『玉帳陰符経』
これは「沖永良部島郷土史資料:昭和31年初版・43年改訂版」に掲載のあった島の本家に保管されている古文書です。
原本はかなり古くなっておりますが、まだ文字は見える状態です。
名前からしてお経なのか?と思っておりましたら、中身を読んでみるとどうもお経ではなさそうな。手が描いてあり、何やら動きも書いてある。子供の手遊び歌かな?いや、意味は分からないけど子供の歌ではなさそうです。
しかも一番最後には時代劇の武士の戦闘の際の陣に掲げてあるような旗が書いてあるし。これはもしかして、何やら戦国時代の戦と関係が!?
古文書の初めに書いてあるのは、源義?中納言?承暦?
調べました!
この『玉帳陰符経』というのは、お経でも子供の手遊び歌でもありませんでした。これはやはり戦の際の戦術書でした。しかも、呪いのような戦術書のようです。「玉帳」とは中国語で戦術というような意味です。戦術のための呪い書という感じでしょうね。
原本の文字が中納言以下の名前らしきところが欠損しているのですが、『玉帳陰符経』は、10世紀に大江惟時が日本に紹介したことになっており、大江惟時以降、重光、匡房、惟順、惟光、広元・親広、佐房、佐泰と大江氏に代々継承された形となっているそうで、これは大江匡房(おおえ まさふさ:1041-1111)と書いてあったのだと思います。
このかたは、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人で、百人一首ではでは権中納言匡房 という名前になっているそうです。
もちろん原本は大江家が代々保管しているので、当家にあるには 複写版でしょう。
承暦2年と書いてありますが、1078年の平安時代です。しかし大江が従二位中納言大宰府(権太宰権帥:大宰府の長官)になったのは1097年なので 、複写ミスか?
大江は兵法にも優れ、源義家の師となったというエピソードもあるので、この陰符経に書かれていたのは源義家の名前だったのでしょう。
ではなぜこのような物が当家にあるのか?
これは沖永良部の歴史研究家の先生の話では、恐らく平安統が示現流をやっていたので、その時に手に入れたのではないだろうかとのことでした。
しかし当家には詳しく伝わる話がないので、真相は分かりません。
薩摩藩の島津家は源氏の子孫だとも言われいるので、源氏の名前があってもおかしくないですね。
琉球には源為朝伝説があります。『中山世譜』によれば、各王の姓を「源(みなもと)」としており、これは初代・舜天の父とされる「鎮西八郎為朝公」(源為朝)によるそうですが、根拠のあるものではないみたいです。あくまでも現時点では伝説ですね。
当家と源氏が何かつながるものが発見できれば、これは為朝から代々伝わってきたものだ!と発表できるでしょうね。
頑張って探してみます😊
沖永良部島郷土史資料にある玉帳陰符経の一部を掲載します。
手遊びみたいでしょ?