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先祖を探して

Vol.129 尚寧王には娘がいたようである


第二尚氏の7代目国王であった尚寧王は、1609年薩摩侵攻時の国王でした。琉球の正史としては、彼には妃と二人の夫人がいましたが、子供はいないようになっています。

 
 阿応理屋恵按司加那志:童名・真銭金、号・蘭叢。生年不伝 - 1663年9月8日(康煕2年8月7日)。尚永王の長女。

夫人1
西之按司:童名・真鍋樽金、号・西月。生年不伝 - 1604年9月16日(万暦32年8月23日)。傳氏一世佐辺親方厚旨の娘。

夫人2
安谷屋大按司志良礼:童名・真鍋樽金、号・涼月。1561年(嘉靖40年) - 1634年6月1日(崇禎7年5月6日)。章氏安谷屋親雲上の娘。

これで子供かいなかったとは、何とも不思議な話ですよね。いても全員早死にしたのか?
それとも子供はいたのに何らかの理由で系図からは消されたのか?

私はVol.106-107で「那覇の国王の婿とは」という記事を書きました。
これは、薩摩が侵攻してきた時の沖永良部島の様子が和泊町史に書かれており、そこに那覇の国王の婿が対応したことが記されていたので、それがいったい誰だったのか?を考察したのです。
あの時点での考察では、尚寧王には子供がいなかったので、その前代の尚永王の次女の夫であった島添大里王子朝長(尚熙)を候補にあげておりました。
ところがです、昨日以下の記録を見せてもらいました。


*奄美諸島編年史料より

この資料は以前に何度も目を通していたのですが、オレンジのラインの箇所、小さすぎて?見落としていました。
これは島津家が書いている資料です。ここに、沖永良部に侵攻したときに、那覇の国王の婿が対応したことが書いてあるのです。
この国王は尚寧王です。島津が国王の婿と書いているということは、やはり尚寧王には娘がいたのだと思われます。
それがどうしていなかったことになっているのか?
それは定かではありませんが、尚寧王は自分の後の王は「尚煕:島添大里王子朝長」と決めていました。そうです、私が最初に婿殿として考察した尚寧王の従妹になる人です。しかしこの尚寧の次の王には佐敷王子朝昌という人物が尚豊という名で即位しています。
本来、尚寧の次に国王になるはずだった尚煕が、なぜ尚豊にとって代わられたのでしょうか。それは島津氏の琉球征服があげられますが、その他の背景には王国の内部対立があったと考えられています。

そんなゴタゴタの中での悲劇の王と呼ばれている尚寧王です。何らかの事情があって、本人や家族の意思とは裏腹に、系譜から子供の名前が消された可能可能性はあると思います。
尚寧王に子供がいたというのは、あくまでも考察の域ですが、しかしこの記録を見ると考察だとは言い切れませんよね。
私のご先祖調査のデータとしては、尚寧王には娘がいたのだということにしておきます。

実は、この資料を誰に見せてもらったのかといいますと、Vol.124の記事に書いた、徳之島の研究家の方と昨日ミーティングが実現したのです!
お互いの資料や情報を持ちよって、様々な情報を交換共有しました。
やはり1500年~1600年の薩摩侵攻時前の琉球時代は、徳之島と沖永良部は関わりが深く、琉球王家との関わりも深かったことが見えてきました。
本当に様々なことを教えてもらい、大変有意義な時間でした。これからも島やご先祖様の歴史解明に向けて協力していくこととなりました。

こうした繋がりを作ってくださった徳之島の観光連盟の方、そして教育委員会の学芸員の方には大変感謝いたします。
1人の力だけでは成し得ない壮大な課題となりつつあるご先祖調査ですが、沢山の方々にサポートしてもらいながら謎の解明に向かっております。
本日のミーティングの成果は、まだ他にもありますので別記事でシェアしていきたいと思います。


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