「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

倭建命の父は孝霊天皇であった

2021-06-18 05:41:15 | 欠史八代

1 倭建命の父は孝霊天皇であった。
(1)倭建命の系譜
 古事記・日本書紀は、「12代景行天皇は倭建命の父であり、14代仲哀天皇は倭建命の皇子である」とする。これは正しいか。
 12代13代14代は潤色されている(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。また「景行天皇は倭建命のひ孫を娶り」とあることや、「仲哀天皇は倭建命が亡くなってから35年目に生まれた」ことになるため、倭建命と12代、倭建命と14代の親子関係を否定する説が有力である。これをもとに倭建命はいなかったとする説があるが、いなかったのは12代景行・13代成務・14代仲哀のほうである。12代13代14代は百済王であり、倭国王の倭建命を取り込もうとしたがほころびが生じた。
 倭国大王の13代は武内宿禰大臣(王)であった。成務天皇と同日生まれとするし、「王」を「臣」と書き換えたと思われる。12代は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心であった。木(紀)氏系図では、8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代となる。
(2)古事記・日本書紀は8代9代10代は父子承継とする。これは正しいか。
 古事記・日本書紀は、8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇・11代垂仁天皇・12代景行天皇・13代成務天皇とする。しかし、史実は8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代であった。8代9代10代11代の期間は別系統での8代とその子の彦太忍信命の期間と同じになる。12代は屋主忍男武雄心命であり13代は武内宿禰であったから8代9代10代が兄弟であり、彦太忍信命と11代垂仁天皇が同世代であるなら辻褄があう。倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継がせていた。私見では8代9代10代の時代は倭国大乱の時代(2世紀後半)であった。8代9代10代は兄弟であった。
 紀元前210年に渡来した徐福が天照大神であったことを消すために神武元年を史実より600年古くした。兄弟承継を父子承継にし、初期十数代の天皇は寿命を異常に長くした。
(3)倭姫命は7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命であった(別稿「内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった」を参照されたし)。
 倭建命は倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と一緒に全国の平定巡行をしている(一緒にいたから着物を借りたり、草薙剣を借りることができた)。倭建命は倭迹迹日百襲姫命の兄弟であった。
 倭迹迹日百襲姫命には男兄弟が5人いた。孝元天皇、大吉備津日子命、日子刺肩別命、若日子建吉備津日子命、日子寤間命である。 
 大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定した(古事記)。倭建命は全国を平定しているので倭建命は吉備国を平定した二人のうちどちらかと思われる。同じ「建」がついている若日子建吉備津日子命と思われる。倭建命は若日子建吉備津日子命であった。
(4)倭建命(若日子建吉備津日子命)は東征のときに倭武天皇になっているが9代天皇か10代天皇か。
 倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継承していた。9代は若死にした王でなければならない。倭建命(若日子建吉備津日子命)は天皇になったが若死にしている。倭建命(若日子建吉備津日子命)は9代開花天皇であった。

2 鳥取県中部の伝承
 倭建命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
(1)鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
(2)鳥取県北栄町宮崎神社(主祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命)の由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや』と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ。斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや。小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ。」とある。

3 私見
(1)について
 これは倭国大乱のときの出来事であった。倭迹迹日百襲姫は18歳位の時に讃岐国から皇軍に加わって倭国大乱を平定していった。倭建命(若日子建吉備津彦)は12歳位になっていたはずである。倭建命(若日子建吉備津彦)は大吉備津彦(崇神天皇)や倭迹迹日百襲姫たち皇軍と一緒に瀬戸内側から吉備国を平定した。これは南の瀬戸内海側から北に出雲族(略奪集団)を平定していった神武天皇と同じ攻め方である。
 蒜山と関金町との境界の矢筈山で北(鳥取県中部=倭国)に向けて矢を放っている。倭建命(若日子建吉備津彦)は鳥取県中西部にいた出雲族の鬼・土蜘蛛(兇徒・悪魔)を平定し倭国大乱は終結した。最大の激戦地は鳥取県南部町の手間山であった。出雲族の八十神に対して天孫族には大国主の子孫も加わっていた。その後、若日子建吉備津彦(倭建命)と倭迹迹日百襲姫(倭姫命)は征西(熊襲征伐)を命じられる。
(2)について
 伊邪那岐・伊邪那美は鳥取県北栄町大島を葦原中津国を造るときの拠点としていた。伊邪那岐は辰韓から来た三貴神を鳥取県北栄町大島で出迎え、治めるべき国を三貴神に命じた。
 「日本武尊が征西の御時、北海の霪風が御艦を悩ましたが、不思議の神助にて御艦引寄するが如く着かれた」とある。倭建命と倭姫命は、九州を平定し新羅から出雲の日御碕神社・片江を経由して帰還した。天照大神と須佐之男も辰韓を出発し出雲の日御碕神社に到着している。倭建命は神助による征西の成功を倭国の祖神の伊邪那岐・伊邪那美を祭って謝し給はれた。
 全国の神社を掌握した藤原氏は「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」を改ざんして挿入している。正しくは、「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。倭建命は第7代孝霊天皇の皇子若日子建吉備津日子であった。

4 第9代開化天皇(倭建命)の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺にあった。北栄町瀬戸は倭建命が征西から帰還した北栄町大島の隣にある。葛城は蜘ヶ家山より西であり、北栄町瀬戸も葛城地域であった。
 倭建命の3つの古墳のうち、磯城の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(古墳時代最前期)であった。磯城とは東郷池周辺であった。倭建命はコブ白鳥のいる東郷池湖畔の湯梨浜町宮内で生まれたので白鳥陵も宮内に造られた。
 湯梨浜町宮内の狐塚古墳(全長100mほどの前方後円墳)は前方部が水辺近くにあり、鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳(全長200mほどの前方後円墳)も前方部が水辺近くにある。それぞれ倭建命と倭姫命の古墳であった。

5 小碓命・大碓命の物語は朝鮮半島の百済国であった物語である。それを日本国史の中に取り込んだ。小碓命のモデルは若日子建吉備津彦(倭健命=第9代開化天皇)であり、大碓命のモデルは大吉備津彦(第10代崇神天皇)である。9代10代の母親は蝿(湯梨浜町長和田は波延の地)姉妹(出雲族)であり、9代10代は同い年くらいの異母兄弟であった。
 倭建命(若日子建吉備津彦157年~188年)と倭姫命(倭迹迹日百襲姫151年~248年)は全国を平定した。若日子建吉備津彦(倭建命)は9代開化天皇になるが若くして亡くなった。兄の大吉備津彦が次の10代崇神天皇に即位した。
 倭建命と倭姫命の全国巡行(稚日女命が祀られているところはほぼすべて)にも関わらず、青銅器文化(銅鐸・銅剣銅矛・生贄の風習)の一族(出雲族)を完全に平定することはできなかったため、崇神天皇(188年即位)は4道将軍を派遣して全国を平定した。

 


神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った

2021-06-16 19:58:06 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。

1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。
 鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。

2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神倭磐余彦たちに武器を送った。
以下の鉄鏃は辰韓か加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神倭磐余彦たちに送られ、九州の鬼八に対して使われた。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。」
 「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
 副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 
※ 私見
吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった紀元前100年頃の鉄鏃は神倭磐余彦たちが放った鉄鏃である。その先には吉野ヶ里遺跡があるので、そこでも鉄鏃を放っている。吉野ヶ里遺跡は奴隷を逃げられないようにしていた。柵と堀の位置が通常と逆である。
 吉野ケ里を100名城の1つ(城のルーツ)として聖地にしているが、ここにいた略奪に喜びを感じる鬼八は藤原氏と同族である。本当の山城は大谷と北面の2集落からしか上がれないようにしてある倉吉市の四王寺山である。
鹿児島県でも紀元前100年頃の鉄鏃が見つかっているので紀元前60年に即位した神倭磐余彦たちは九州全域を平定している。五瀬命と神倭磐余彦は九州全域を平定して倭国(鳥取県中部)に帰ってきた。

3 古事記には「御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りまし、稲氷命(稲飯命)は、妣の国として海原に入りました」と書かれている。
「稲氷命(稲飯命)は、妣の国(玉依姫は辰韓出身)として海原(海抜4m~20mの陸地)に入りました」という表現は「事代主は海の中に入られた」(日本書紀)と同じであり対岸に渡ったということである。
「倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、建国の重臣として活躍した」(三国史記)とある。「新撰姓氏録」において新羅の祖は稲飯命だとされている。赫居世居西干とは日向の王という意味であり、四王寺山(日向)にいた稲飯命(王子)を思わせる。
大臣が何代にもわたって仕えるのは日本書紀の武内宿禰や蘇我氏3代に例があり、藤原氏の手法である。稲飯命は紀元前57年に即位した新羅国の初代王であった。建国の重臣ではなく、建国者その者であった。

