『狼おとこ』
満月がきれいな夜。都会からは遠く、けれどけして不便ではない小さな村があった。
遠くそびえる山々の向こうから、いつになく悲しげな狼の遠吠えが聞こえてきた。
特に珍しいことでもなく、まぶしい光と暖かな火に溢れた村の人々は、さして気にかけることもなかった。
数日後、流れ者のような旅人が村を訪れ、恐ろしげな話を伝え去った。
人々も知る街道の町が、異端の教えを信仰した罪で、無惨に焼き払われたのだという。
詮索好きの人々が、村のあちらこちらで、ひそひそと、真偽のわからぬうわさ話に花を咲かせていた。
星明かりが照らす森の奥、とうとうと波音を立てる川岸に、傷だらけの少年が流れ着いた。
岸にうつぶせ、半ばまで水に浸かったその体は、氷よりも冷たく、石のように硬かった。
明かりも灯さず、偶然通りかかった老人に救われ、少年は奇跡的に息を吹き返した。
少年はしかし、野犬のように目を光らせたまま、口をかたくなに閉ざし、なにも口にしようとしなかった。
再び、満ちた月がめぐってきた夜、一人暮らしの老人は、赤くはぜる火の前で、静かに聖書を開いていた。
強い毛を逆立てた人影が、その後ろから、両手を大きく広げて立ち上がった。
「オレを食う気かい……怖くなんかないぜ、おまえは、獣なんかじゃない」
力なく手を下ろした影が小さく震え、かみ殺すようなすすり泣きが、いつまでも夜気に響いていた。
ダンと名乗る少年は、老人が山で射止めた獲物の毛皮を背負い、村に降りてきた。
初めての村だったが、店のおやじも、ダンテの所にいると知ると、なぜかすぐに少年を受け入れた。
使いを頼まれ、何度となく通ううち、ダンは同い年くらいの店の娘と、自然と友達になっていた。
「今日は一日遊んでこい」と、朝からもじもじしているダンを見て、老人はいたずらっぽく笑った。
顔いっぱいにうれしさをたたえてやってきた村は、なぜか地獄のような業火に包まれていた。
逃げまどう人々の中、ダンは物陰に身を隠しながら、見つからないように教会の前までやってきた。
引っ立てられ、膝をついて祈るように手を組む村長の前に、男が立っていた。
「隠し立てすると、これだけでは済まないぞ」
赤い服に黒いマントをつけた男は、教皇の勅令という紙を、高々と掲げていた。
ダンは、アリエナの待つ店に走った。名前を叫んでドアを開けると、兵士達が躍り出てきた。
戸惑う兵士達へ、村人達が次々に大きな声をかけた。「そのガキだ」「疫病神め」「化け物」
ダンを狙って振り下ろされた剣には、手加減など微塵もなかった。
刃の下をかいくぐり、ダンが森の小屋に駆け戻ると、すでに火が放たれた後だった。
「ダンテ、ダンテ!」と、何度も名前を叫んだが、誰一人、答える者はいなかった。
手がつけられないほど火のまわった小屋が、ズシンと火花を舞いあげて崩れ落ちた。
燃えさかる小屋の前で、力なく座りこむダンの顔は、涙とススで真っ黒だった。
ヒュン――と、ダンの後ろから飛んできた矢が、頬をかすめていった。
ハッとして目を見開いたダンの頬から、ツツツ、とひと筋の血が、細い線を引くように流れ落ちた。
ダンは、背を屈めるように立ち上がると、涙をこらえて走り出した。山に逃げるしか、ほかに道はなかった。
連日、山狩りが行われた。ダンの行方は、わからずじまいだった。
教皇庁からやってきたエンゼルという名の悪魔は、しかしけっしてあきらめようとしなかった。
「いいや、奴はまだこの村にいる」
父を失ったアリエナが、村長の家に連れてこられた。その目には、憎しみの炎が宿っていた。
”出てこなければ、娘の命はない”と、おふれが出され、あっという間に村の隅々にまで広がった。
汚い罠だったが、ダンは刻限どおりに姿を現した。手錠が、その手にかけられた。
村の人々が、口々に言い合った。「よかった、これで助かった」
「父さんを返して!」アリエナが、ダンの顔につばを吐いた。父親の生命を、ダンが奪ったことになっていた。
満月をさけ、勅令の一団は村を去ろうとした。しかし誰の仕業か、村に通じる唯一の橋が、落とされていた。
長い逗留となった。好き勝手に振る舞う彼らに対し、村人達は静かに抵抗を企てていた。
そんな動きを察してか、エンゼルは血塗られた見せ物の準備を兵士達に指示した。
村人達が怪訝に思うほど、兵士達の動きがあわただしくなった。まるで、戦争でも始めるかのようだった。
