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先祖を探して

Vol.379 お墓の歴史:洗骨による改葬

まことに不思議な風習なのですが、ご先祖さまが住んだ沖永良部島には風葬の後に洗骨による改葬というものがありました。
もちろん現在ではもう行われていない風習ですが、昭和の初めころまではこの洗骨は行われていたといいます。

その洗骨ですが、これはどういうことかというと、この島では琉球文化の中で人が亡くなるとそのご遺体は喪屋もしくは洞窟で風葬にしていたということは前回書きましたが、亡くなった方を弔う儀式はまだ続きがあったのです。
叔父や叔母の話では、明治以降は風葬ではなく土葬ですが、土葬をして3年ほどすると(おそらく3年忌あたり)に、その土葬したご遺体を掘りおこすのです。家によっては7年後だったりしたそうです。当家のチュラドゥールのお墓の場合は、大和式の墓石のすぐ後ろの地面に土葬をしていたそうです。
ご遺体を入れておいた棺は木でできていたため、3年の間にかなり朽ちていたそうです。
そしてご遺体の方も土に還ってはいたようですが、まだ完全には遺骨にはなっておらず、生々しい状態のご遺体であったようです。
それを掘りおこして、遺骨についている肉や髪の毛といったものを全部棒切れなどで削ぎ落し、海や焼酎で不要なものを綺麗に洗い流し骨だけにしたのだそうです。
そして全身の遺骨を厨子甕に収めたのだそうです。
この作業はその家の女性の仕事であったといいます。
喪屋でのお別れの7日間や遺骨を掘りおこしての洗骨、どれも女性の仕事。
かなりハードですね。
近年になると、洗骨業者というのがあったようで、昭和40年代頃に火葬場が出来て土葬から火葬に変わるまでは、この業者が洗骨を担当していたこともあったようです。

厨子甕に入れる順番は、足の方からで最後は頭蓋骨。
叔母の話では、その家ごとに大きな厨子甕があり、代々そこに収められていたといいます。
お爺さまの家の屋号は「上花城」であったので、厨子甕の蓋の裏には墨字で「上花城」と書かれていたそうです。似たような甕がたくさんありますので、蓋の裏の屋号名は必須ですね。ところが、この上花城の厨子甕が随分以前から行方不明になってるとの話があり、3月に島に行ったときに全部の甕を確認したのですが、確かに上花城と書かれた甕が見当たらずで、とうとう探すことができませんでした。
しかし、その後にある1枚の写真を入手。
それはお爺さまの妹夫婦が納骨堂の中でお参りをしている、おそらく4~50年前の写真なのですが、その向きが納骨堂の入り口を入ってすぐの左手の角当たりのようなのです。
今にして思えば、その場所には黒っぽい表面に絵柄の入ったわりと背の高い厨子甕がぽつんと置いてありました。そしてだいぶ煤けたような感じで、枯れたツタのようなものが絡んでいて、もう何年もの間空けていないような風貌でした。
はっきりとは覚えていないのですが、蓋の裏も見たような、でも何も書いてなかったような、、、

右の写真は2023年3月。左が4~50年前の写真ですが、丸をつけている厨子甕の位置が両方とも同じなのです。この列に並んでいる厨子甕は、昔から場所が変わっていないようで、壁の向きとこのご夫婦が向いている方向から入り口付近の角にあった厨子甕ではないかと判断しているところです。



これが上花城の厨子甕の可能性があります。そうであれば、1748年に他界した佐久田というご先祖様から昭和初期に亡くなった方々までが納骨されていることになります。



お爺さま一家が島を出たのは昭和28年、1953年のことです。それ以降は上花城はだれもその厨子甕には納骨はしていませんので、70年ほどは放置されていることになりますので、この煤けた感じの厨子甕がそうだったのではないかといま思っているところです。次に行ったときには再度確認しなければなりません。

当家の厨子甕の話になってしまいましたが、風葬(明治からは土葬)→洗骨まで終わって、やっと遺骨は厨子甕に収められ、ご先祖様は安らかにお眠りになるといった風習が、わずか5~60年前までは行われていたのです。

今となってはその弔い方はかなりハードに感じますが、ここは先祖崇拝の文化ですから、昔の方々は苦ではなかったのかもしれません。


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