 

 


葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました

2021-06-16 05:44:26 | 欠史八代
1 北栄町大島(旧島)の全体像。

 伊邪那岐(大神)・伊邪那美は天照大神(徐福)が連れてくる三千人の少年少女を住まわす国を北栄町大島を中心にして造っていた。伊邪那岐(大神)はその三千人のために「千五百の産屋を作ろう」と言った。
 当時、周辺は汽水池であったので魚類も豊富に捕れた。また、汽水池の周辺は葦原となっており水稲稲作に適した地であった。縄文海退で周辺が陸地になってからは、全面穀倉地帯になっている。白い建物は収穫した米を貯蔵するカントリーエレベーター。
 蜘ヶ家山(葛城山)より西が葛城だったので北栄町大島も葛城地域であった。孝安天皇の葛城室之秋津島宮があった。

 家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。

2 大島(室秋津島)の中心にて
 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。
 
3 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)


由緒(抜粋)
 「・・・。是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。・・・。」とある。
※ 私見
 「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」は改ざん挿入されており正しくは「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。
 孝元天皇は伊邪那岐・伊邪那美を奉斎され、倭健命が島の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を炊いて伊邪那岐・伊邪那美を祭り征西の神助を謝した。 孝元天皇が伊邪那岐・伊邪那美を奉斎したのは、土人のためではなく大乱を戦っている父の孝霊天皇や妹の卑弥呼や弟の倭建命の戦勝を祈願したからである。
 倭建命が着御し、尊大に歓喜したのは征西が成功裏に終わったからである。昭和九年の鳥取県神社誌には「征西の御時」とある。
 
 
 

天照大神(徐福)の生涯

2021-06-13 00:40:58 | 天照大神(徐福)

 天照大神(徐福)の生涯 

1 八女童男山1号古墳(福岡県八女市大字山内)に徐福の没年は「辛酉年2月17日御年66歳」と刻まれているそうである。これによると徐福の生存年はBC.245~BC.180ということになる。これが正しいように思われる。
 徐福は26歳で初来日し、35歳(BC210年)で再来日した。天忍穂耳は第一次の時から参加していたものと思われる。天忍穂耳は少年一行の中でも年長であり、その時18歳位であったと思われる。饒速日命は早くても紀元前205年頃の生まれであり、次男が生まれる前に亡くなったのであるから、享年25歳とすれば、紀元前180年頃である。邇邇芸命は紀元前184年頃には生まれていたはずである。邇邇芸命が北栄町上種の大宮神社に降臨したときは25歳くらいになっていたはずであるから紀元前160年頃である。この頃に出雲大社のモデルが造られている。
 邇邇芸命の降臨のとき(紀元前180年頃)の天照大神の年齢は、65歳くらいであった。大国主と饒速日命は年齢は同じくらいのはずである。同じく、素戔嗚の長男と天忍穂耳の長男として、紀元前210年から数年後に出生している。饒速日命が降臨した時には大国主も葦原中つ国に多くの子供ができていたはずである。4歳の邇邇芸命が成長するのと同じく大国主の子たちが成長するのを待たなければならなかった。邇邇芸命が4歳で関金の矢送神社に降りてこられて楯縫神社に移られ20数年後に上種の大宮神社の御所に移られた。
 古事記では天照大神は天孫が降臨してもまだ蒜山高天原にいたように書いているがこの時はすでに琴浦町伊勢野の天照皇大神宮に降臨していた。邇邇芸命が降臨する頃は天照大神は亡くなっていたか亡くなる前であった。藤原氏は伊勢国・伊勢神宮を創るため、鳥取県琴浦町伊勢野の天照皇大神宮を消して古事記を改ざんしている。
 古事記には「そこで天照大御神、高木の神は勅命して、天忍穗耳に『今、葦原の中つ国は平定し終わったという。そこで、言依さしに従って天降り、その国を治めよ』と言った。天忍穂耳は答えて、『天降りしようと服を着替えておりましたところ、私の子が生まれました。名は邇邇芸命といいます。この子を降らせた方がいいかと思います』と言った。この御子が、高木の神の娘、萬幡豊秋津師比売を妻として生んだ子が、天火明命、次に邇邇芸命の二柱である」とある。
※ 私見 
 饒速日尊が亡くなったので、天忍穂耳はこういう返事(邇邇芸命が生まれたこと)をしたのである。

2 丹後の籠神社の祭神は奈良以前は彦火火出見尊であった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2)「消された大王ニギハヤヒの謎」の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神の天火明命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、彦火火出見尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、火火出見尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・天火明命として祀っております。」とある。これは、天火明命は、本来「火火出見尊」であったということである。
(3)私見
 丹後の籠神社の祭神は彦火明命であり、先代旧事本紀も天火明命と饒速日尊は同神とするので、天火明命=饒速日尊は丹後の籠神社に行っていたものと思っていた。しかし、海部宮司は「籠神社の祭神は奈良時代以前は彦火火出見尊であった」と言うので、天火明命=饒速日尊は丹後に行っていない。

3 私見
 「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。
 徐福(天照大神)も丹後には行っていない。丹後に行ったのは徐福の部下である。また、徐福(天照大神)の痕跡が鳥取県東部(河原町の霊石山や氷ノ山)に残るのは始皇帝の追っ手から逃げていたからである。始皇帝が亡くなったのを知って最初に指示された蒜山高天原に戻った。天照大神が蒜山高天原から琴浦町伊勢野の皇大神宮に降りて来たのが何時かは古事記では消してある。
 因幡の白兎伝説について白兎を徐福一行に、和邇を始皇帝に比定する人がおられたが、面白い説だと思います。まさにそのとおりかもしれない。千代川流域にも白兎に代表される一族がいて、天照大神の装束をくわえて河原町の霊石山に導いたという伝承が因幡国にはあるから、白兎が徐福一行(天穂日)ならば、年老いた長を導くのは当然である。徐福一行の装束は白い装束であったそうである。第1次(紀元前219年)の徐福が状況を復奏しないので、始皇帝の追っ手(八岐大蛇)が徐福を追っていた。
※  余談 
 和邇(鰐)とは丸木舟を操る船頭のことである。丸木舟がサメの形に似ているからこのように言う。丸木舟の大きさによって一尋鰐、八尋和邇に分けられた。いわゆる丸木舟による海上タクシーである。住吉海上交通のほうが古いのだが(紀元前3600年以前からあった)、因幡の白兎では綿津見海上交通が利用された。大綿津見神とは、和邇(鰐)たちの頭領であった。本拠地は辰韓・慶州近くの港である。


稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である

2021-06-10 15:41:36 | 邪馬台国・卑弥呼

 稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。

1 卑弥呼は孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」と言う説が有力であり、調べてみることにした。
 孝霊天皇は鳥取県神社誌の祭神になっており、祀られている神社の分布図を作ってみた。すると、昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であったが、出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中していた。卑弥呼が孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」ならば、出雲国に隣接する2郡に父の孝霊天皇と一緒に分布しているはずである、という推測のもとに鳥取県神社誌を調べてみた。ところが、祭神として日女命も倭迹迹日百襲媛命も祀っている神社はなかった。その代わり、稚日女命と倭姫命を祀っている神社が出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に見つかった。しかも、孝霊天皇の祀られている神社と関連があるような位置関係である。もしかしたら、稚日女命は日女命と同神ではないか。倭姫命も倭迹迹日百襲媛命と同神ではないかとの推測のもと調べてみた。
 古事記・うけいの勝負において「織女の一人は、機具の梭の端(はし)のところで陰処を突き、それがもとで死んでしまった」とあり、日本書紀の一書に「稚日女命は梭で身体を傷つけられて死なれた」とある。また、日本書紀・崇神天皇において「倭迹迹日百襲媛命は箸(はし)で陰部を撞いて死んでしまわれた」とある。日本書紀を信じるかぎり、稚日女命はただの織女で倭国女王の卑弥呼ではないと思われる。
 しかし、まてよ倭迹迹日百襲媛命も陰部を撞いて死んだことにしている。何か関連がありそうだ。しかも稚日女命は日女命と似ている。大「王」も大「臣」に変えられている。もともと倭国では祭神「日女命」とあったものを日本が倭国を乗っ取ってから「稚」を付けて「稚日女命」にしたのではないのか。