ダンが広場に連れ出された。手錠をはめられたまま、全身血だらけの姿は、誰もがその惨さに息をのんだ。
食べ物はおろか、水すらも与えられず、ダンは兵士に見張られる中、地に打たれた杭に幾日も繋がれていた。
夜。警備は穴だらけだった。爆薬が火を噴いた。兵士達はあわてふためいた。続いて、銃声が轟いた。
ダンテ率いる黒覆面の男達は、兵士達を圧倒していた。ダンの手錠がはずされた。
「大丈夫か、すぐに逃げろ」ダンテは? と聞かれ「オレもただの年寄りじゃないんだよ」太い笑顔だった。
顔を上げたダンの目に、アリエナが映った。「アリエナ――」と、腫れたまぶたを上げて、ダンが言った。
「なんてこった、神に仕える悪魔どもが」と、ダンテが舌打ちをしながら毒づいた。
アリエナの手には、銃が握られていた。必殺の銀の銃弾が、こめられていた。
姿を現したエンゼルが、薄笑いを浮かべながら近づいてきた。
「フフフ、手配中の山賊まで姿を現すとはな――」と、すぐに笑いが凍りついた。
ダンの変身が、始まった。異様な光景を目の当たりにして、逃げ出す者が後を絶たなかった。
「さっさと撃つんだ!」と、エンゼルが苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、アリエナを小突いた。
わなわなと震えるアリエナが、目をつぶりながら引き金に力をこめた。
獣に変身したダンは、大きく口を開け、天に向かって吠えた。その口には、なぜか牙が生えていなかった。
「オレが殺したんじゃない!」と、ダンが叫んだ。
銃を持ったまま、アリエナが嗚咽をもらしながら、その場に力なく膝をついた。
「くそっ――」エンゼルがアリエナの銃を力まかせにもぎ取り、ダンに狙いをつけた。
「危ねぇ」ダンテが、腰に下げていたナイフを抜き取り、エンゼルに向かって射るように投げた。
ダンの姿がかき消え、一陣の風がエンゼルの前を吹き抜けた。
火花がはじけ、甲高い悲鳴とともにエンゼルが崩れ落ちた。
銃を持ったエンゼルの右腕が、肘からなくなっていた。ナイフを持ったダンが、たぎる目で見下ろしていた。
アリエナが声をかけるまもなく、ダンは姿を消していた。ダンテ達の姿も、闇の彼方に消え失せていた。
満月がきれいな夜だった。
満月がきれいな夜。都会からは遠く、けれどけして不便ではない小さな村があった。
遠くそびえる山々の向こうから、いつになく悲しげな狼の遠吠えが聞こえてきた。
特に珍しいことでもなく、まぶしい光と暖かな火に溢れた村の人々は、さして気にかけることもなかった。
数日後、流れ者のような旅人が村を訪れ、恐ろしげな話を伝え去った。
人々も知る街道の町が、異端の教えを信仰した罪で、無惨に焼き払われたのだという。
詮索好きの人々が、村のあちらこちらで、ひそひそと、真偽のわからぬうわさ話に花を咲かせていた。
星明かりが照らす森の奥、とうとうと波音を立てる川岸に、傷だらけの少年が流れ着いた。
岸にうつぶせ、半ばまで水に浸かったその体は、氷よりも冷たく、石のように硬かった。
明かりも灯さず、偶然通りかかった老人に救われ、少年は奇跡的に息を吹き返した。
少年はしかし、野犬のように目を光らせたまま、口をかたくなに閉ざし、なにも口にしようとしなかった。
再び、満ちた月がめぐってきた夜、一人暮らしの老人は、赤くはぜる火の前で、静かに聖書を開いていた。
強い毛を逆立てた人影が、その後ろから、両手を大きく広げて立ち上がった。
「オレを食う気かい……怖くなんかないぜ、おまえは、獣なんかじゃない」
力なく手を下ろした影が小さく震え、かみ殺すようなすすり泣きが、いつまでも夜気に響いていた。
ダンと名乗る少年は、老人が山で射止めた獲物の毛皮を背負い、村に降りてきた。
初めての村だったが、店のおやじも、ダンテの所にいると知ると、なぜかすぐに少年を受け入れた。
使いを頼まれ、何度となく通ううち、ダンは同い年くらいの店の娘と、自然と友達になっていた。
「今日は一日遊んでこい」と、朝からもじもじしているダンを見て、老人はいたずらっぽく笑った。
顔いっぱいにうれしさをたたえてやってきた村は、なぜか地獄のような業火に包まれていた。
逃げまどう人々の中、ダンは物陰に身を隠しながら、見つからないように教会の前までやってきた。
引っ立てられ、膝をついて祈るように手を組む村長の前に、男が立っていた。
「隠し立てすると、これだけでは済まないぞ」
