昭和の時代のことです。
1953(昭和28)年2月4日未明に、沖永良部島の知名町屋子母沖で旅客船「新生丸」(18・5㌧)が沈没した事故がありました。
新生丸は定員51人を上回る82人が乗船して沖縄県那覇市から知名町小米港へ向けて航行中、高波を受けて沈没。生存者は2人で、乗員乗客81人が死亡・行方不明となったのだそうです。当時は奄美群島が米軍政下にあり、沖縄へ出稼ぎに行く島民が多く、新生丸には旧正月に合わせて帰省する人達が乗船してのだそうです。
屋子母集落の方々は、遭難事故から60年経った2013年から毎年2月4日に慰霊祭を開催しました。そして2014年には、島民や出身者から協力、寄付を得て集落内のこの海の見える越之山神社境内に慰霊碑が建立されました。
このブログを読んでくださっている島出身の方のご親族も、この船に乗船されていて亡くなられたとの悲しいお話を伺いました。
そして今回、世之主の妹君が祀られているという越之山神社との出会いは、島の協力者からの情報でした。その方も島に在住とはいえ、こちらの神社の存在や、このような伝承については全くご存知なかったそうです。
たまたま神社の存在を知り、そして多方面に渡って情報収集をしてくださいました。
そのおかげで、私たちはこの屋子母地区に存在していた貴重な資料を入手することができました。
この記録は、昭和の時代に書かれたようです。
当時の越之山神社の地主である有川さんが、この地区に残る伝承や神社建立のいきさつなどを記録されたものです。
数冊を発行され当時の関係者に配られていたようですが、今となっては忘れられた存在だったようで、今回の調査でたまたま保有されている方を紹介頂き、拝読することができました。
貴重な資料になっていますので、協力者の方がコピーをして中央公民館経由で知名町図書館に寄贈させてもらいました。
世之主の妹と呼ばれた人物の特定はできませんでしたが、貴重な歴史の1ページを知ることができました。
こちらの資料以外にも、島にはまだまだ地域や個人宅に眠っている伝承や書留などが眠っているのではないかなと改めて思いました。
先祖調査の過程でこういった資料と出会い掘り起こしができるのも、歴史分野での社会貢献の1つかもしれませんね。
越之山神社のお話でした。