次に確認してみたのは、榮家の家譜です。
②1568年 榮姓世系図
是歳、琉球国中山王尚元、榮吉久ヲ沖永良部島首里大屋子ニ任ズ、榮吉久、沖永良部島二渡ル
系図には榮吉久はこの家の一世となっており、父母は何人が分からないと書かれています。
童名は思次郎、唐名は榮春昌で生年月日は不詳。しかし1580年に赴任先の沖永良部島で44歳で他界したとありますので、1536年生まれであったことが分かります。
沖永良部島に首里之大屋子として渡ったのは1568年で、吉久が32歳の時です。
44歳で他界ですから島には12年間滞在していたことになりますが、その期間ずっと首里之大屋子としての役職にあったのかは分かりません。
というのも、前回の記事で書いた容義貫という方が、榮吉久が沖永良部島に滞在中の1575年に沖永良部島の役人に任じられています。容義貫の役人というのが首里之大屋子であったのか、別の役職であったのかが分からないのです。
ちなみに、容義貫の妻は1558年頃に永良部首里大屋子の娘であったことは前回書きましたが、赴任時期が違い嫁ぎ先も違いますので榮吉久の娘では無さそうです。そうなれば、容義貫の妻は、榮吉久より前に首里之大屋子になった人物の娘だということになります。
この容義貫の妻の件は、別で考察することにしましょう。
榮吉久が沖永良部島に赴任していたことは、家譜の文面に「隆慶二年戌辰為恵郎部嶋首里之大屋子渡テ彼嶋勤仕之慶萬暦八年寅辰四月五日於彼嶋不禄享年四十四」とあります。
奄美諸島編年史料にある沖永良部島二渡ルの記述通り、この方は沖永良部島に渡っていたことが分かりました。そして44歳の時に島で不禄(士の身分の者が死ぬこと)。
埋葬はどうしたのでしょうか。島で埋葬したのか?
もし島で埋葬されたのであれば、首里之大屋子ですからそれなりのお墓があったのではないかと思うのですが、残念ながら島ではそのようなお墓は見つかっていないようです。
首里之大屋子は、琉球本島から沖永良部島に渡ってきてたことが分かりました。