赤い服に黒いマントをつけた男は、教皇の勅令という紙を、高々と掲げていた。
ダンは、アリエナの待つ店に走った。名前を叫んでドアを開けると、兵士達が躍り出てきた。
戸惑う兵士達へ、村人達が次々に大きな声をかけた。「そのガキだ」「疫病神め」「化け物」
ダンを狙って振り下ろされた剣には、手加減など微塵もなかった。
刃の下をかいくぐり、ダンが森の小屋に駆け戻ると、すでに火が放たれた後だった。
「ダンテ、ダンテ!」と、何度も名前を叫んだが、誰一人、答える者はいなかった。
手がつけられないほど火のまわった小屋が、ズシンと火花を舞いあげて崩れ落ちた。
燃えさかる小屋の前で、力なく座りこむダンの顔は、涙とススで真っ黒だった。
ヒュン――と、ダンの後ろから飛んできた矢が、頬をかすめていった。
ハッとして目を見開いたダンの頬から、ツツツ、とひと筋の血が、細い線を引くように流れ落ちた。
ダンは、背を屈めるように立ち上がると、涙をこらえて走り出した。山に逃げるしか、ほかに道はなかった。
連日、山狩りが行われた。ダンの行方は、わからずじまいだった。
教皇庁からやってきたエンゼルという名の悪魔は、しかしけっしてあきらめようとしなかった。
「いいや、奴はまだこの村にいる」
父を失ったアリエナが、村長の家に連れてこられた。その目には、憎しみの炎が宿っていた。
”出てこなければ、娘の命はない”と、おふれが出され、あっという間に村の隅々にまで広がった。
汚い罠だったが、ダンは刻限どおりに姿を現した。手錠が、その手にかけられた。
村の人々が、口々に言い合った。「よかった、これで助かった」
「父さんを返して!」アリエナが、ダンの顔につばを吐いた。父親の生命を、ダンが奪ったことになっていた。
満月をさけ、勅令の一団は村を去ろうとした。しかし誰の仕業か、村に通じる唯一の橋が、落とされていた。
長い逗留となった。好き勝手に振る舞う彼らに対し、村人達は静かに抵抗を企てていた。
そんな動きを察してか、エンゼルは血塗られた見せ物の準備を兵士達に指示した。
村人達が怪訝に思うほど、兵士達の動きがあわただしくなった。まるで、戦争でも始めるかのようだった。
ダンが広場に連れ出された。手錠をはめられたまま、全身血だらけの姿は、誰もがその惨さに息をのんだ。
食べ物はおろか、水すらも与えられず、ダンは兵士に見張られる中、地に打たれた杭に幾日も繋がれていた。
夜。警備は穴だらけだった。爆薬が火を噴いた。兵士達はあわてふためいた。続いて、銃声が轟いた。
ダンテ率いる黒覆面の男達は、兵士達を圧倒していた。ダンの手錠がはずされた。
「大丈夫か、すぐに逃げろ」ダンテは? と聞かれ「オレもただの年寄りじゃないんだよ」太い笑顔だった。
顔を上げたダンの目に、アリエナが映った。「アリエナ――」と、腫れたまぶたを上げて、ダンが言った。
「なんてこった、神に仕える悪魔どもが」と、ダンテが舌打ちをしながら毒づいた。
アリエナの手には、銃が握られていた。必殺の銀の銃弾が、こめられていた。
姿を現したエンゼルが、薄笑いを浮かべながら近づいてきた。
「フフフ、手配中の山賊まで姿を現すとはな――」と、すぐに笑いが凍りついた。
ダンの変身が、始まった。異様な光景を目の当たりにして、逃げ出す者が後を絶たなかった。
「さっさと撃つんだ!」と、エンゼルが苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、アリエナを小突いた。
わなわなと震えるアリエナが、目をつぶりながら引き金に力をこめた。
獣に変身したダンは、大きく口を開け、天に向かって吠えた。その口には、なぜか牙が生えていなかった。
「オレが殺したんじゃない!」と、ダンが叫んだ。
銃を持ったまま、アリエナが嗚咽をもらしながら、その場に力なく膝をついた。
「くそっ――」エンゼルがアリエナの銃を力まかせにもぎ取り、ダンに狙いをつけた。
「危ねぇ」ダンテが、腰に下げていたナイフを抜き取り、エンゼルに向かって射るように投げた。
ダンの姿がかき消え、一陣の風がエンゼルの前を吹き抜けた。
火花がはじけ、甲高い悲鳴とともにエンゼルが崩れ落ちた。
銃を持ったエンゼルの右腕が、肘からなくなっていた。ナイフを持ったダンが、たぎる目で見下ろしていた。
アリエナが声をかけるまもなく、ダンは姿を消していた。ダンテ達の姿も、闇の彼方に消え失せていた。
満月がきれいな夜だった。