友竿遺跡で発見された古銭ですが、数枚といったわけではなく、かなりの量が発見されていました。研究者が発掘をしたわけではなく、雨が降った日に現地を訪れた中田さんが地面の表面に浮き上がっていた古銭を発見したということですから不思議です。
中国の古銭がここにたくさんあるということは、その昔に中国と交易をしていた証拠でしょうし、そして大昔にここに交易をした人物が住んでいたということを物語っているのでしょうか。
古銭がたくさん見つかったということは、お金を残したまま住人が急に消え去ったということでしょうか。何かの勢力によってここに住んでいた人たちは忽然と消えたということも考えられますね。
こちらは中田さんが取集した古銭です。地元の歴史民俗資料館にも保管されていますが、一部をご自分で保管されています。
左の少し変わった形の古銭は布銭(ふせん)と呼ばれるお金です。布と書きますが布で出来ているわけではありません。
この形は、表土の掘り起こしに用いられる農工具の一種であった鋤(すき)の形から転化したもののようです。
中国の晋(しん、紀元前8世紀 - 紀元前3世紀)の時代頃に、中原地区の韓・魏・趙(山西、河南地方)で流通したようです。かれこれ現在からすると2000年以上も前の貨幣であり、世之主の時代から見ても1400年以上前のものです。なぜこういったお金が友竿に残されていたのか?
他にも古銭がたくさん見つかっています。1000年ほど前の古銭などもあり、随分と時代が離れた時期のものが、同じ場所で見つかったようです。
いつの時代の物かは分かりませんが、硯も出土したようです。沖永良部島に文字文化が入ったのは少し遅くて、一説には薩摩侵攻頃だとかいわれていますが、実はそれより以前にすでに文字文化が入ってきていたのかもしれません。
沖永良部島の歴史が表舞台に登場するのは、伝承ではありますが琉球の北山王の統治下にあったという1300年代頃からです。紀元前の時代に、中国との交易をしていた人たちが島にいたとか、中国人が住んでいたとか、大きな勢力があったとか、そんな伝承や記録は1つもないようです。
この友竿ですが、これらの遺物が見つかった畑があった丘は、すでにかなり造成されていたので、考古学的な発掘調査の場所にはならなかったようです。
もちろん収集されたものは新聞の記事にもあったように、研究者が来島し調査したということですが、どのような結果が出たのかは詳しくは分かりませんでした。ただ、こういった収集物は綺麗に洗ってしまうと考古学的な資料として扱うのは難しいようですね。
造成が始まる前に発掘調査が行われていれば、これまでにない沖永良部島の歴史が見えてきたかもしれないと思うと、非常に残念です。
この場所は個人の私有地で、個人で造成などを始められていたということですから、まさかこの場所が島の歴史がつまった場所であったかもしれないなんて、思いもよらなかったでしょう。こうしたことは今後もあり得る話ですね。
もしこちらの記事を読まれた方で、この友竿についての伝承や歴史についてご存じの方がいらしたら、情報を寄せてくださると嬉しいです。