ユタの助言によってアダンの森から海の見える高台に移ったお墓ですが、またまた移動をすることになりました。
海の見える高台にあったお墓の土地は、屋号「ウントの家」と呼ばれる人が持ち主でした。
あるときに、このご一家の皆さんが揃って頭痛に悩まされたのだそうです。その時にお隣の徳時の有名なユタの占示によると、「テエの神を祭れ。家中、村中こぞって祭りなさい。あまり粗雑なため、石ころが落ちてきて頭を割ってしまった。みんなの頭痛はそのせいだ。」とのことでしたので調べてみたら、その占示の通り、遺骨の入った板蓋が壊れて、乗せた石が頭蓋骨を割っていたのだそうです。
信神深い初代ウントの家の当主は、あまりの明示に恐れを恐れをなし、資財を投じてテエの山を聖域とし、徳時の「かみさまあじ」を神官にお願いして祭ることになったのだそうです。
土地の隣接地主とも相談し、神域、神木、社殿、拝殿などを設定建築し、集落の人々の協力を得て参道も鳥居も立派なものが建てられたのだそうです。
それが越之山神社です。
「かみさまあじ」は老齢なので、その後は小川兼重という方が神官を継いだということです。
「かみさまあじ」というのは、人名ではなく「神様按司」ということでしょうかね。もしかしたら神官のことをそのように呼んでいたのかもしれません。
この時の遺骨が厨子甕に納められ、この越之山神社の社殿に安置されているのです。世之主の妹君と呼ばれた、北山からやってきたノロです。遙か600年ほど昔に生きた女性でした。
そしてこの地から、海・陸・空の交通安全を今なお見守りながら、東西行きかう人々の仲を取り持ち、縁結びと子孫繁栄の神様として地域の方々に親しまれているのだそうです。
島の南側にあるこの屋子母地区。沖縄とも近く、その昔は琉球との海上交通の港として栄えたのだそうです。
実際にその浜には交易品を保管していたという石積みの浜倉跡といわれているところがあり、少し離れた場所には「じーくら:地蔵」と呼ばれる場所もあったそうです。「じーくら」は、浜を掘って倉庫としていた場所です。
一説には、浜蔵は交易品の正式な倉庫で、じーくらは交易品をこっそり保管しておく倉庫だったのではという話ですが、正確なところは今はまだ分からないようです。