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先祖を探して

Vol.190 薩摩が上陸した浜は伝承とは違うのか


沖永良部島に薩摩軍が攻めてきたのは1609(慶長14)年3月24日の日の入りの時刻。このとき、沖永良部島には徳之島と沖永良部島の2島を統括していた首里之主と呼ばれた思鎌戸が在島していたといいます。
この日は荒波で港に船が入るのは難しいので、沖永良部島には上陸せずにそのまま通過するだろうと島主は判断していたという話が、戦闘からそれほど間をおかずに記録されたと思われる「琉球軍記」に書かれているのです。

しかし思いもよらず大潮がきて、実際には島に上陸されてしまう。前日の徳之島での無残な戦闘の状況を首里之主は聞いていたと思われ、戦わずして降参した。そのため「一戦にも及ばず馬鹿者共」と樺山大将に言い放たれといいます。
そしてその場所は、馬鹿島尻と呼ばれるようになったという地名由来があり、そこは現在の正名集落にあるシビキニャ浜だと言われています。


*正名の海岸(黄色のところ)

白い砂浜の美しい浜です。

明治22、23年頃にこの差別的な呼称から正名に改称したといいますが、そもそもこの地名の由来は、「バーシマジ」と呼ばれた焼き畑地の総称に、馬鹿尻という漢字地名が当てられ、地名由来がこじつけられたのではという説もあります。

地名由来はさておき、薩摩軍が実際にやってきた浜について、別の見解があるようです。
沖永良部島には大船を寄せることができる港は、東海岸の和泊で、その和泊港を越して、島の下部にある正名に薩摩軍が漂着したとは少し無理があるというのです。
市来家元の記録では、3月21日に樺山大将は軍船10艘程が先船として沖永良部に渡っていたといいます。徳之島の亀津から和泊までは海上でおよそ18里で、正名はそれよりも遠くであるが、3月23日には到着したであろうといいます。ちょうどこの22日、23日頃は潮の動きが大きい中潮であり、干満の差が小さく、夕方の時間は干潮時であると。軍船がサンゴ礁の干瀬を乗り越えて浜に着岸できるような潮の状態ではないので、伝承のような事実は無かったのではないかということなのです。

これらの話は、「しまぬゆ1」という本に書かれていました。伝承を実際の状況に照らし合わせて検証された面白い見解であるなと思いました。
真実はどうであったのか、そこは正確には分かりませんが、様々な伝承を紐解く面白さを感じました。
こうした伝承の紐解きで、事実が少し見えてきそうですね。


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