くりぃーむソ~ダ

気まぐれな日記だよ。

数術師(8)

2014-07-31 07:04:10 | 「数術師」
 片腕になった男が、左手で拳銃を構えた。しかし、彼の方がひと息早く、肩から下げていた自動小銃を腰だめに構え、しっかりと男に狙いをつけていた。
「安全装置は、はずしてある。拳銃を下に置いて、後ろに下がるんだ――」と、彼は言った。
 男は、目をそらさずに拳銃の向きを変えると、足もとに置いてゆっくりと後ろに下がった。
 彼は小銃を構えたまま、一歩、二歩と男に近づくと、銃口を空に向け、弾が尽きるまで撃ち続けた。
 カランカラン……と、最後の薬きょうが音を立てて転がった。彼は、小銃を投げ捨てて言った。
「このまま立ち去るか、私を捕まえるか、道は二つある……」
 と、彼が言い終わるより早く、リーダーの男は迷わず足もとの拳銃を拾い上げ、薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、彼の顔に銃口を向けた。
 二人のそばで、一部始終をうかがっていた私は、彼の意図に気がつき、とっさに言った。
「やめるんだ!」
 叫んだが、男は耳を貸さなかった。かわいそうな目をした彼が、ため息をつくような顔で私を見ていた。
 あられが水たまりに落ちるような音を立て、暗い夜空の彼方から加速度に乗って降り注いだ銃弾が、次々と男の体に突き刺さった。彼が空に向けて撃ったものだった。
 私は、倒れた男に駆け寄り、目も当てられないほどの致命傷におろおろしながら、彼に怒りをぶつけた。
「なんてことをするんだ、お前は人間じゃない」
 彼は、遠くを見るような目で私を見ながら、無表情に静かな口調で言った。
「彼には立ち去ることもできたはずです。私をひどい目に遭わせようとさえしなければ、明日にはふかふかのベッドの中で、心地よい眠りにつけていたでしょう」
 目の前で起こった事が信じられず、私は震えながら、その場に座りこんでしまった。
「なんて事だ……」と、私はこの時、何度もうわごとのように繰り返していたのだと思う。彼に体を支えられ、歩いて港を後にしたことだけは、今でもはっきりと覚えている。
「君は、なぜ追われているんだ。あの連中は一体、何者なんだ」と、私は彼に聞いた。「もしかすると、原因は私にあるんじゃないのか?」
「隠さないで教えて欲しい」と、私は立ち止まり、彼の胸えりをつかんで、詰め寄った。「どうして隠すんだ。私は何をやったんだ――」
 彼の胸をつかむ手が、わなわなと震えていた。涙が、とめどなく溢れて頬を伝った。
「申し訳ありませんが、博士に何があったのか、私にはわかりません」と、彼は震える私の肩に手を置きながら、静かに言った。「もしかすると、私に関係があるのかもしれませんが、事実は、ご自分の目で確かめる以外にないと思います」
 そして、彼は話し始めた。

         4
「私のことは、どこまで調べられましたか」
 私は、ポケットにねじこんだ新聞記事を取り出すと、事故の記事を彼に手渡した。そして、記事に書かれた神という教授が彼であること。不可解な事故にあったと思われていたが、実際にはこうして無事でいることなどを、推測と前置きしつつ、拾い集めた情報をつなぎ合わせて話をした。
「――ご推察のとおり、私は神です」と、彼は自分の正体を明かした。
「しかし、君が神教授なら、確かに事故にあったはずでは――」
「この記事にある、髪のことですか?」
 私はうなずいた。
「私の研究室で、私以外の髪の毛が見つかる方が、不自然ではないでしょうか」と、彼は私に新聞記事を返しながら言った。「不審火の疑いをかけられ、警察があれこれ嗅ぎ回るのを嫌った人間が、事実を霧の中に隠そうとして、苦し紛れにねつ造した証拠にすぎません」
「しかし、事故じゃないとすれば――」
「事故というのは、意図せず起こるものです。しかしあの火災は、私が故意に起こしたものなのです。その理由は、私の命を脅かすような警告を発し続け、自分達の仲間に加えようと迫ってきた連中への、私からの回答です。いわば、宣戦布告にほかなりません。報道では取り上げられませんでしたが、火災を起こした研究室には、私が彼らに残したメッセージがありました。それぞれの正しい方角に書いた数字です。数字を使って、私は自分の研究室に独立した空間を作りました。たとえ火災が起こったとしても、研究室だけが燃える計算でした。独立した空間と、別の空間を数学的につなげ、意志によって操作することで、私はマジシャンにも負けない完璧な脱出を成功させました。火災を起こした研究室から、まったく別の場所へと移動したのです。」
「そんなことが――」
「私達が港に移動したのも、同じ方法を用いた結果です――」
「しかし、それはあまりにも危険じゃないのかね――。だいたい空間を操作すれば、時間が……」と、私は言葉を飲みこんだ。
「おっしゃるとおりです。空間移動には、それなりの乗り物が必要です。しかし、現代の我々には、時間の海を乗り越え、無事でいられるほど頑丈な船を造る技術がまだありません。時間の影響を最小限におさえ、空間移動を可能にしようとすれば、そこにはどうしてもひずみが生じてしまうのです」
「……わかったぞ。だから私達はここへ、行き先を指定できないんだな――」と、私は言った。「しかし、なぜ君はこんな危険なことを続けるんだ……。研究者としての将来を捨て、事故を装って自分の存在を社会から消し去ってまで、たった一人で戦わなければならない理由とは、一体どんな事なんだ」
「……信じられないかもしれませんが、私達が科学によって究明しようとしてきた真理は、既に発見されているのです。真実の知識は、科学者がまだ発見していない未知の真理を含め、そのほとんどが歴史の闇に封印されてきました。本来なら、人類すべてが共有していなければならない知識は、自らを”神の杖”と称する秘密結社によって、独占的に管理され、厳重に守られた金庫の奥で、限られた一部の人間以外には見ることも許されず、永い眠りにつかされているのです――」
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数術師(7)