2 私見
(1) 鳥取県旧溝口町の鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。

 饒速日に十種の神宝を与えたのは天神の御祖神とする。じつは饒速日と須佐之男は鳥取県中部の哮峰で会っており天神の御祖神とは須佐之男のことであった。しかし、須佐之男は出雲の神とし饒速日は大阪の生駒山の上を岩船で飛び回っていたことにしたので、天神の御祖神が須佐之男ということは隠さなければならなかった。
 「笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせよ」とお告げをしたのを稚日女と書けば、孝霊天皇の背後にいてお告げをした稚日女は神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫ではないかと疑われてしまう。そう思わせないために天津神という代名詞を使った。
 倭迹迹日百襲姫の弟の大吉備津彦と若日子建吉備津日子は吉備国を平定した(古事記)。一族は吉備国と接する伯耆国にも来ていた。伯耆国には孝霊天皇一族を祀る楽々福神社が多くある。倭迹迹日百襲姫は伯耆国で父の孝霊天皇と一緒に行動していた。
 「稚日女命」でわかったことは、もともと祭神を日女命として祀られていた全国の多くの神社に「稚」をつけさせた今の神社庁は、最初に神社を創った神社組織とは別の神社組織であるということである。倭国を日本に変えたのも雅でないからではなくて別の国だからである。万世一系の皇統とはいうだけで実は連続していなかった。
(2) 倭国歴史書原本を読んだ藤原不比等や百済史官にとってみれば、非常に面白くない。弥生時代後期に倭迹迹日百襲姫や若日子建吉備津日子の倭朝廷によって全国と半島はすでに統一されていた記録を残すわけにはいかなかった。
 日本書紀を作るにあたって、卑弥呼(日女命)を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。倭国では日女命はすでに全国の神社の祭神となっていた。日本は日女命を祀っている全国の神社に指示を出し、稚日女命に変えさせた。
 全国に祀られている稚日女命ももとは日女命(卑弥呼)であった。全国の神社は藤原氏が掌握していたから、日女命に「稚」を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社だけでなく賀茂神社や日吉神社や天満宮や春日大社も藤原氏が造ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込んだ。
(3) 鳥取県神社誌に見る孝霊天皇と稚日女命を祀る神社
 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。孝霊天皇と稚日女命は協力して出雲国に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と戦っていた。
 日光村での陣形(女性を敵から遠い背後に置く)は倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(倭朝廷)の陣形と思われる。
 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は稚を付けられた日女命(神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫)であった。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命となる。

3 次に、稚日女命は「倭姫命世記」の倭姫命と同神となるか。
(1) 倭姫命は草薙剣を持っていたので女王であった。女王だから卑弥呼と思われる。倭姫命=卑弥呼=稚日女命である。
(2) 倭姫命も倭迹迹日百襲姫命も水稲の普及に尽力しており、同一人物と思われる。
(3) 勘注系図では11世孫の妹である日女命の亦の名として稚日女命と倭姫命を記載している。
(4) 倭姫命は海女の祖お弁にアワビを奉納されている。稚日女命もアワビを奉納されている。海女にアワビを奉納される姫が何人もいたとは思われない。
(5) 伊射波登美が仕えた倭姫命のいた伊雜宮(志摩市磯部町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)から遠いが伊射波神社(安楽島町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)と近い。伊射波登美は稚日女命がいた伊射波神社に行き来していたと思われる。倭姫命に仕えた伊射波登美を稚日女命を祀る伊射波神社の祭神にしている。伊射波登美は稚日女命にも仕えていた。伊射波登美は複数の姫に仕えていたとは思われない。

 以上により、高い確率で稚日女命=倭姫命と思われる。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)=倭姫命(内藤湖南説)となる。
 倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)は孝霊天皇の皇女であるが、倭姫命は日本書紀・倭姫命世記では11代垂仁天皇の皇女になっている。倭姫命(内藤湖南説)は本当に11代垂仁天皇の皇女であろうか。

4 「倭姫命世記」について
 倭姫命は巻向で祭祀をすることになったので安全な居所を探すための巡行をした。
 豊鋤入姫命の巡行については、別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。それを見ると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係する一族がいた地域であることがわかる。魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなり男王が立ったが国中が不服で互いに殺しあった。台与を立てて王と為し、国中が遂に安定した」とある。台与は豊鋤入姫命以外見つからない。なぜ豊鋤入姫命は倭朝廷に深く関係する一族がいた地域を巡行しなければならなかったのか。それは倭朝廷に深く関係する一族がいた地域で互いに殺しあっていたからである。なぜ互いに殺しあっていたかは、倭国女王の倭姫命が亡くなって悲観したのと男王に対する失望からである。倭姫命の巡行と豊鋤入姫命の巡行は目的も時代も違うものであった。
 藤原氏は全国を統一した倭姫命の事蹟を消したかったのだろうが、伊勢神宮を創建した由来を創らなければならなかった。伊勢神宮を創建した由来の「倭姫命世記」を作るために、本来孝霊天皇の皇女であった倭姫命の奈良の宇陀から志摩の伊雜宮まで巡行した事蹟を利用することを考えた。
 しかし、倭姫命の巡行は宇陀から始まるためなぜ宇陀から始まるのか説明できない。藤原氏は三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行を倭姫命の巡行の前に持ってくることを考えた。欠史8代とすることはできなかったので豊鋤入姫命は10代崇神天皇の皇女、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女とした。巡行目的も一つにした。国史(日本書紀・倭姫命世記・勘注系図)はすべてこれで統一した。
 本来、二人の巡行は目的も時代も違うものであった。豊鋤入姫命の巡行は倭姫命が亡くなってからおこなわれた。倭姫命は孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫命は孝元天皇皇子の彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)であった(住吉大社神代記)。彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)が神功皇后のモデルである。彦太忍信命の孫の武内宿禰大王と行動をともにした。11代垂仁天皇と彦太忍信命は従兄弟の関係になる。11代垂仁天皇には後継ぎがおらず、12代は彦太忍信命の子の屋主忍男武雄心命であった。12代は11代の反省から子孫を多く作ることに励んだ。古事記では12代の子は80人いたとする。

5 海部氏勘注系図について
 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えられている。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を眩ますためであった。
 9世孫乙彦命(彦國玖琉命)の妹の日女命。亦名、倭迹迹日百襲媛命これだけが参考になる。
 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。これ以上深入りすると、藤原氏の目を眩ますために書かれたあり得ない同一神に惑わされ、泥沼に入り込む。

6 参考
※ 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補
(1)6世孫 大倭姫、
○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々
(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 
妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神
(3)10世孫 
妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命
(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)
妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 
※ 鳥取県神社誌
 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
    現住所 西伯郡大山町宮内
(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
     現住所 西伯郡南部町東上
(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
     現住所 米子市上安曇
(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
     現住所 西伯郡伯耆町宮原
(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋
     現住所 日野郡日南町宮内1101
(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本
    現住所 日野郡日野町上菅
(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽
    現住所 日野郡日南町笠木
(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷
    現住所 日野郡江府町栃原
 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原


葛城は鳥取県中部(倭国)にあった

2021-06-09 15:23:43 | 序章

 葛城は鳥取県中部(倭国)にあった。

1 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」とある(日本書紀)。

 鳥取県北栄町曲の荒神神社
 鬼・土蜘蛛を荒ぶる神(荒神)と言っていたので、ここに土蜘蛛の家があった。土蜘蛛の家があったから蜘ヶ家山という。
 葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。

2 第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」

 鳥取県北栄町曲の岡神社
 神武天皇の長男の多芸志耳は関金町耳で生まれ、湯梨浜町の長瀬高浜(多芸志)にいたが、神沼河耳は長男の多芸志耳を殺害して第2代天皇となった。第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」は北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。

3 第5代孝昭天皇の皇居は葛城掖上宮(灘手神社)だが、葛城山の東の掖上は磐余邑であり4人の大王の皇居があったから掖上とは書かない。掖上宮の掖上は葛城山の西側のことである。ここに桜の木があり、花びらが葛城山(蜘ヶ家山)を越えて北栄町島の金繰溜池で船を浮かべていたところに飛んで行った。

 神武天皇は掖上のほほまの丘に立ちアキツがトナメをしているようだと言った。ここから穴沢小学校方面を見ると灘手の2本の尾根が接近してアキツがトナメをしているように見える。

