沖縄本島の中城城は世界遺産になっており、日本100名城に指定されている優美で壮大な城です。この城は、1300年代中期に先中城按司の一族が石積のグスクを築き始めたといいます。1300年代後期には南の郭、西の各、一の郭、二の郭が完成。そして1440年の第一尚氏王統の時代に、それまで今帰仁城で北山監守として沖縄本島の北部と奄美地方を管理後に座喜味城に移っていた護佐丸が、王命により座喜味城から中城城へ移動して勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築し完成させたのだそうです。
1458年の阿麻和利の乱によって護佐丸は滅亡しますが、1470年からは中城城と中城の領地は、世子である中城王子の採地となりました。
そんな歴史を持つ中城城ですが、1440年からの増築の際には与論島から多くの石工が連れてこられ、築城に携わったようです。一説には与論だけなく奄美の島々からも人夫として動員されたそうです。
実際に中城城の前に居城していた座喜味城の築城時にも、与論や沖永良部、奄美大島などから多くの人々が動員されたといいます。
与論島では「泣く子も黙る護佐丸」と語り継がれているようで、護佐丸の絶対的な権力の大きさが垣間見えます。
この中城城も座喜味城も築城の名手と言われた護佐丸が築城し、世界遺産に登録されていることになります。
そんな中城城ですが、城の下の方に小字名でユンヌバル(与武野原)と呼ばれる地域があります。そこには与論から来た石工たちのお墓が作られたようで、現在でも無縁墓が多く残っているそうです。ユンヌとは与論という意味で、小字名の由来になっているそうです。
一説には与論だけでなく座喜味城を築城した時のように奄美の島々から人夫を動員し、そこには集落があったとも聞きます。お墓が多く残されているのであれば、近くに集落があったことは推測できますね。
琉球と奄美の島々との関わりについては不明な点が多いので、こうした伝承は貴重だと思います。
詳細は分かりませんが、このような築城の伝承から、北山が滅亡した1416年直後からはこの護佐丸が当家のご先祖様がいた沖永良部島にも影響を及ぼしていたことが見えます。
こちらも伝承ではありますが、当家のご先祖様となる北山王の二男であった世之主が自害後に、徳之島に避難していた次男が島に戻り、王府から大屋子として取り立てられ、代々大屋子をしていたこと。護佐丸が島を掌握していたかもしれない時期に、当家のご先祖様は大屋子としてどのような関わりをもっていたのだろうか。
妄想は膨らむばかりですが、しかし残念なことに、遠い昔の話なので忘れ去られたのか、沖永良部島には護佐丸との関わりを示す伝承は残されていないようです。