2014-07-30 06:55:10 | 「数術師」
 驚いた私は、ナイフを投げた男が銃を構えるのを見て怒りを覚え、手首をつかまれたまま体ごと男にぶつかった。しかし、女とは思えない力ですぐに引き戻され、膝の後ろを蹴り上げられて、うつぶせに倒された。立ち上がろうと抵抗したが、手足をばたつかせただけだった。簡単に押さえこまれ、まるで身動きができなくなった。
「グッ……」と声が上がった。ナイフを投げた男が、私のすぐ横にどしん、と仰向けに倒れた。
 迷彩服の男達が、ササッと身を伏せた。リーダーの男が、蜘蛛のように低く這い動き、仰向けに倒れた男のもとに向かった。細い息をしている男の腹部には、ぎらりと冷たく光るナイフが突き刺さっていた。
「気をつけろ、ヤツの術が仕掛けられている」と、リーダーの男が低い声で言った。
(――術?)
 私には、それがなにを意味するのかわからなかった。
 リーダーの男が傷ついた男を手当すると、私は髪を鷲づかみにされ、またその場に立たされた。後ろに組んだ手をつかんだ女は、鷲づかみにした髪を引いて弓ぞりにさせると、苦痛に顔をゆがめる私を盾にしながら、背中を押して小径の先を歩かせた。
 緑の芝生を抜けると、路地の舗装道路に出るはずだった。しかし、小径の先は、どこかの港だった。潮の香りが、プンと鼻をついた。私は思わず立ち止まり、防波堤を洗うザブンという波音を耳にしながら、背中を押す女に逆らって、後ろを振り返った。たった今歩いてきたばかりの小径が消え、代わって海岸特有の低い雑木が、夜の闇に溶けるほど遠くまで生い茂っていた。捕まえられていることも上の空になるほど、頭の中が混乱していた。
「私なら、ここだ  」
 彼だった。
 私を一人残したまま、迷彩服の連中が四方に散らばった。

 ――プスン、――プスン。

 と、空気の抜けた風船が、立て続けに割れるような音が聞こえた。見ると、片膝立ちで銃を構えていた男が、ゆらゆらと、煙のようにくゆるおぼろな姿に変わり、風に舞う砂のように吹き飛ばされていった。
 私はあわてて、冷たいアスファルトの上に身を伏せた。
「撃つな!」と、リーダーの叫び声が聞こえた。
 恐ろしかったが、右肩を支えに顔を上げると、私を引っ立てて来た迷彩服の女が、蜘蛛のような姿勢で這い動き、彼に向かって飛びかかるのが見えた。
 タン、タンと二度、短い銃声が聞こえた。
 私は、目を見張った。
 彼の姿が消え、代わって姿を現したのは、鏡に映したかのような彼女自身だった。向かい合わせの姿でこちらを向いたもう一人の女は、自分自身に向けて、ユラリと陽炎が立ちのぼる銃を構えていた。
 リーダーの男が、素早く女に駆け寄った。頭をがくん、と後ろにのけぞらせて倒れる女を、その腕にひしと抱きとめた。
 目を閉じて、力なく仰向けになった女の額には、赤く判を押したような穴がひとつ開き、赤い血が細く線を描いて、長い髪を伝うように流れ落ちていた。鏡に映したかのような女の姿は、もうどこにもなかった。
 一人残されたリーダーの男は、ぐったりとした女を抱えて茂みの中に逃げこむと、息を潜めて身を隠した。
「お前達の負けだ。もういい加減にしたらどうだ」と、彼の声が聞こえた。
 彼は、いつの間にか私のすぐそばに立っていた。その肩には、男達から奪い取ったらしい自動小銃がかけられていた。彼は、私の手を縛っているロープを解くと、体を起こした私に手を貸して立ち上がらせた。
「知っているのだろう、私の数術(じゅじゅつ)のことは――」
 リーダーの男は、細い雑木を背に銃を構え、茂みの中からこちらをうかがっていた。
「空間をいじったせいで、私の家はどこか遠くへ移動してしまった。先ほど、刃物で怪我をした男がいたと思うが、いまも苦痛に耐えながら、君達の助けを待っているはずだ。早く探してやった方がいい」
「お前を捕まえるのが、私達の任務だ」と、リーダーの男が抑揚のない声で答えた。
「おいおい……」と、彼は困ったように言った。「捕まえるだけにしては、鉄の弾をずいぶんと撃ちこんでくれたじゃないか」
 リーダーの男が、茂みの中からザザザッと枝を揺らして飛び出した。見ている目が追いつけないほど素早い動きだった。男は勢いを保ったまま、空中に高く跳ねあがった。飛膜を広げたムササビのように両手足を広げ、彼に襲いかかってきた。その右手には、ぎらりと光るナイフが握られていた。
 どん、と和太鼓が打ち鳴らされたような振動が空気を振るわせた。宙に舞い上がったリーダーの男が、ワイヤーで引かれたように後ろへはじかれた。
 蜘蛛のような姿勢で音もなく地面に伏せた男は、そのままじっと彼の様子をうかがっていた。
 襲いかかられた彼は、肩にかけた小銃を手にするひまもなく、両腕を構えて頭部を守ったまま、右足を後ろに引いて背をゆるくかがめていた。どこにも怪我はしていないようだった。
 再び、リーダーの男が立ち上がった。私は、すぐに異変に気がついた。あるはずの右腕が、肩の部分から袖ごとなくなっていた。腕がすっぱりと切れ落ちた肩口からは、なぜかまったく血が流れていなかった。
 男の腕は、すぐ目の前の足もとに落ちていた。持っていたナイフを放し、指で地面を掻きながら、手探りするように這い動いていた。見たこともない奇妙な生き物のようだった。よく見れば、腕は体からずれ落ちただけで、男の体と依然として繋がり、意志のとおり動かせるようだった。
「お前達に仕事を依頼した組織の連中は、私のことをすべて教えてくれたわけじゃなさそうだな」と、彼が腕を下ろしながら言った。「私にとっては、お前達が仕掛けてくることなど、なんの痛みもともなわない嫌がらせのようなものだ。そんなことに命をかけるなんて、なんともバカげているとは思わないか?」

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数術師(6)