4 蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は鳥取県北栄町北条島にあった(別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし)。蘇我馬子大王は「葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我・葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます」といった。なぜそう言ったのかというと、蘇我氏の祖の蘇賀石河宿禰 は武内宿禰大王の3男であり、武内宿禰大王の皇居のあった北栄町原の元野神社は葛城山(蜘ヶ家山)の麓にあり、蘇賀石河宿禰 はここで育ったからである(別稿「第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった」を参照されたし)。

 

5 葛城長江襲津彦(応神天皇)は鳥取県北栄町原(葛城県)の生まれであり、武内宿禰大王は鳥取県北栄町原(葛城県)を本拠地(皇居)としていた。葛城長江襲津彦は13代武内宿禰大王の6男として蜘ヶ家山(葛城山)のふもとの北栄町原集落で育った。後に15代応神天皇となり倉吉市穴窪(軽島之明宮)と湯梨浜町小鹿谷(難波大隅宮=行宮)とに皇居を置いた。
 葛城長江襲津彦の「江」とは海岸部が陸地に入り組んだ地形で入江である。当時、倉吉市穴窪の周辺はそのようになっていた。奈良は内陸部で「長江」の文字はふさわしくないので、同じ読みの「長柄」としたが、今では「ながら」と発音する。

6 葛城皇子と言われていた天智は百済からの人質の豊璋であり、6歳で鳥取県北栄町由良の蘇我善徳大王のもとに来た(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)。北栄町由良も葛城であった。蜘ヶ家山(葛城山)より西を葛城県としていた。

 


第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた

2021-06-08 10:48:33 | 欠史八代

 

1 欠史8代 非実在説

(1)  旧辞的部分を欠く。

(2)  諡号がおかしい。

(3)  すべて父子相続である。

(4)  2代~9代の寿命は異常に長い。

(5)  物事の順序からして、奈良盆地の一隅にいる豪族が盆地の外へ進出・発展していくためには、その前提として盆地を制圧・平定し、支配下に置いていなければならないはずです。ところが古事記・日本書紀ともに、奈良盆地の制圧・平定に関する経過を何一つ記していません。10代崇神に至っていきなり、盆地外への進出・発展の動きが現れます。神武の子孫たちが次第に実力を蓄えて奈良盆地の一隅から徐々に勢力を拡大し、やがて盆地全体を制圧・平定するに至るまでの経過を、説話として残していない。奈良盆地の外へ進出・発展していくためには、盆地の制圧・平定が前提であるにもかかわらず、その前提を語る伝承が何もないなど考えられない。

2 欠史8代 実在説

(1)  帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは2~9代の天皇だけではない。

 事績がないということでは、24代仁賢天皇から33代推古天皇までの10代に亘っており、これも実在しなかったと言われても仕方がなくなってしまう。

(2)  2代~9代の天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本の歴史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう。古代天皇の不自然な寿命の長さが、かえって系譜には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる。

(3)  7代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ(日本根子・倭根子)を除けば7代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)8代はヒコクニクル(彦国牽・日子国玖琉)9代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。こう考えれば実名を元に諡号が作られた可能性もあり、後世創作の架空の天皇であると一概には言えない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。2代、3代、5代の天皇の名は明らかに実名として生前に使われた可能性が高い。和風諡号に使われる称号の部分がないためで、実在の可能性は高い。

(4)  すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。実際は兄弟相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。

(5)  稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第1皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在の人物とみなす見方がある。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。

(6) 各天皇の氏族、豪族、臣の掲載は広範囲に列挙されており、特に丹波国と王族との関係は深く婚姻関係の深まり丹波の豪族の巨大さと影響力を知らされる。

3 私見  鳥取県中部(倭国)に実在説

(1)  倭国歴史書原本には2代から9代までの旧辞の記述もあったが藤原氏が消した。

 殷王朝末裔の準王一族(出雲族)と藤原氏は同族である。藤原氏は百済人であり朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族であった。弥生前期から列島に渡来してきていた準王一族は倭国王家と10代崇神天皇まで争っていた。10代崇神天皇のときに全国の準王一族は平定され、統一された。藤原氏は倭国を乗っ取ってから、同族が平定され統一された歴史を残すわけにはいかなかった。神武東征神話(奈良を平定したのは神武ではなく4代であった)との整合性もある。それで、2代から9代までの旧辞を消した。天照大神が中国人(除福)だったという史実も消さなければならなかったので、2代~9代の寿命を異常に長くした。長くするために8代・9代・10代の兄弟承継を父子承継にした。7代・8代・9代・10代は倭国大乱で丹波国(但馬)に10年間疎開していた。丹波の豪族との関係が深いのはこのためである。

 倭国は弥生後期(186年頃)までに列島の西は熊本県、東は岩手県まで青銅器文化の一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷=殷王朝末裔の準王一族)を平定し全国を統一していた。倭姫命(倭迹迹日百襲姫)と倭建命(若日子武吉備津彦)の征西と東征によって各地に神社を創らせ(倭姫命世紀のように)祭祀方法を変えさせて全国を統一した。全国を統一していった過程を神武天皇から崇神天皇(大吉備津彦)までの旧辞に誇らしく書いてあったはずである。

 亡命百済王朝は669年に日本と名乗り、734年に倭国の大君を殺して列島を乗っ取った。734年に列島を乗っ取った準王一族と同族の藤原氏はこれをそのまま残すわけにはいかなかった。藤原氏より500年以上前から全国を統一していた日本とは別の倭王朝があった記述を残すわけにはいかなかった。これが最大の理由である。

(2) 9代天皇の旧辞がないというが、9代開化天皇は倭建命(若日子武吉備津彦)であったから、古事記にも日本書紀にも景行天皇の皇子として倭国大乱の記述として詳しく書かれている。また、7代孝霊天皇の旧辞も景行天皇と土蜘蛛との戦いとして挿入されている。10代崇神天皇は4将軍を派遣して全国の青銅器文化の一族は平定された。その後、青銅器の原料を採掘する土蜘蛛は存在しない。12代景行天皇の時代、土蜘蛛はすでに平定されていた。「椎」の字が出てくるのは孝霊天皇の旧辞である。

(3)  古事記を見るかぎり諡号に不自然さは感じない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低いものと思われる。12代・13代・14代は百済国の王であった。史実は、12代は屋主忍男武雄心であり、13代は武内宿禰大臣(王)であり、14代は13代の4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)であった。

(4)  すべて父子相続になっているが、8代9代10代は兄弟相続であった。神武元年を600年古くするための1つの方法である。また、2代~9代の天皇の寿命を異常に長くすることも神武元年を600年古くするための一つの方法であった。それは天照大神が徐福(紀元前210年来倭)であったことを消すためであった。

(5) 奈良盆地に創ってある欠史8代の皇居の比定地を見て回ったが、石碑が立ててあるだけある。地名を付けて、石碑を建てるだけなら、全国どこでもできる。非実在説は欠史8代は奈良にいなかったとする。欠史8代は奈良にはいなかったが、鳥取県中部に実在した。鳥取県中部では、欠史8代の皇居の比定地を集落単位で想定できる。鳥取県中部の葛城、磯城、軽の地域区分は間違っていない。

 「葛城」は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)より西の地域であった。2代綏靖天皇の葛城高岡宮は蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。5代は葛城の掖上であるので蜘ヶ家山(葛城山)の西の脇の上(南側)の灘手神社(倉吉市穴沢)である。掖上の岡から灘手小学校方面を見れば灘手の2本の尾根が接近して見えるので蜻蛉がトナメしているように見える。6代の室秋津島は北栄町島(合併後は大島)である。9代の春日之伊邪河宮は北栄町瀬戸の観音寺である。

 「磯城」は東郷池周辺(湯梨浜町)である。3代の師木(磯城)津日子玉手見命の宮は片塩浮穴宮であり船の出入りできる汽水域(片塩)の湾(津)があることが前提となる。片塩浮穴宮は湯梨浜町橋津の観音堂であった。稗田阿礼は場所が特定できるように具体的に表現している。奈良の片塩の地名は藤原氏がのちにつけたものである。決してそこに昔から地名があったわけではない。7代の庵戸宮は湯梨浜町宮内の倭文神社であった。

 「軽」は鳥取県中部の上北条地域(神代みわしろ地域)である。軽の坂上の厩(応神天皇の段)の位置に現在は馬場町があった。軽之境岡宮(倉吉市小田山)には4代の宮があり、軽之堺原(倉吉市小田)には8代の宮があった。軽島之明宮(倉吉市穴窪)には15代天皇(応神天皇)の宮があった。

