見出し画像

先祖を探して

Vol.60 『玉帳陰符経』という古文書

『玉帳陰符経』
これは「沖永良部島郷土史資料:昭和31年初版・43年改訂版」に掲載のあった島の本家に保管されている古文書です。
原本はかなり古くなっておりますが、まだ文字は見える状態です。

名前からしてお経なのか?と思っておりましたら、中身を読んでみるとどうもお経ではなさそうな。手が描いてあり、何やら動きも書いてある。子供の手遊び歌かな?いや、意味は分からないけど子供の歌ではなさそうです。
しかも一番最後には時代劇の武士の戦闘の際の陣に掲げてあるような旗が書いてあるし。これはもしかして、何やら戦国時代の戦と関係が!?



古文書の初めに書いてあるのは、源義?中納言?承暦?



調べました!
この『玉帳陰符経』というのは、お経でも子供の手遊び歌でもありませんでした。これはやはり戦の際の戦術書でした。しかも、呪いのような戦術書のようです。「玉帳」とは中国語で戦術というような意味です。戦術のための呪い書という感じでしょうね。

原本の文字が中納言以下の名前らしきところが欠損しているのですが、『玉帳陰符経』は、10世紀に大江惟時が日本に紹介したことになっており、大江惟時以降、重光、匡房、惟順、惟光、広元・親広、佐房、佐泰と大江氏に代々継承された形となっているそうで、これは大江匡房(おおえ まさふさ:1041-1111)と書いてあったのだと思います。
このかたは、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人で、百人一首ではでは権中納言匡房 という名前になっているそうです。
もちろん原本は大江家が代々保管しているので、当家にあるには 複写版でしょう。
承暦2年と書いてありますが、1078年の平安時代です。しかし大江が従二位中納言大宰府(権太宰権帥:大宰府の長官)になったのは1097年なので 、複写ミスか?
大江は兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもあるので、この陰符経に書かれていたのは源義家の名前だったのでしょう。

ではなぜこのような物が当家にあるのか?
これは沖永良部の歴史研究家の先生の話では、恐らく平安統が示現流をやっていたので、その時に手に入れたのではないだろうかとのことでした。
しかし当家には詳しく伝わる話がないので、真相は分かりません。
薩摩藩の島津家は源氏の子孫だとも言われいるので、源氏の名前があってもおかしくないですね。

琉球には源為朝伝説があります。『中山世譜』によれば、各王の姓を「源(みなもと)」としており、これは初代・舜天の父とされる「鎮西八郎為朝公」(源為朝)によるそうですが、根拠のあるものではないみたいです。あくまでも現時点では伝説ですね。
当家と源氏が何かつながるものが発見できれば、これは為朝から代々伝わってきたものだ!と発表できるでしょうね。
頑張って探してみます😊

沖永良部島郷土史資料にある玉帳陰符経の一部を掲載します。





手遊びみたいでしょ?



ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

窪堀良克
今添付ファイルでお送りしました。ご確認ください。
yononushi
窪堀良克様
ご連絡ありがとうございます。色々とお手間をおかけしてしまっているようですが、大変有難く感謝致します。
メールでのご連絡、お待ちしておりますね。よろしくお願い致します。
窪堀良克
太郎兵衛講文書の「兵法秘術一巻書」と「玉張陰符経」部分ですけど写して来ました。こちらの方は手指の図柄は無し。そちらの2.宗家文書の本来親項目である「兵法秘術一巻書」は判読不能なってますね。また源義□のは源義家です。互いに照合したら判読不能部分は分かってきますね。書体の確定は出来ませんでした。本題の活字変換されたもの含め3枚をEメールに添付して送りたく存じます。または郵便でしたら史料太郎兵衛講文書一冊をお贈りします。その場合は送り先をお知らせください。あらためてそちらのは「兵法秘術一巻書」です。
yononushi
窪堀良克様
筆跡の確認までして頂けるとは、大変有難いです。当家に入ったのも1700年代中期頃と思われます。遠く離れた大阪と沖永良部島が薩摩を中心として古文書で何か繋がっていたとしたら面白いですね。もし添付資料などあるようでしたら、連絡先のメールアドレスをトップページのところに掲載しておりますので、そちらでご連絡頂いても大丈夫です。よろしくお願い致します。
窪堀良克
今朝Vol.128を見ました。文章は同じ。あと筆跡は同じかどうかですね。当方のは「兵法秘術一巻書」永享六年(1434)六月。我が村大木村に来たのは天明七年(1787)三月より少し前と思います。現物は太郎兵衛講で大切に保管していますので写真を撮ってきます。筆跡の結果はまた報告申し上げます。
yononushi
窪堀良克様
紀州や薩摩へと繋がっていたのですね。「秀吉の根来攻め」のこと、存じておりませんでしたので調べてみました。色々な歴史がありますね。玉帳陰符経から様々なことを学ばせて頂きました。
窪堀良克
ご返信ありがとうございます。その古文書は紀州は根来寺の小院、萬福院より我が村大木村に伝わりました。その根来寺といえば「秀吉の根来攻め」です。当時は戦国の世、寺を防衛するのは「鉄砲」と考え薩摩へ行ったようです。結局はきっちりやられました。ウクライナがロシアの戦車をやっつけるミサイルを調達に行くのと同じですね。
yononushi
窪堀良克様
大変貴重な情報をありがとうございます。この玉帳陰符常については、あまり情報もなく詳細が不明でしたので、同様の古文書が泉佐野市に伝わっているとは大変な驚きです。「史料太郎兵衛講文書」という資料を一度確認してみます。尚、こちらのブログには活字化されたものを掲載していますが、Vol.128には現物の写真も一部掲載しております。既にご覧になられているかもしれませんが、ご案内しておきます。
窪堀良克
玉帳陰符経とほぼ同じ古文書が我が村に伝わっています。現在は大阪府泉佐野市大木。早く言えば関西空港の山間部で日本遺産日根荘と重要文化的景観に登録されています。こちらの方も「兵法秘術一巻書」で活字に変換され「史料太郎兵衛講文書」として出版されています。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「古文書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事