2014-07-29 06:19:24 | 「数術師」
”追われているのは、ぼくも一緒です”と、彼はそう言った。私を追って来た男達の正体を、彼は知っているのに違いなかった。
 なぜ、私達二人は追われているのか。理由はおそらく、追っ手が欲しがるなにかを、私達が持っているせいだろう。彼が、男達から私を助けたのは、偶然ではない。男達が手に入れたがっている物を、渡さないためだ。当然、彼は私が何者か知っているし、自分と同じ物を持っていることも、知っていたはずだ。
 なんらかの原因で、私は昨日の夜までの記憶を、いっさい失ってしまった。しかし、彼には好都合だったかもしれない。家に招待し、着替えをさせ、眠っているうちに私が持っていた物を手に入れられたのだから……。
 人の目を盗んで、私は事故の記事が載ったページを破りとった。乱暴に折りたたみながら、上着のポケットにねじこんだ。
 急いで図書館を後にすると、私は再び彼の家に向かった。彼に真偽を確かめる以外、事実を知る術はなかった。
 外は、もう日が暮れかかっていた。さいわい、誰かに後をつけられている様子はなかった。ビルの隙間に隠れた路地を迷いながらも見つけ出し、奥へ進むと、緑の芝生を渡る敷石の小径が見えた。
 と、背中に熱い物を感じた。重い鉄骨を、背骨に突き刺されたかのようだった。後ろに手を伸ばすこともできないまま、すぐに身動きができないほどの鈍痛に襲われた。
「うぐっ」と、うめき声を上げつつ、その場に膝をついた。手袋をはめた大きな手が、背後から私の口を押さえつけた。両手でつかみはがそうとしたが、片手をつかまれ、肩がはずれるほど強く、後ろ手にねじ上げられた。
 意識が遠のく寸前、ゴーグルを着けた迷彩服姿の男達が、蜘蛛のように低く地面に這いつくばり、私を取り囲んでいるのが見えた。

         3
 …………。
 目が覚めると、私は猿ぐつわを噛まされていた。
 ほの暗い照明がひとつ、ぽつりと点されているのが見えた。
“ここは……どこだ……”
 私は、背もたれのある椅子に座らされ、椅子ごと後ろ手に縛りつけられていた。
 ぐったりと、前かがみになっている体を起こした。腫れぼったい目を開け、暗い部屋の中をうかがった。
 はじめは、ここがどこかわからなかった。だが、目が次第に慣れてくると、彼の家に捕らえられているのがわかった。
 路地で、私を襲ったゴーグルの男達が、椅子の周りで息をひそめていた。私の右側には、身をかがめている男が見えた。正面に見える玄関のドアの横には、立ち膝をつき、壁に耳を当てている男がいた。左側に見えるソファーの下にも一人、玄関に頭を向け、伏せている男の姿があった。ほかに何人隠れているのか、路地で私が見た男達は、少なくとも六人はいたはずだった。
 背広を着た昨夜の男達とは、まるで異なった人間達だった。訓練され、幾度となく死地をくぐり抜けてきた者だけが身にまとう、ヒリヒリとした殺気をまとっていた。

 コツン、カツン……

 と、柔らかい革靴の音が聞こえた。
 彼だろうか――。

コツン、カツン、コツン……

部屋中が、水を打ったような緊張感に包まれた。男達の手が音もなく動き、それぞれの手にサイレンサー付きの拳銃が握られた。
「ンンッ――」と、私は体をよじりながら、必死で声を上げ、彼に危険を知らせようとした。
 横にいた男が、私のみぞおちを拳銃の底で叩いた。遠慮のない一撃だった。息が詰まり、前のめりに体を折り曲げた。猿ぐつわがなければ、酸っぱい胃液を床一面に吐き散らしているはずだった。胃袋を腹筋ごと鷲づかみされたような痛みと苦しさで、気を失ってしまいそうだった。
 カツン、コッツン……と、近づいてきた靴音が、玄関のドアの前で止まった。ノブがゆっくりと回り、ギッと小さく軋んだドアが、外に向かって開いた。
 ドアの陰に潜んでいた男が、身をかがめたままドアを押し開け、外に飛び出した。
 カッカツン、コッツツン……と、足早に遠ざかっていく靴音が聞こえた。飛び出した男の後を追って、暗闇の中から立ち上がった何人かの男達が、それぞれに銃を構えながら、雪崩を打ったように外へ駆け出していった。
 張りつめた空気の中、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる静けさが続いた。
 わずかな時間だったかもしれないが、いやに長い時間が過ぎていくようだった。
 追いかけて行った男達は、誰一人として戻ってこなかった。
 ソファーの下に伏せていた男が体を起こし、薄明かりの中、手でサインを出した。と、部屋の奥から、リーダーらしき男が姿を現し、ゴーグルをはずすと口を開いた。
「もういい、次だ。そいつのロープをほどいて、連れて行け」と、男は言った。「気を抜くなよ。銃の安全装置は間違いなくはずしておけ――」
 私は、縛られていたロープを解かれた。痛む手首をさすっていると、頭の後ろに冷たい銃口が突きつけられた。はっとして動きを止めると、耳元で、立って両手を頭の後ろに組むよう指示された。女だった。指示に従うと、また後ろ手に両手を縛られた。
 女は、後ろ手に縛った両手をさらに痛めつけるようにきつくつかむと、私を玄関のドアに向かって歩かせた。
 背中をつつかれながら玄関を出ると、夜露でしっとりと濡れた敷石の小径が、芝生の奥へと伸びていた。外灯のない路地が、薄曇りの空から時折のぞく月明かりで、気まぐれに照らし出された。
 コッツン、カツンと、姿の見えない靴音が、小径のそばの植えこみを揺らした。
 私の後ろからついてきた男が、とっさにナイフを投げた。明らかに命を狙っていた。
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数術師(5)