 神武天皇から9代までは鳥取県中部に皇居があったのであり、奈良に宮はなかった。したがって神武天皇から9代までの宮が奈良にあったことを前提とする鳥越憲三郎氏の葛城王朝説は作り話であり、奈良の葛城にいた葛城族とは準王一族(出雲族)であった。奈良の葛城という地名ものちに藤原氏が付けたものである。

 初代天皇は初めて西日本を平定したのであり、10代天皇は初めて東日本も平定した。共にハツクニシラススメラミコトと呼ばれてもおかしくない。したがって、葛城王朝説や三輪王朝説なるものは欠史8代をなんとか奈良にいたことにしようとした鳥越憲三郎氏の作り話であった。

 


孝霊天皇一族について

2021-06-06 06:27:51 | 倭国大乱の原因

1 古事記
 大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(倭国香媛)を娶って、夜麻登登母々曾毘売命(倭迹迹日百襲姫命)、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命=大吉備津日子命(彦五十狭芹彦命)、倭飛羽矢若屋比売(倭迹迹稚屋姫命)を生んだ。
 また、阿礼比売命の妹・蠅伊呂杼(絚某弟)を娶って、日子寤間命(彦狭島命)、若日子建吉備津日子命(稚武彦命)を生んだ。
 大倭根子日子國玖琉命(母は細姫のち孝元天皇)は、後に天下を治めた。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。
  大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。
  日子寤間命は針間(播磨)の牛鹿臣の祖。日子刺肩別命は高志(越)の利波臣、豊国の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖、とある。
※ 私見 功績が認められ、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は天皇になったと思われる。

2 先代旧事本記
 孝霊天皇
 諱は大日本根子彦太瓊尊。孝安天皇の皇太子である。母は皇后・押媛命と申しあげる。
 治世元年・癸未年の春正月、皇太子は天皇に即位された。先の皇后を尊んで、皇太后とされた。
 二年二月、細媛命を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)である。
 妃の倭国香媛、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)、次に倭迹稚屋姫命である。
 次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命、次に稚武彦命、次に弟稚武彦命である。
 三年の春正月、宇摩志麻治命の子孫の、大水口命と大矢口命をともに宿祢とされた。
 二十六年の春正月、彦国牽皇子を立てて、皇太子とされた。太子の年は十九歳。
 七十六年の春二月、天皇は崩御された。次の天皇の治世四年に、片岡馬坂陵に葬った。
 天皇は、五人の皇子をお生みになった。
 大日本根子彦国牽尊。
 彦五十狭芹彦命(吉備津彦命。吉備臣らの祖)。
 次に、彦狭嶋命(海直らの祖)。
 次に、稚武彦命(宇自可臣らの祖)。
 次に、弟稚武彦命。
※ 私見 孝霊天皇の諱に「日本」が入っており藤原氏の改ざんが見て取れる。古事記は「倭」としており、古事記のほうが信用できるかもしれない。「天皇は、五人の皇子をお生みになった」に鴬王が含まれていない。原古事記には書いてあったはずである。

3 日南町の樂樂福神社(東西二社)の祭神
(1) 大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇
 天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞召され御一族を従えて彼の邪鬼を見事に退治された日野郡開拓鎮護の総氏神。
(2) 若建吉備津彦命(稚武彦命) 孝霊天皇の皇子
 兄皇子の大吉備津彦命と共に四道将軍として吉備の国を平定された知慮と武勇にすぐれた大神。  
(3) 大吉備津彦命(彦五十狭芹彦命) 孝霊天皇の皇子で若建吉備津彦命の兄
(4) 絙某弟命 若建吉備津彦命の母
(5) 細媛命 皇后 孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。
(6) 福媛命 后妃 孝霊天皇の皇女とする説もあり。日南町印賀に鎮座の「樂樂福神社」は主祭神の皇女「媛姫命(ひめのみこと)を此の福媛と同一のお方として奉斎する。
(7) 彦狭嶋命 皇子 別名 歯黒皇子
 此の皇子はお生まれになった当初から鐡(てつ)の如き黒々とした強い歯がすでに生え揃い、ご性分もすぐれておられたので、天皇巡幸の御時は必ず此の皇子を伴われた。此即ち彦狭嶋命を歯の大神と敬い奉る所以である。

4 奈良の孝霊神社(庵戸神社)
祭神 孝霊天皇、倭迹迹日百襲媛命、彦五十狭芹彦命、稚武彦命、ほか。
由緒
 岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎の伝説地の多くは、古事記・日本書紀に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭芹彦命(大吉備津日子命)と稚武彦命(若日子建吉備津日子命)兄弟の活躍に由来するものである。
 ウィキペディアは「庵戸宮は、桃太郎と卑弥呼ゆかりの地とされているが、伝説を鵜呑みに捉えた場合、桃太郎と卑弥呼は共に孝霊天皇の皇子皇女として兄妹であったということになり、それら兄妹の生誕の地としても伝えられている」とする。

5 私見
(1) 古事記・日本書紀は8代・9代・10代を父子承継とするがこれは正しいか。
 13代倭国男王は武内宿禰であった。武内宿禰の父は屋主忍男武雄心命である。12代景行天皇の実在には疑問が出されており、12代倭国男王は屋主忍男武雄心命であった。屋主忍男武雄心命について正しいと思われる史料の「紀氏系図」では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする。
 「紀(木)氏系図」では、8代孝元天皇と13代武内宿禰との間には二人いるだけである。7代・8代・9代・10代は倭国大乱の時代であり8代と9代は若死にしている。倭王朝は戦などで王が若死にした場合兄弟承継をしていた。8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は兄弟だったのではないか。孝元天皇・開花天皇・崇神天皇は倭国大乱の時代の孝霊天皇の皇子であり兄弟承継をしていた。そう解することによって、11代垂仁天皇と彦太忍信命は「いとこ」、12代景行天皇と屋主忍男武雄心命は「またいとこ」になり年代的に一致する。
 なぜ、孝霊天皇一族の兄弟承継(倭国大乱で8代・9代は若死にしている)を父子承継にしたのか。
 唐は倭国と日本は別の国だと断定している(旧唐書倭国伝)。倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は中国の信用を得るために、倭国と日本は連続しており、万世一系の皇統だとした。ある種の詐欺である。しかし中国の支配下に置かれるとやっと乗っ取った倭国を自分たちの思うままにすること(中国では許されない系譜や姓を奪って名乗ったり、荘園制度を創って搾取したり、古代史で重要な地域を被差別にしたり、斬首を始めたり)ができなくなるので、始祖の天照大神が徐福(中国人)だということは隠した。そのために神武元年(紀元前60年)を徐福(天照大神)が渡来した紀元前210年よりずっと古い紀元前660年にした。古く見せるために、倭国の原書にあった兄弟承継を日本の国史では父子承継にしなければならなかった。
(2) 8代・9代・10代は孝霊天皇の皇子であるが、誰であろうか。8代孝元天皇は問題ない。問題は9代と10代である。
 細姫と大倭根子日子國玖琉と大吉備津日子と若日子建吉備津日子と日子刺肩別と日子寤間(彦狭島)は、鳥取県湯梨浜町宮内で生まれていて、孝霊天皇と一緒に但馬に疎開した。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は最後に逃げた。魏志倭人伝に「卑弥呼宗女壹與」とあるので卑弥呼も王室の女(宋女)であることが推定される。卑弥呼は孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。細姫と長男の大倭根子日子国玖琉(孝元天皇)は11年後、疎開先の但馬から天神川の西の倉吉市小田集落に帰ってきて第8代孝元天皇として即位した。
 景行天皇の皇子とされる倭建命と叔母とされる倭姫命の全国巡行(一緒にいたから女性の着物や草薙剣を借りることができた)は、孝霊天皇の皇子である桃太郎と姉の卑弥呼の全国巡行であった。倭建命と一緒に全国の平定に巡行した倭姫命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった(別稿「内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった」を参照されたし)。倭建命は倭迹迹日百襲姫命と兄弟であり景行天皇の皇子ではなく孝霊天皇の皇子の若日子建吉備津日子であった。
 大吉備津日子と若日子建吉備津日子は疎開していた但馬から出て吉備国を平定した。桃太郎は吉備団子を猿・雉・犬に与えて吉備の鬼を平定した。倭建命は吉備から倉吉市関金町に来て「この矢の止まる限りをわが守護の地とならん」と言った伝承が残っている。倭建命も吉備国を平定している。倭建命と倭姫命は全国の平定をしている。桃太郎と卑弥呼も全国の平定をしている(奈良の孝霊神社(庵戸神社)由緒より)。桃太郎のモデルは倭建命であった。倭建命は同じ「建」の文字の付く若日子建吉備津日子であった。
 倭建命(若日子建吉備津日子)は東国平定に旅立つ前に第8代孝元天皇が倭国大乱で若死にしたので吉備国の平定の功により女王の倭姫命(魏志倭人伝に「倭の女王卑弥呼」とある)に草薙剣をもらい第9代開化天皇になった。第9代開化天皇も享年30で亡くなったので同じく吉備国平定で功のあった兄の大吉備津日子が次の天皇になった。第10代崇神天皇は大吉備津日子であった。
 魏志倭人伝に「卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)には弟がいて国を治めるのを助けている(有男弟佐治國)」とある弟とは若日子建吉備津日子(開化天皇)と大吉備津日子(崇神天皇)の男王のことであった。
 魏志倭人伝に「一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という」(乃共立一女子為王 名日卑弥呼)とある。倭国香媛(紐某姉ハエイロネ)と蠅伊呂杼(絚某弟ハエイロド)は事代主と百八十神が国譲りのあと移り住んだ波延(ハエ)の地(鳥取県湯梨浜町長和田)の出身である。倭国香媛(紐某姉)と蠅伊呂杼(絚某弟)は出雲族(準王一族)であった。倭国大乱の相手方(出雲族)も倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)の母が出雲族だったので共立した。
 大吉備津日子命(崇神天皇)と若日子建吉備津日子命(開化天皇・倭建命・桃太郎)は孝霊天皇の異母兄弟皇子であり、鳥取県湯梨浜町長和田(ハエの地)の対岸の湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で生まれた。
(3) 「古事記」では、倭建命の曾孫(ひひこ)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)を生むとするなど矛盾があるので、景行天皇と倭建命は親子ではない。また、調べると、倭建命は景行14年生~ 景行43年薨(30歳)、仲哀天皇は成務19年生~ 仲哀9年崩(52歳)となり仲哀天皇は父とされる倭建命の崩御後36年目に生まれたことになり、仲哀天皇との親子関係にも疑問が生ずる。
 景行・成務・仲哀は潤色されており、朝鮮半島の百済国の王であった。倭国王の倭建命の系譜を潤色された百済王の景行・成務・仲哀に取り込もうとしたがほころびが生じた。
 大碓命・小碓命の話は武烈の話と同じく百済国での話であった。若日子建吉備津日子と大吉備津日子は生年が157年頃の異母兄弟であった。古事記では百済国での双子であった大碓命・小碓命の話を異母兄弟であった若日子建吉備津日子と大吉備津日子に入れ込んだ。後に若日子建吉備津日子(倭建命)は吉備国平定の功績が認められ開化天皇(東国では倭建天皇とする)に、同じく大吉備津日子も吉備国平定の功績が認められ崇神天皇になった。


