薩摩に、代官、附役、文仁演兄弟、喜界島と大島の与人全員が召喚され、牢込めのまま約1年間の取り調べを受けたそうです。
裁判の結果は、代官の北郷伝太は翌年冬に徳之島、附役3人は喜界島に遠島になったそうです。また厳しい取り調べを受けて、最中に1人が病死、附役2人は判決を待たずに自害。そして事件を起こした文仁演と兄弟4人と子など5人は、佐富らが出牢したのに対し、七島灘の孤島に流されたそうです。その後の消息は不明。
代官記に書かれている文仁演の罪ですが、「再び役を命ずるべきであるが、越訴したので遠島する」
この判断、現代では考えられないですよね。だって、「代官のやったことは明らかに間違いだが、それを訴え出たのは許せない」という裁きだということです。これが越訴というものだったのです。
【越訴:おっそ】
一定の順序を経ないで、直接上級の官司に訴えること。律令制以降、全時代を通じて原則として禁止され、特に江戸時代はこれに厳罰を与えた。
一定の順序を経ないで、直接上級の官司に訴えること。律令制以降、全時代を通じて原則として禁止され、特に江戸時代はこれに厳罰を与えた。
絶対の権力者が間違ったことをしていても、それを訴えることができなかった時代や背景。圧政に苦しみながら、その怒りのはけ口すらなかった島民の苦しみが伝わってきます。
この事件以降、島役人の地位に大きな変化をもたらしたといいます。それまでは家の格によって受け継がれていた世襲制の与人職が、事件以降は藩に対する忠節の度合いによって決められるようになったそうです。そうなってくると、島民の代弁者であった島の与人が、だんだん藩の方を向いて顔色を伺うようになっていったわけですが、薩摩藩にすればシメシメの結果ですよね。だって島々の統治が容易になっていったわけですから。
現代であれば、被害者が訴える方法や仕組みが多種にあり、泣き寝入りすることも完全ではありませんが少なくなっていると思います。しかしわずかに300年程前にはそれが叶わなかった。
当家のご先祖様たちが沖永良部島でどのような気持ちで、どのような考えで与人職を代々やっていたのか。この文仁演の事件の1年後である1734年に喜美留与人になったご先祖様がいます。
この事件のこと、当然知っていたでしょう。どんな気持ちで与人職についたのか、そして薩摩と島民の間に立ってどんな統治をしていたのか気になるところですね。