2014-07-28 06:16:20 | 「数術師」
 古い街並みを一歩出ると、そこはもうビルと人とがひしめくビジネス街だった。昨夜、彼の家を訪れたときには、ずいぶんと長く歩いたような気がした。しかし、狭い路地をぬけると、あっけないほどすぐに人いきれの中に出ることができた。街は、夜とは雰囲気をがらりと変えていた。暗い夜のベールを脱ぐと、街は目がくらみそうなほど、たくさんの色とトゲトゲしい光で充ち満ちていた。
 振り返ると、歩いてきたばかりの路地が消えていた。彼の家に続く道は、ビルの間に挟まれた、決して道とは言えない隙間に変わっていた。人が横向きに立って、やっと体を入れることができるような、ビルの谷間になっていた。
 私は、驚くと共に目を疑って、あわててビルの隙間に足を伸ばした。フッ、と目を細めさせるほどの弱い風が吹いた。足を止めると、そこは彼の家に続く路地だった。目の錯覚にしては、どこかに人の手が加えられているようだった。手のこんだ、大仕掛けのイリュージョンのようだった。
 街を歩き始めると、はっきりとではないが、どことなく見覚えのある場所がいくつもあった。デジャヴュかもしれないが、この街を知っているという思いが、次第に強くなってきた。
 スーツ姿の人々が、途切れることなく行き来するビジネス街。昨夜、私を捕らえようとした連中が、後をつけてきているのではないか……。時折立ち止まっては、自然なふりを装って周囲を確認した。辺りに目を配りつつ、行き交う人々の中にまぎれながら、隠れるように歩いていると、人の流れの先になにかが見えるような気がした。
「たしか、ここは駅前通り……」
 うっすらと、額に汗をにじませながら、早足で進んだ。通りの先には、思い浮かんだとおりの駅があった。ぼんやりとしていたイメージが、はっきりと輪郭を持つまで記憶が回復しているようだった。
 そういえば、この近くに図書館があったはず……。と、自信を持ち始めた私は、図書館があると思う方向に向き直り、大股に歩き始めた。
 図書館を示す案内看板が、電柱の胴に取り付けられているのを見つけた。
 私は、うれしさのあまり足の痛みも忘れ、急ぎ足で図書館に向かった。
 イメージのとおり、象牙色をした図書館が現れた。
 もっと時間をかけて街を歩けば、なくしている記憶を取り戻すことができるかもしれない。希望が、フツフツと湧き上がってきた。すぐにでも、人通りの多い道に戻るつもりだった。後をつけられている様子はなかったが、不用意に人目に付くことは、避けなければならなかった。しかし、立ち止まって図書館に出入りする利用者を目にしているうち、なにか自分自身をさがす手がかりがあるのではないかと、ついつい冷静さを失い、思うままに図書館の階段を上っていた。
 館内は、しんとした空気に包まれていた。聞こえてくるのは、受付で手続きをするやり取りと、本を閲覧している人々のゆったりとした靴音ばかりだった。
 私は、居眠りをしている男の隣に席を見つけて、腰をおろした。無精ひげを蓄えた男の口元には、うっすらとよだれの筋が光っていた。と、席に腰をおろした私に気がつき、男が顔を上げた。思わず目が合い、男が「ヒッ」と目を剥いた。火傷を負った顔を見て、悪夢の続きだと思ったのだろうか。私はすぐに顔を伏せ、帽子を深く被り直した。居眠りをしていた男はあわてて席を立つと、逃げるようにどこかへ行ってしまった。
 机の上には、男が忘れていった新聞が残されていた。私は新聞をそっと引き寄せると、紙面を広げた。
 政治にも経済にも、まるで関心がなかった。新聞をめくっていくと、科学欄を見つけた。私は、彼の家で読んだ記事を思い出した。
 彼の家で手にした新聞は、3年前の物だった。受付に行き、新聞のバックナンバーが図書館にないか、早口でたずねた。私の顔と言葉の勢いにおびえたような受付の女性が、目を泳がせながら指をさして、新聞の場所を示した。礼を言いながら、私は新聞が置いてある書架へ小走りで向かった。
 分厚い新聞の縮小版が、びっしりと並べられていた。探している新聞社の号を見つけると、古い号から順に掲載された科学欄に目を通していった。数学に関連した記事だけではなく、社会面にも目を走らせた。
 裏表紙からページをさかのぼっていき、とうとう気になる記事を見つけた。小さな記事だったが、不可解で恐ろしい事故のことが書かれていた。
 日付は、二年前。場所は、大学の研究室だった。深夜、なんらかの実験中に火災が起こり、中にいた教授が一人、亡くなったと書かれていた。それだけであれば、不可解なことはなかった。危険な物質を使用する実験であれば、誤って火災を起こしてしまうこともあり得るだろう。だが、記事はそれだけで終わっていなかった。亡くなった教授の遺体は、焼け焦げた頭髪以外、なにも残っていなかった。それほどの火災にもかかわらず、奇妙なことに火は研究室の中だけを焼きつくし、隣り合ったほかの研究室に燃え移ることはなかった。そのせいで、同じ学部で働く助手が、教授に依頼されていた講義資料を研究室に届けに来る翌朝まで、誰にも発見されなかった。新聞には、”神 鏡也教授”と事故にあった教授の名前がのせられていた。私が読んだ記事の教授と、間違いなく同じ人物だった。
 数学の教授が、どんな実験をすれば、人体が燃え尽きるほどの火災を起こすことができるのだろうか……。
 私は、神教授の経歴を調べた。教授は、関東地方の高校から東大へ進み、卒業後は海外の大学へも留学していた。帰国後は、民間の研究機関に研究員として迎えられていた。三年前の記事は、研究機関を辞め、大学教授として、本格的な研究に取り組み始めた直後のものだった。
 教授の研究と横顔を紹介する記事が、科学雑誌のバックナンバーに掲載されていた。笑顔で映るカラー写真があった。写真の教授は、新聞記事の写真同様、雰囲気が彼とよく似ていた。ただ、比べれば髪は短く、その表情は、同じ人物とは思えないほど、きらきらとした生気に溢れていた。
 もしも、彼が事故にあった教授と同じ人物であるのなら、亡くなった人物は何者なのか。仮に同一人物であったとしても、エリート中のエリートとして、将来を嘱望されていたはずの教授が、なぜ街の奥深く、人との接触をあえて避けるようなさびしい家で、世捨て人のような生活を送ることになったのか。
 失われた自分を探すつもりが、自らを潜水艦の艦長になぞらえた、不思議な男の正体を暴くことに夢中になってしまった。
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数術師(4)