天照大神は徐福であった

2021-05-27 08:39:38 | 天照大神(徐福)

 天照大神は徐福であった

​1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。天照大神は男性であり、時代も神武元年紀元前60年説を採れば無理なくつながる(別稿「天照大神は男性である」「神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった」を参照されたし)。
 卑弥呼も崇神天皇も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(倭姫命)であり鬼神道(道教が母体)の祭祀をしていた。崇神天皇は神道(道教が母体)を初めて全国に創設した。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、藤原王朝は天照大神が徐福であることを知っており、やっと乗っ取った倭国を自分たちの思うようにしたく中国に支配され邪魔されたくないという思いがあったからである。

2  史記(紀元前91年完成)(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝 第五十八
 (始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えた。『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神(海中の大神)は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。
 秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった。

 国立国会図書館デジタル書籍より
 徐福に関する149文字の中に「大神」の文字と「天照」の文字が確認できる。
※ 私見
 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町の日御碕神社(祭神は天照大神と素戔嗚)に到着し、大山の麓の米子市尾高の大神山神社(本社)で大神と出会った。大神は「始皇帝の礼が薄いので不老長寿の仙薬を譲ることはできないが見るだけならよい」と言うので、大神に従って東南の大山に行った。徐福は、大山町大山の大神山神社(奥宮)の地で、大神の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。
 徐福と大神が出会ったのは大山の麓にある大神山神社本社の地であった。大神の宮殿は鳥取県大山中腹の大神山神社奥宮の地にあった。蓬莱山は鳥取県の大山であった。

 高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は集団のリーダーであり、徐福も集団のリーダーである。
 徐福は始皇帝に「三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に止まって王(大神)となった。国譲りで蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉尾野)と広沢(北栄町の葦原中津国を含む豊葦原瑞穂国)を得て王(天照大神)となった。徐福は平原と広沢を得て王(大神)となり、最初に見た情景に因んで「天照大神」と名乗った。

3 「史記」秦始皇本紀第六37年には、徐福が前提として連弩(連発武器)を積み込んでいたことが記されている。
 「史記」には「(徐福は)言った。『蓬莱の薬は得ることができますが、常に大鮫魚が苦しめるためたどり着くことができません。願わくは射撃の名手を伴わせていただきたいのです。見つければ連弩でこれを射ます。』・・・」とある。
 「古事記」には「素戔嗚の様子を見た天照大神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶむ。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みづら)に巻いて、・・・背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、・・・弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、・・・」とある。
 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるので、天照大神のもっていた弓は徐福が積み込んでいた連弩(連発武器)と思われる。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。

4 天照大神や素戔嗚は始皇帝の追っ手(八岐大蛇)から逃れるため、因幡国(鳥取県東部の霊石山や氷ノ山や大江郷)に本拠地を遷そうとしていた。しかし、始皇帝が亡くなったのを知って、最初の指示どおり天照大神は蒜山(高天原)に、素戔嗚は倉吉市(根堅州国)に戻った。
 徐福一行は東海の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)を目標に航海してきたのであり、出雲には行っていない。出雲に到着したのは、殷王朝末裔の準王一族であった(紀元前194年)。準王一族(因幡の白兎に出てくる大国主の兄の八十神)は鳥取県中部や鳥取県東部にも上陸していた。大神(伊邪那岐)との約束の地である鳥取県中部の葦原中津国にも準王一族が上陸したので天忍穂耳は葦原中津国が騒がしいと言った。
 「謎の出雲帝国」は「出雲族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであった」とする。天孫降臨に際し、天穂日は葦原中津国にいた準王一族(大国主の兄の八十神=出雲族)の本拠地を大国主から教えてもらい準王の様子を偵察するため能義平野(安来市)に行った。天穂日は松江の南部(熊野大社)に本拠地のあった準王(出雲族)を監視していたが出雲族の娘を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が初代長髄彦(準王)の妹を娶ったのも天穂日の縁結びによるものと思われる。
 準王たち(八十神=出雲族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少の準王に可愛がっていた大国主の別名の大穴牟遅の名を与えた。大穴牟遅は出雲王の代名詞として17代にわたって使われた(「謎の出雲帝国」より)。


邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった

2021-05-24 18:56:38 | 天孫降臨

邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった

1 古事記によると「邇邇芸は筑紫の日向の高千穂のくしふるねに天降り、『この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて・・・』といった」とある。
(1)筑紫とは
 木を切り「つくし」たところである。千五百の産屋・家・船を造らなければならなかった。
(2)日向とは
 日当たりの良いところである。
(3)高千穂とは
 中国山脈でも特に高い大山・烏ヶ山・蒜山三座の裾野から穂のように切立った山肌が見える。
(4)クシフルネとは
 「川などの向こうの丘」という意味であり、鳥取県北栄町亀谷丘陵のことを指していた。
(5)「韓国に向きて」とは
 朝鮮半島にある韓国(辰韓)のことである。天照大神や大国主に協力して天忍穂耳は稲作を導入して日本列島の国造りをするために、常世の国(雲南省周辺)より、稲作技術を持った人々を日本列島に入植させていたが、それは朝鮮半島(辰韓)から葦原中津国(北栄町)あるいは東郷池(長瀬高浜遺跡)あるいは青谷(上寺地遺跡)あるいは湖山池あるいは丹後半島にもすでに入植していた。したがって、邇邇芸が降臨したときも韓国(辰韓)は天孫族の事業(移民を奨励して列島の人口を増やすこと)にとって大事な国であった。
(6)「笠沙の御前を真来通りて」
 韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していたから、主語は韓国(辰韓)からの船である。韓国(辰韓)からの船が笠沙の御前を巻き通って入ってきたという意味である。
(7)「笠沙の御前」とは、
 「笠沙」とは「笠形の砂丘」である。
 古事記・日本書紀のように、読みは同じだが別の漢字を使うのは藤原氏の得意とするところである。「沙」は「砂」であった。
 次に現在の鳥取県中部の地形と海抜3m・5m・4mの高さに海面がある鳥取県中部の地形を見比べていただきたい。笠形がはっきり現れるのは4mの時だとわかる。したがって、邇邇芸の時代は縄文海退の途中であり、海抜4mまで海面が下がっていた。


