沖永良部島にある世之主神社は、明治6年頃にその以前にあった禅王寺が廃仏毀釈 によって寺が無くなり、後に神社となったと言われています。しかし実際にその地に禅王寺があったのかどうかは、はっきりとはわかっていません。そして寺だった建物がそのまま使われたのか、あるいは神社として建て替えられたのか、そのあたりも詳しく分かっていませんが、現在の社殿は神社としてスタートしてからは3代目となります。
1代目 明治6年(1873年)頃に神社となった社殿
(寺を再利用したか新築したかは不明)
2代目 昭和37年(1962年)頃に建替え
3代目 平成30年(2018年11月17日)に建替え
当家 屋号:上花城は1代目社殿の時から昭和28年に島を出るまで3代に渡って神主をしていました。
1代目神主 宗 佐久田
2代目神主 宗 佐久平
3代目神主 宗 義経
わがお爺様である義経が神主をしていた頃の社殿は時期的に見て1代目だったのでしょう。どんな建物であったのか、当時の写真が無く今は見ることができませんが、時代から見て藁ぶきや茅葺の屋根の神社だったのかもしれませんね。
その頃の神社は1月、5月、11月の年3回の祭りごとが盛大に催されており、島内からたくさんの島民が参加して、集落対抗の相撲大会などもイベントとして開催されていたそうです。
何より義母や叔母、叔父達が楽しみだったのは、そこで振舞われるご馳走だったと話してくれました。
この御馳走は、大きな赤絵の大皿にのせてあって、とてもりっぱなお皿だったそうです。義母はご馳走とその大皿のことは、鮮明に覚えているそうです。
赤絵の大皿といえば、明国時代のお皿で有名です。お爺さまの書によれば、琉球北山王時代の年号が書かれた大皿が当家にあったようですので、おそらく祭りで使用していたその大皿なのでしょう。
北山の時代、世之主の時代と言えば1300年後半から1400年前半の時代。明国の年号は洪武(1368年 - 1398年)建文(1399年 - 1402年)永楽(1403年 - 1424年) あたりでしょうか。これらの年号が書かれていたのだと思います。
当時にカメラが普及していたなら写真の1枚でもあったでしょうが、残念ながら証拠となる写真は存在していません。

お爺様が書いていた歴史年表
この大皿ですが、島を出て北九州に移り住んだ時には持参はしていなかったようです。北九州の家で一緒に住んでいたお爺様の子供たちである義母や叔父、叔母は誰も見た覚えがないと言っています。それだったら、きっと島を出るときに本家にでも預けてきたのではないかと期待しておりましたところ、本家の叔父に確認しましたが、残念ながら保管はされていませんでした。
赤絵の大皿、いったいどこに行ってしまったのでしょう。破損してもう処分されたのか? 誰かに譲ったのか? 売却されてしまったのか?
義母がお爺様に、島を出るときに色々埋めてきたと聞いていたことを思い出しました。その場所はまだ確定はできていないのですが、私なりに思い当たる場所はあります。
その場所も含めて、きっとどこかに保管されていると期待して島での調査が出来る日がきたら探し出してみます!
コロナよ、早く収束して私を島へ行かせてください。