2014-07-27 06:33:37 | 「数術師」
 襲いかかるロボット達の手が、いくつも私の背につかみかかった。骨が砕けそうなほど力がこもった鉄の指を、痛みをこらえながら、歯を食いしばって引きはがした。
 工場の外を目指して、私は必死で逃げ続けた。私の行く手を、にわかに吹き上げた炎が遮った。熱い炎はみるみるうちに勢いを増し、うっそうとした密林のように行く手をはばんだ。赤い巨木のような火柱が、竜巻のようにあちらこちらでとぐろを巻き、天井を突き破るほどの勢いで立ちのぼっていた。間断なく吹き出す黒煙が、濁流となって工場の中に溢れ、もうもうと充満した煙で、手を伸ばした先も見えなくなった。
 燃えさかる炎の中、息ができなくなった私は、ロボット達に捕らえられ、うつぶせに倒された。焼け焦げた床に顔を押しつけられ、激しい痛みを感じた。手足の自由を奪われ、身動きのできない私は、顔を上げることさえできなかった。
 火事で制御できなくなったのか、私を捕らえたとたん、ロボット達の動きが変わった。ひもの切れた操り人形のようになり、バタバタとその場に崩れ落ちていった。うつぶせにされている私は、折り重なるように動かなくなったロボットの下敷きになり、息苦しさの中、次第に意識を失っていった。

 ――……。

 朝だ。
 まぶしい光が窓を抜け、ソファーで横になっている私の顔を熱く照らしていた。
 じめりと汗ばんだ体を起こすと、足もとにかかっていた毛布がはらりと床に落ちた。さらさらと揺れる秋草の匂いが、ぷんと鼻をついた。
 彼の姿は、どこにもなかった。寝違えたのか、肘掛けに乗せていた首の後ろが、鈍器で殴られたように痛く、重かった。
 はだけた服を直し、水を飲もうとキッチンに立った。トーストと目玉焼きが、テーブルの上に並べられていた。
 彼の気づかいに感謝しつつ、私は用意されていた食事をとると、ソファーに戻った。ふっかりと、包みこまれるような心地よさが背中から伝わってきた。部屋を通り過ぎていくわずかな風が、時折いたずらをするように窓を揺らした。うとうとと、ついうたた寝をしてしまいそうだった。昨日のことが、夢のようだった。
 ゆっくりと、深く息をしながら目を閉じた。真っ暗な闇が、広がった。
 笑う男の影が、まぶたの裏に映った。幻だと思いつつ、私はすぐに目を開けた。心臓の鼓動が、一気に早くなった。自分は誰なのか、考えたとたん、頭の中の目覚まし時計が痛みとともに鳴り始めた。失っている記憶は、まったく戻っていなかった。
(私を追ってきた男達は、何者なんだ……。私をこの家に連れてきた彼は、男達の仲間ではないのか……。なぜ、私をこの家に連れてきたのか……)
 疑問が、次々と思い浮かんだ。頭の奥が、しくしくと痛んでいた。髪をかきむしるように頭を抱え、ソファーから立ち上がった。
 私は、家の中を歩いた。わずかな家具しかない家は、生活感がほとんど感じられなかった。ここは、本当に彼の家なのだろうか。まるで、きれいに掃除された山小屋か、ペンションのようだった。
 と、奥に続く部屋のドアが、わずかに開いていた。近くに寄ると、ベッドが見えた。彼の寝室のようだった。私は、ゆっくりとドアを開け、中に入っていった。
 寝室の中は、きれいに片づけられていた。ベッドも、昨夜は一睡もしなかったのではないかと思うほど、きちんと整えられていた。洋服ダンスがひとつと、机。ベッドの隣には、スタンドの置かれた小さなチェストがあった。スタンドの下には、折り返されてたたまれた新聞があった。私は新聞を手に取ると、彼が読んでいたはずの紙面を開いた。科学欄だった。数学についての記事が載っていた。専門的なことが、一般向けの簡単な解説も添えて書かれていた。解説を読むまでもなく、記事の内容を理解することができた。気になって、もう一度読み返した。もう一度読み返そうとして、日付が目に入った。
(3年前の新聞を、なぜ今頃……)
 自分の言葉に驚いて、手が止まった。腕時計を見たが、アナログの腕時計には、日付を表示する機能はなかった。寝室を出て、カレンダーを探した。けして広くはない家中を探したが、カレンダーも、日めくりも、日付を確認できる物はどこにも見あたらなかった。
 しかし私は、今年が何年かを知っていた。夢中になってカレンダーを探しているあいだ、わずかだが、記憶が戻り始めているのに気がついた。もう一度、新聞の記事を見た。”神 鏡也(じん きょうや)”という若い数学教授の研究が、紹介されていた。
「宇宙が絶対的な法則で成り立っているのであれば、その法則は数学的な表現が可能です」
と、教授は記事の中で、自信ありげにインタビューに答えていた。
 記事には、机に向かう教授の写真が載っていた。小さな横顔の写真だったが、伝わってくる雰囲気は、どこか彼とよく似ていた。
 寝室の机には、数学に関する論文や専門書が、何冊か置かれていた。手に取ると、どれも内容の難しい物ばかりだったが、自分でも、以前に一度ひもといたことがあるような気がした。
 手に取った本を元に戻すと、寝室を出た。これからどうすべきか、彼が帰ってくる前に結論を出さなければならなかった。外に出れば、また何者かに襲われるかもしれない。しかし、このまま彼の家にいても、いたずらに時間ばかりが過ぎていくだけで、自分が何者であるのか、思い出すことなどとうていできるはずがなかった。
 自分は何者なのか、失った記憶を取り戻すためには、少しでもヒントを見つけなければならなかった。
 窓の外には、遠く建ち並ぶビルが見えていた。危険だが、いつまでも自分自身から逃げているわけにはいかなかった。私は、彼の家を出ることにした。まだ乾ききっていない自分の服に着替え、いつ返せるかわからなかったが、玄関横の壁に掛けてあった帽子を借りることにした。誰もいない部屋を振り返り、小さく頭を下げると、勇気を出して玄関のドアを開けた。
 ピリリとした冷たい空気が、小さく体を振るわせた。玄関の前に伸びる敷石の小径をぬけると、静かだった雰囲気とは一変、街は耳を覆いたくなるような喧噪であふれかえっていた。
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数術師(3)