 海抜3mに海面がある地形。これより海面が低くなると笠が消えてしまう。

 海抜5mに海面がある地形。これより海面が高くなると笠が消えてしまう。

 笠形がハッキリ現れるのは海抜4mに海面があるときである。
 海抜4mに海面があった時代は縄文海進のピーク時で縄文時代中期だから時代が違う、という意見があるが、縄文海進のピークは海抜20m位であった(別稿「縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか」を参照されたし)。これに関しても、東京の歴史学者(藤原氏)の中には20mは日本海側だけであって、太平洋側は4mだったとする学者がいる。私も当初は縄文海進のピーク時4m説であったが、海抜20mに海面があると倉吉住吉神社の案内板のとおり「この辺り一帯が入江になった」のでこれは実際にその状態を見た人が残した記録であると確信した。
 玄界灘も関門海峡も津軽海峡も宗谷海峡も樺太のNevelsky海峡も現在の海面より20m高い壁のようなもので太平洋と日本海は遮られていたとするが、壁のような痕跡はどこにもない。


2 列島に地名を付けていったのは徐福たちであった(別稿「徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した」を参照されたし)。豊臣秀吉(藤原氏)の朝鮮征伐では新羅(秦韓)のあった東側を中心に徐福の伝承を消しているが百済のあった西側の徐福の伝承は消していなかった。





 鳥取県中部の水際にあった地名(瀬戸・津原・灘手・穂波・島)も徐福(天照大神)たちがつけた地名である。水際(海岸線)がそこにあったからこの地名が付けられた。その時の海面の高さは海抜4mであった。天照大神(徐福)の孫の邇邇芸やその孫の神武の時代(神武天皇は天照大神の4世孫だから150年くらいしか経っていない)もまだ海抜4mに海面があった。したがって、磐余邑は鳥取県北栄町の米里・(北条)島集落であった。

 


蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった

2021-05-22 12:11:21 | 蘇我氏から倭国滅亡まで
1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。

 磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。
 
2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。
 本当の磐余池は鳥取県北栄町島集落の金繰溜池であった。
 履中天皇は皇居の北に金操溜池(かなぐりためいけ)を造った。

3 金操溜池(かなぐりためいけ)

 右は島集落。左奥に金操溜池(かなぐりためいけ)がある。

 通りがかりの耕運機を運転していた人に「この堤は古いか新しいか」と聞いたところ、「大昔の堤だ」と答えた。「新しいように見えるが」と聞いたら、「台風で決壊し作り直した。以前はもっと低かった」と答えた。「島集落の所有である。管理は代表を決めて管理している。」「明治、大正の話ではない。大昔だ。」と言っていた。
 底に溜まった泥で年代測定はできるので、大昔が何時ごろかわかる。私は履中天皇の時代、5世紀初頭と推定する。
 池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇であった。

4 島古墳群発掘調査報告書より

 池(金操溜池)上の丘陵から島古墳群が発掘された。
 7号墳をもとに岡野雅則は「同棺複数埋葬について」という論考を書いている。7号墳は「第一、第二埋葬施設同士の前後関係は不明であるが、本墳は古墳時代前期後葉~中期前葉に築造されたとみて大過なかろう」とある。7号墳は履中天皇の時代、4世紀末~5世紀初めである。
 5号墳は6世紀前葉段階で76cmの鉄刀が発掘された。第26代継体天皇の時代である。
 8号墳(6世紀後半~7世紀初頭)・11号墳(6世紀後半)は、蘇我馬子大王と同時代の古墳である。
 蘇我馬子(在位572年~626年)は長谷部若雀天皇であり鳥取県北栄町島(磐余池辺雙槻宮)に皇居があった。
 島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群) 発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13574
 島集落からは縄文前期~縄文晩期の遺物も出土している。猿田彦は土地勘のある土着の縄文人に比定したが猿田彦一族はこのあたりに住んでいた。
 島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14048
 ぜひご覧になってください。

5 日本書紀は亡命百済人によって百済王家の歴史を残すために作られた歴史書である。その際、乗っ取った倭王朝の歴史書である原古事記の記述を国史に取り込んだ。
 蘇我馬子大臣(王)は、百済国王の敏達、用明、崇峻、推古4代の間の倭国大王であった。
 用明天皇の皇居は磐余池辺雙槻宮とされる。用明天皇は百済王である。しかし、磐余邑は確かに鳥取県北栄町に存在していた。磐余池辺雙槻宮は用明天皇の皇居ではなく、大臣とされているが実は倭国王の蘇我馬子大王の皇居であった。崇峻の諱は泊瀬部、即位前は泊瀬部皇子と称した。古事記には長谷部若雀天皇とある。朝鮮半島にいた百済王崇峻は同じく朝鮮半島にいた蘇我馬子大王の部下に殺された。亡命百済人は百済王崇峻に倭国王蘇我馬子大王の諱を取り込んだ。用明の皇居と崇峻の諱は蘇我馬子大王の帝紀として原古事記に書いてあった記述を日本書紀に取り込んだものである。
 蘇我馬子大王の妻は物部鎌姫大刀自(実家は倉吉市大原で産屋は倉吉市馬場町)であり、子は蘇我善徳(聖徳太子)と蘇我倉麻呂である。
 蘇我馬子大王は鳥取県倉吉市(泊瀬)で生まれ育ったので諱は長谷部(泊瀬部)若雀天皇であり、皇居の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった。
 
 
 

伯耆民談記(1742年)とそれを否定する伯耆誌(1850年)-孝霊天皇に関する由緒を例に

2021-05-15 05:51:19 | 閑話休題

1 磯部伊雑宮についてのある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。
 「伊雑宮旧記」・「五十宮伝来秘記見聞集」などによると、「伊雑宮こそ天照大御神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたっては瓊々杵を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大御神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる」とする。
 (地元の伝承) 「形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない」とある。
 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。

2 磯部の区長をしているかたは「幕府ですか」と言った。幕府ではなく京都の藤原氏と思われる。伯耆国と同じように徳川幕府は志摩国の歴史も知っており優遇したはずである。
 人づてによる口伝たる「伯耆民談記」こそ真実が残るのであり、「伯耆誌」は「伯耆民談記」の改ざん改変を強いるものである。
 「伯耆誌」は地名・人名の読み方の共通性を取り上げて論ずることが多く、机上で論ずる藤原氏の論法に似ている。また1850年頃は明治維新前であり、国威を発揚するために長年にわたって改ざんしてきた「大日本史」を完成させなければならなかった。徳川光圀が暴いた倭国の都を消し去らなければならなかった。
 松岡布政の著した伯耆民談記(1742年)には 
 一、刀鍛冶の事  安綱 「大原五郎太夫と号す。河村郡大原村に鍛冶屋とて今にあり。此所に住居せしとなり、平城天皇の御宇(806年~809年)の鍛冶にて、源家累代の宝剣、鬼切丸の作者なりと言う。・・・。太平記には、会見郡の大原の鍛冶工なりと述べあれど、会見郡に大原の地名なければ、河村郡の誤りなり」とある。
 また、「伯耆民談記」では大原安綱を作った大原は倉吉市大原であるとするが、倉吉市大原は石上神宮があったところだから私も同感である。しかし、通説(これも藤原氏が作り上げた)は西伯郡伯耆町であるとする。西伯郡伯耆町に安綱の碑文があるが、これも藤原氏による比定地の改ざんである。
 徳川家康は賢かった。秀吉が藤原氏にどう扱われていたのかをよく見ていたので京都に近づこうとしなかった。したがって徳川時代は伯耆国の神社は優遇されていた。皇大神宮と名乗ることを許された神社が4社あった。
 明治政府の伯耆国に対する冷遇に対して伯耆国は反発したはずである。明治政府(藤原氏)は明治9年に鳥取県がうるさいことを理由として島根県に併合し鳥取県をなくした。

3 鬼住山ものがたり(旧溝口町発行より) 
 第7代孝霊天皇の時代のことです。
 「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
 「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
 「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
 などと、うわさは都まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
  天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。
 朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
  天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
  伯耆国では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。

