ご先祖さまが代々住んでいた直城の土地台帳が全て揃いました。土地台帳は私が確認できる範囲では、土地の所有者としての記録が残る最古のもので、明治初期頃の土地の所有者が分かります。調査の対象地区においては、明治20~40年頃に記録されたものが多いです。
そんな土地台帳を眺めていたら、あることに気が付きました。
とある家の女性Zさんの名義になっている土地が、かなりの数あるのです。
このZさんは私の知人のお婆様になる方で、恐らく江戸末から明治初め頃のお生まれだと推測します。ちょうど土地台帳が作成された頃には、30~40代くらいの年齢だったのではと思われます。
そんな女性の名義になっている土地、それは畑や山林、原野ばかりではありません。宅地もご本人のご自宅以外も数件お持ちなのです。
この時代、まだまだ女性が男性と同じような立場にいれるような時代では無かったはず。島に限らず日本全体で見ても恐らく女性名義の土地は少なかったのではないかと思われます。そんな時代になぜこんなにたくさんの土地が所有できたのか?遺産相続ということも当然あり得ますが、時代背景から考えると何か不思議を感じてしまいます。
そこでふと思い出しました。沖縄は明治期に入りノロ制度が廃止されたときに、ノロが所有していた土地はそのままノロの名義になったような話を聞いたことがあります。もちろん全ての土地がそうだったわけではないでしょうし、細かくは色々とあったようですが、ざっくりとはそのような話で、またノロが拝んでいた御嶽などは神社に変わっていったところもあったようです。
そんな話を以前に聞いたことがありましたので、もしかしてこのZさんはノロだったのではないか?と考察するのです。
沖永良部島は薩摩の時代になって、琉球時代から島にいたノロがどのような位置づけであったのか?そもそも薩摩時代にずっと存在していたのか?詳しいことはわかりませんが、現在島にはノロの遺品などを保管されているかつてのノロ家が数件あります。
しかしこのノロ家は、世之主の城跡付近ではない場所にいらしたようで、城跡付近ではかつてのノロ家の存在はまだ確認されていないようです。
それも不思議な話です。琉球ではまずノロの頂点に立つ者は、王の妻であったわけですから、沖永良部の場合も島の最高責任者であった大屋子の妻がノロであってもおかしくないわけです。妻でなかったとしても、一族の誰かがノロであったと思われるのです。となれば、一族が住んでいた城跡付近にノロが住んでいたはずです。
明治3年まで実施されていた城跡にある世之主神社では、3年ごとにシニグ祭りが行われ、そこにはノロが参加していたようです。当家のご先祖である7代目の平安統惟雄が1850年に書き残した世之主由緒書には、ノロは古城地跡地で行われる四季祭りに今も昔も登城していたとありますので、1850年にはノロがシニグ祭りに参加していたことになり、この時期にはノロはまだ存在していたことになります。
となれば、明治30年あたりにZさんの名義でたくさんの土地があるのは、このノロの流れからだったのではないかと推測してしまうのです。
さらに、このZさんは火の神を祀っていたと思われるヘンダマチガマ伝説の場所を当時所有されており、実際にそこには茅葺の建物があり、その中にはカマド石が置かれていました。今では土地開発でその茅葺の建物はもう存在しませんが、カマド石だけは今も残っています。このことは以前の記事で書いております。
火の神を祀る火神殿内を守っていたZさん。直城の地に最後に存在していたノロであった可能性が高いなという考察です。
私がノロについて興味を持っているのは、琉球時代はノロと権力者がセットであったからです。当家のご先祖様が島主であったり、第一尚氏統治以降は島の大屋子という役人として島を統治していたのであれば、ノロがセットであったはずなのです。しかしなぜか当家にはノロについての伝承はありません。
私の勝手な推測では、Z家が代々ノロを世襲した家であったのなら、Z家はもともと当家の一族ではなかったのか?そんなことを考えてみたりしています。
このZ家一族のことが少しわかれば、当家のご先祖さまのことも少し見えてくる気がします。
島に行った際には、これも重要な調査の1つです。