2014-07-26 05:59:06 | 「数術師」
「行きましょう。このままでは、風邪を引いてしまいます」と、彼は私に背を向け、黙って前を歩き始めた。気がつけば、雨はだんだんと強さを増し、大粒の雨に変わっていた。
 彼の後をあわてて追いかけながら、私は道路に倒れた男を振り返った。男は、両手で腹を押さえながら、横になってうずくまっていた。苦悶の表情を浮かべ、ひくひくと悶絶していた。腹を押さえている指の間から、焼け焦げた匂いのする煙が、幾筋も細く立ち昇っていた。
 私は、息を切らせながら彼に追いつき、肩をつかんで足を止めさせた。
「誰なんだ――」と、絞り出すような声で言った。
「あなたは、誰ですか」立ち止まった彼が、質問をそのまま返してきた。
 ブルブルと、体が震え始めた。理由もなく、恐かった。足がすくみ、見かねた彼が手を貸してくれなければ、その場に倒れていただろう。私は唇を噛みしめ、なんとか平静を装うとした。
「無理はしないでください」と、彼が困った顔をして言った。「まずは怪我の手当をしましょう。話はその後で―」

         2
 ここは、オフィス街のようだった。外観も高さも違う様々なビルが、窓をはめこんだ小山のように連なっていた。多くの飲食店の看板が、色とりどりに掲げられ、見る者の目を誘っていた。
 彼はゆっくりと、時折、足を痛がる私を気づかいながら、建ち並ぶビルの間を歩いていった。大きな交差点を曲がり、狭い路地を抜け、この土地で生まれ育った人間にしかわからないような街の奥へと、どんどん進んでいった。
朝になれば、まな板を打つトントントン、と小気味のいい音が聞こえてきそうな、古びたトタン屋根の住宅が点々と残っていた。低い屋根の向こうには、見上げるばかりのビル群がそびえていた。まるで、違う時代に足を踏み入れたような感覚だった。思い出の中にしか残っていないはずの風景を、そっくり切り取って再現したかのようだった。
 道を進むと、ぽっかりと広い野原のような芝生が現れた。きれいに手入れをされたその奥には、避暑地によくある別荘のような、木造の古い小さな洋館が建っていた。
 彼は、ゆるい弧を描いて据えられた石の小径をいくと、屋根のある玄関のドアを開けた。
「どうぞ、お入りください」と、彼は靴のまま、家の中に入っていった。
 私は、雨に濡れた上着を脱ぎながら、おそるおそる家の中に入った。家具のほとんどない家は、間仕切りのないワンルームといった作りで、室内を一望することができた。
「まずは着替えですね」と、彼は少ないドアのひとつを開け、服を持って出てきた。「私の物なので少し窮屈かもしれませんが、今はこれで我慢してください」
「――ありがとう」私は礼を言うと、彼が持ってきた服に着替えた。
 着替えを終えると、彼にうながされるまま、キッチンのそばに置かれたテーブルの椅子に腰をおろした。
「特別なものはありませんが、たいていの薬はそろえてあります――」と、彼は木製の薬箱と手鏡を、テーブルの上に置いた。
 私はまた礼を言うと、彼が持ってきた薬品で火傷の処置をしながら、聞いた。
「きみは、何者なんだ。なぜ、私にここまで――」
 彼は、面白そうに笑った。「追われているのは、ぼくも一緒です」 
 灯りの下で見る彼の顔は、頬がすっきりとこけて小さく、三角のあごは意志の強さをうかがわせた。うっすらと伸びた無精ひげに囲まれた唇は、血のように赤かった。太く、切れ上がった眉に似つかわしくないぱっちりとした目は、目尻が少し垂れ気味で、おどけているわけではないが、見る物を自然になごませてしまう力があった。
 分け目のないたっぷりの髪は、元々は黒かったはずだが、ところどころに大きくブチのような白髪が混じっていた。染めているわけではないだろうが、もしかすると、私には考えられないような経験が、髪の毛を白く変えてしまったのかもしれなかった。
 相手の目をまっすぐに見て話す瞳の奥には、そのやわらかい笑顔とは違い、はっきりとした意志と、強く厳しい信念が感じられた。
「私は――」と、彼は考えるように言った。「ネモ、としておきましょう。科学の深海に潜った、潜水艦のような人間ですから」
 それから、何を話しただろうか。彼の手作りで軽い食事をとり、ソファーに場所を移したとたん、抗しがたい睡魔に襲われ、そのまま深い眠りに落ちてしまった。

 ――……。

 ひどい夢だった。
 ドーム球場のように大きくて広い工場の上から、私は眼下を見下ろしていた。
 人々がびっしりと、縦横に等間隔の線が引けるほど、整然と並んでいるのが見えた。
 何をしているのだろうか? 私は疑問に思い、空中に浮かんだエレベーターで下の階に降りると、立ったままで凍りついたように動かない人々に近づいた。
 声をかけようとして足を止めると、はっと息をのんだ。人のように見えたが、人ではなかった。まるで生きているかのような、ロボット達だった。
 私に反応したのか、精巧に作られたロボット達は、一斉にこちらを向いた。方位磁石が、強い地磁気に引きつけられたかのようだった。どのくらいの数だろうか、端が見通せないほど、隙間なく並んだロボット達は、無表情で硬く、感情のない冷たい視線を、じっと私に向けていた。
 不意に、笑い声が聞こえた。
 ギョッとして振り返ると、名前は思い出せなかったが、間違いなく知っている男だった。男は大口を開け、興奮したように甲高い声で笑いながら、こちらに歩いてきた。
(逃げ出さなければ――)と、私はとっさに思った。
 重たくて、自由に動けない両腕をダラリとさせながら、ぶよぶよで、踏みこむ足の力が吸い取られるような通路を、跳ねるように走った。
 人の形を与えられ、かりそめの命を吹きこまれたロボット達が、津波のような勢いで私を追いかけてきた。笑う男は、勝ち誇ったように胸を張って腕組みをしながら、ニヤついた地獄の魔王のような顔をしていた。男は、親指を立てた右手を私に向かって突き出すと、ゆっくりと親指を下に向けた。
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数術師(2)

2014-07-25 00:24:23 | 「数術師」
 背を屈めながら、向かい合わせに並んだ机の後ろを周り、店に続くドアを開けた。薄明かりに照らされた店の中は、外から見るよりも広く感じられた。明かりはつけず、薬の置かれた棚から、目についた薬品を次々にポケットへねじこんだ。
 裏口のドアから急いで外に出ると、足を引きずりながら走って公園に戻った。濃い生け垣に囲まれた大きな樹の下に潜りこむと、ごつごつと太い根の上に腰を下ろした。かたい幹に背中をあずけ、盗んだ薬を、膿んだ火傷に手探りですりこんでいった。
 風に揺れる生け垣の間から、赤いライトを点滅させたパトカーが、ドラッグストアーの前で止まるのが見えた。どうやら、店に設置されていたセキュリティを、反応させてしまったらしかった。パジャマにコートを羽織った女性が、寒そうに腕を組みながら、やってきた男女二人の警官に早口でなにかを訴えていた。
 と、隠れていた樹の後ろを、数人の男達が走り過ぎていった。堅い靴音に混じって、一人が「いないぞ」と腹立たしげに言っているのが聞こえた。
 私は、ハッとして全身をこわばらせた。しかしなにを恐れたのか、自分でもわからないまま、思わぬ言葉が口をついた。

「殺される――」

 記憶が戻ったわけではなかった。”逃げなければ”と、すぐに心のどこかから声が聞こえてきた。恐ろしいめにあった経験から、本能的に危機を察知したのかもしれなかった。私は生け垣の中から這い出すと、公園を離れ、ひと気のない夜の街に逃げこんだ。
 舗装された道路の両側を、オフィスや会社の名前を冠したビルが占めていた。痛む足を引きずりながら走るちぐはぐな靴音が、雨に濡れた堅いアスファルトの路面に響き、しんと静まりかえった道路の四方にこだましていた。
 息を弾ませながら、だがいくらも距離を走らないうち、私を追いかけてくる足音がばらばらと聞こえてきた。
 どこからだろうか……。
 後ろから、いや、前からも――。
 私は、目に止まった建物の陰に隠れようと、歯を食いしばって懸命に走った。しかし、追っ手をやり過ごすことはできなかった。
「博士――」と、すぐ後ろから呼び止められた。
 私は逃げるのをあきらめ、息を切らせながら足を止めた。追いかけてきた男の影が、閉じられたシャッターに映っていた。ゆらゆらと伸び上がった影が、背後に立ちふさがった。
 肩幅の広い影を睨みながら、私はこぶしを握りしめ、意を決して振り返った。

「来るな!」

 暗い色のスーツを着た、二人組の男だった。私の言葉を耳にして、二人は勢いに乗った足を大きく踏み出し、重い靴音を立てながら、歩をゆるめた。しかし、勢いを落としたその歩みは、止まらなかった。不機嫌そうな顔をこちらに向けながら、大股に近づいてきた。
 今から思えば、勘違いだったのかもしれない。素性のわからない男達に追われ、追いつめられ、彼らから「博士」と呼ばれた。記憶を失っているとはいえ、疑う余地もなくはっきりと言い切られたため、私は思わず「来るな」と抵抗してしまった。彼らもまた、自分達の追っている人物が、どれほど危険な人間であるのか、容姿を含め詳しく知らされていなかったのだろう。
近づいてくる二人組の男を押しのけ、私は走り出そうとした。だが、一人に胸を突かれ、どしんと後ろに尻餅をついてしまった。突かれた胸を押さえながら、私はキッと顔を上げ、無表情に私を見下ろしている男達を睨んだ。どちらの男にも、見覚えはなかった。
 胸を突いた男が、ジャケットの内側から電話を取り出した。私から目を離さず、どこかに連絡を取ると、新たに二人の男が、小走りに道路をやってきた。
 集まった四人の男達は、向かい合って話を始めた。私は、痛む片足を伸ばし、冷たいアスファルトに腰をおろしていた。逃げるのはとっくにあきらめていたが、彼らの思うがままにされるつもりもなかった。後からやって来た男の一人が、リーダーらしかった。
「行きましょうか、博士――」男が、私の方にやって来て言った。
 別の男が、細いワイヤーロープのような手錠を持って近づいてきた。体をかがめながら、嫌がる私の手をとり、無理矢理手錠をかけようとした。ほかの男達は、私達二人を残して、どこかに走り去って行った。
 抵抗をやめない私は、有無を言わさぬ力で後ろ手に腕をねじられ、濡れそぼった路面にうつぶせに寝かされた。男の膝が首を押さえつけ、火傷を負った顔が、いやというほど硬いアスファルトに押しつけられた。

 ズドドン――

 落雷に似た振動が、ぶるぶると空気を振るわせた。馬乗りになっていた男は、抵抗していた私の手を離すと、すぐに立ち上がった。
 ズドドンという雷鳴に似た衝撃と、目が焼けるほど鋭い閃光が瞬いた。私はうつぶせになったまま、顔をそむけて目をつぶった。立ち上がった男が、焼け焦げた匂いをプンと漂わせ、私の顔の前に力なく崩れ落ちた。
「大丈夫ですか―」と、先ほどの男達のものではない声が聞こえた。
 うつぶせになっている体を起こし、まぶしい光で焼けてしまった目をしばたたかせながら、声がした方を見上げた。前屈みで、こちらに手を伸ばしている男がいた。
 戸惑いながらも、私はおそるおそる手を伸ばした。
 彼は力強く手を握ると、私を引っ張り立たせた。まっすぐに私の目を見ながら、やさしい笑みを浮かべた。
「――ありがとう」と、私は声に出したつもりだった。しかし、「アァーウ」と、かすれた笛のような空気が出るばかりだった。何度も試みたが、声は喉の奥に詰まったままで、言葉にすることはできなかった。
 二人とも、雨でびしょ濡れだった。ふと、私の命を狙っている者ではないのか、と根拠のない疑念がよぎった。しかし、逃げなければ、という強い衝動は、不思議と起こらなかった。
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数術師(1)

2014-07-24 07:00:01 | 「数術師」

         1

 今も、時おり思い出すことがある。
 戦いが始まったあの日のことだ。
 冷たい、雨が降っていた。

 ――――雨。
 雨が降ってきた。
 私はゆっくりと目をあけた。
 公園のベンチで、体を大きく投げ出すように座っていた。
 ぼんやりと明るい夜空から、うっすらと開けたまぶたに雨粒が落ちた。

 ヒリ――

 頬に痛みが走った。

 ヒリ、ヒリ――

 雨粒が顔に当たるたび、針を刺されたような鋭い痛みが走った。

 ―――― 。

 どうして頬が痛むのか。思い出そうとするが、髪をなぶる冷たい風を感じるだけで、なにも思い出せなかった。無理に考えようとすると、頭の中で不愉快な目覚まし時計がじんじんと鳴り始め、集中力をさまたげた。
 しん、と体が小さく震えた。凍えるほどではないが、吐く息が白く見えるほど、寒かった。
 私は体を起こした。両膝に肘を突き、ぎゅっとかたく目を閉じた。しくしくと集中力を邪魔する痛みをこらえ、自分がどうしてここにいるのか、まるで手がかりのない記憶を探った。
 そして、わかった。

 私には、記憶がなかった。

 思い出そうと、無理に止めていた息を大きく吸いこみながら、また目を閉じた。頭を後ろへ放り出すように顔を上げ、ベンチの堅い背もたれに体をあずけた。
 むくむくと、不安がわき上がってきた。自分が何者であるのか、これまでどんな生き方をしてきたのか、どんな性格の人間だったのか……。願うなら、社会に顔向けのできないような、重い罪を背負った人間であってほしくはなかった。
 滑稽かもしれないが、この時の私は、心の底からそう思っていた。
 神を信じる心も、未来に希望を持つ強さも、自分自身のありかがわからない人間にとっては、夢見ることを夢見ているのと同じだった。

 雨音が、だんだんと大きくなってきた。

”逃げなければ”

 不安からだろうか、いてもたってもいられない衝動を抑えながら、私は立ち上がった。
 足を一歩踏み出すたび、右膝の裏側が、硬いゴムのように引きつった。左腕が、肩の付け根からしびれたように重く、思うように動かせなかった。片足を引きずりながら、不自由のない右手で服のポケットを探った。
 持っていたのは、財布に入っていた小銭と、暗証番号のわからないカード。左手首につけた時計は、はたして正確な時刻を刻んでいるのかどうか、疑わしかった。
 フラフラと、公園のトイレに入った。暗い明かりが照らす鏡を見て、あぜんとした。鏡に映った顔の半分が、火傷で赤黒く腫れ上がっていた。こんな怪我をいつ負ったのか、まだ乾いていない傷口は、じくじくと醜く膿んでいた。
 蛇口をひねり、ちょろちょろと流れる水を手ですくうと、おそるおそる腫れあがった顔に当てた。涙がにじむほどの痛みが、奥歯にまでしみた。
 雨で濡れたズボンの上から、右膝の後ろをそっと触った。ヒリリ、と顔をしかめるほどの痛みが走った。頬と同じく、火傷を負っているのに違いなかった。
 顔を上げ、再び鏡を見た。眉をひそめたくなるような顔が映った。
「お前は、誰なんだ?」
 自分自身に話しかけながら、じっと目の奥をうかがった。鏡の中にいる自分は、ただ同じように目を見合わせるだけで、思い出のひとつも分けてくれなかった。
 コンビニエンスストアーの灯りが、鏡の端に写っていた。振り返ると、公園の外、道路を渡ってすぐの所だった。暇をもてあましているのか、制服を着た店員が一人、じっと立ち読みをしている姿が見えた。
 私は行くべきか迷ったが、何軒か隣にドラッグストアーのシャッターを見つけると、思い切って道路を渡った。
 まぶしいヘッドライトを灯した車が、追い立てるように何台も後ろを通り過ぎていった。痛む足を引きずりながら走り、誰もいない歩道にたどり着いた。わずかな距離だったが、のどがかすれるような音を立て、重苦しい息を吐いた。立ち止まって膝に手をついたが、それ以上は休まず、私は息を切らせながらドラッグストアーに向かった。コンビニエンスストアーの前を通ると、立ち読みをしている店員が、クツクツといやらしい笑顔を浮かべているのが見えた。
 ドラッグストアーの裏に回ると、顔の高さにあるガラス窓があった。当たり前だろうが、鍵がかかっていて開けられなかった。私は足下に目をやり、手ごろな石を拾い上げた。気休めとは知りつつも、周りに人がいないのを確認してから、ガラス窓を割った。予想外に派手な音が響いた。ぶるりと全身に鳥肌が立った。不審な物音を聞きつけ、誰か様子をうかがいに来るのではないかと、しゃがみこんで振り返った。身動きもせず、じっと息を殺して周囲に目を光らせていたが、人がやって来る気配はなかった。私は窓枠に残った大きなガラスの欠片を取り除き、腕を伸ばして、鍵を開けた。頭から中に忍びこむと、そこは、事務室のような狭い部屋だった。

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ムカムカ

2014-07-23 07:09:56 | Weblog
なんとも、

道議会議員のおやじ。

飛行機で悪態ついたの暴露されて、

あわてて辞任。。

会見ニュースで見たけど

ウィスキーだのワインだの

飲んじゃいたけど酔っちゃいないとか、

酔ってもいないのに

大暴れするって

そりゃ人間根本からゆがんでるんでしょ??

議員ってばそんなに偉いんかなぁ・・・。

辞任すりゃいいと思ってさ、

給料税金なんだからみんな返せや。。

ムカムカ・・・
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へろへろ

2014-07-22 06:52:44 | Weblog
なんとも、

3連休だった。

けど、

厚さにへこたれる連休だった。

土曜日だけウロウロ出歩いたけど、

厚さで逃げ腰。。

後はぐったりしてて、

日が暮れてからコンビニにアイス買いに行くのが限界だった・・・。

つらいわぁ。
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