4 高杉神社(大山町宮内)
〈祭神〉
 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻姫)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
〈由緒〉
 雄略天皇丙辰の年近郷衆庶に崇りあり。在事年を累ね人民これを歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松姫命、千代姫命の霊魂が細姫に対し嫉妬の崇りありとし、これを神廟に祭祀し御告の隋に宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)、二ノ御前社(中殿)、三ノ御前社(末殿)と奉仕し、祭日には嬲神事とて三人の仕人物忌み神懸りあり。幣帛をもって打合せ式あること絶えず。・・・。当社社伝には孝霊山は景行天皇(孝霊天皇)御草創の地にして、皇子忍別命の本居別稲置の首にして当社は皇孫代々の宗廟たりと。
〈私見〉
 古事記・日本書紀と同じく藤原氏の神社庁は孝霊天皇であったのを景行天皇に入れ替えている。この神社の主役は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)である。大足彦忍代別命(景行天皇)はあとで取って付けたように思われる。細姫は孝霊天皇の正后であり、山は孝霊山である。
 私見によると、嫉妬の崇りがあったのは孝霊天皇の正后である細姫ではなく、高杉神社の近くの妻木から娶られた朝妻姫であると解する。都は奈良にあったと思わせるように書かれているが、都は鳥取県中部にあったから妻木に行ったり来たりはその日のうちにできた。
 「松姫命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻姫)に対し嫉妬の崇りあり」とあり、おそらく松姫命、千代姫命も妻木の出身と思われる。妻木晩田遺跡は出雲文化であるので松姫命、千代姫命も出雲族と思われる。二人は霊魂となって嫉妬しているから自害したものと思われる。天皇が出雲族の姫を殺したから出雲族は攻撃を始めたという伝承がある。このことが倭国大乱の原因になった可能性がある。

5 孝霊天皇一族について記す伯耆国神社の由緒
(1) 生山神社
 伯耆誌に曰く「伯耆民談記に当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ、というは例の妄誕なるべし」と。
 当社の山上に柴瀧というあり。孝霊天皇の皇女福姫命爰(ここ)に誕生ありしによりて後世これを生山と号しまた村名に及ぶ。
(2) 菅福神社
 当社の社伝記に「母来国日野郡菅ノ郷に鎮座の高宮大明神は人皇七代の帝孝霊天皇御旧跡の御社なり。この大御代に皇尊に背き国民を悩ます者あり。牛鬼という。帝の親征皇后細姫命幸を共にし給う。時に河の辺りに大なる石ありて、これを高御座となし、小菅を刈り薦(こも)となし、御鏡を石の上に置き給い、姫御子御降誕福姫命という。時に河音姦しく、天皇彼の御鏡を河に沈め給いて河伯に祈り給う。忽ち河音止まりぬ。その所を名付けて音無川といい、その地を産盥(たらい)という。さらに宮所を求め給い行宮を造らしめ給う。今の高宮社の地これなり。鏡を置かせ給える所を鏡岩大明神と斎ひ奉り、菅を刈らせ給いし所を菅の里という」と。
(3) 楽々福神社(日野郡溝口町宮原)
 当社鎮座につき伯耆民談記に曰く「楽々福大明神と号する社日野郡に建つ所都て四ヶ所、各孝霊天皇を祭る神社なり。但し印賀村の楽々福の社は彼の天皇の姫宮福姫を祭る神社なりと伝来す。当社を 日野大社と伝う。上古孝霊天皇の御宇当国西端に悪鬼あってこの地に御座をなされし鎮政なりと云う。すなわちこの所にして崩御あってその神跡と云って社の後に方八間の岩窟あり」。なお伯耆誌に曰く「・・・」
(4) 楽々福神社(日野郡大宮村印賀)
 祭神媛姫命(またの名は福姫)は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。伯耆誌に「今当社に福姫命一座とす。社山を貴宮山と号し、福姫命の御墓と称し、また崩御山といえるもあれど、すべて信じがたし。当社もと榎垣内村一條山に在りし」と。民諺記に記するものあり。溝口村郷社楽々福神社の所に記す。参照すべし。
 祭神媛姫命は孝霊天皇の皇女なり。この地において薨せらるという。社背山林中に御陵墓と称える地あり。
(5) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内東宮ノ廻リ)
 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、ついに平定し給う。よって、若健吉備津彦命の功績を畏(かしこし)みてこの地に祀る。大日本根子彦大瓊命、細姫命、福姫命の三柱は父並びに正后妃に当たらせられる。
(6) 楽々福神社(日野郡日野上村宮内西馬場ノ筋)
 孝霊天皇の皇子、大吉備津彦命と弟若健吉備津彦命と共に、西道鎮撫の勅令によって当国に巡行あり。この地に悪鬼占拠して人民を鹵掠せしを、大吉備津彦命これを平け給い。ついにこの地に薨し給うを以て斎祀る。伯耆民談記に「東西両社共に大社にして神宮寺あり。社の後ろなる山上に岩窟あり。天皇の皇女崩御の窟なりと云い伝う。凡人臨むこと叶わず」と。また伯耆誌に曰く「・・・」
(7) 福成神社
 なお、当社には牛頭天王、愛宕大明神をも合祀すれどもその年代明らかならず。したがって県の明細帳にも脱漏せるが実際には吉備津彦命、大日本根子彦大瓊命、稚武彦命、細姫命、倉稲魂命をも加えるべく、なお他にも脱せるものありて実数は五十柱にも及ぶと云えり。
(8) 日谷神社
 伯耆誌に曰く「当社今大を王にかえて王宮大明神とするは例の社家の杜撰なり。応永の古文書によるに、楽々福大明神の地といえり」

6 伝承は全国に多くあるが、その伝承に対し藤原氏の反論がある伝承が本当の伝承である。藤原氏の反論のない伝承は藤原氏自身が創作した伝承であり、九州の神武天皇の伝承や神功皇后の伝承などは、全国に4万4千社ある八幡神社を使って創作された藤原氏の伝承である。 鳥取県中部でも倭文神社の下照姫命や、九品山大伝寺の中将姫伝説や打吹山の天女伝説などは、そこにあるヤマト王権の伝承を消すために創作された伝説である。


神武天皇が即位した橿原宮は鳥取県倉吉市大宮にあった

2021-04-18 18:28:37 | 火々出見と神武天皇4兄弟
1 第11代垂仁天皇(伊久米伊理毘古)の本拠地は岡山県久米郡美咲町百々大宮としたが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名とされる。岡山県の久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、鳥取県倉吉市の大宮は弓削なり久米の地名は岡山県より近くにある。ということは、ここにいた王は第11代よりも初期であったという推測が成り立つ。
 火火出見(鵜草葺不合)は辰韓から船で1日で帰ってきて倉吉市の北面に到着し四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は師木邑(湯梨浜町長和田集落)水垣宮である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るは、初代の神武天皇である。

2 地図より
 県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。
 大宮集落の東北に隣接する弓削集落。
 左上は小鴨川。小鴨川の上流には耳集落がある。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は広瀬川に架かる橋一本で孤立している。大宮集落の隣は弓削集落。小鴨川周辺は伯耆国の旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。
 倉吉市の大御堂廃寺は白鳳期すでに「久米寺」であった。伯耆国6郡の1つの久米郡の「久米」という地名は白鳳期よりずっと以前からあったと思われる。ちなみに日本書紀の「来目」は造語であった。

 大御堂廃寺から出土した「久米寺」と墨書された土器

 白鳳期に創建された大御堂廃寺から出土した正倉院と同じ銅製匙(溝に落ちて一つだけ残っていた)

3 神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。橿原神宮が創建されたのは明治23年で国威発揚のためであり、テーマパークとして創建されたので史実に忠実ではない。奈良の橿原神宮とする説は少数である。

4  大宮の前にある小鴨神社
 予測していた通り、大宮(橿原宮)から、父の火火出見が宮を定め、兄たちと育った日向の四王寺山(畝傍山)が北西に見える。

5  大宮橋を渡らないと大宮集落へは行けない。この橋が唯一の出入口である。
 県道38号線より。大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない。
 大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
 広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。

6  弓削集落。
 左が弓削集落。右の先に小鴨神社の社叢が見える。
 弓削集落から大宮集落が見える。
 
7  私見
 饒速日は江府町江尾から鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→船→八幡神社のある峰(哮峰)に降臨して素戔嗚と会い、しばらくここに住んでいた。天穂日の縁結びで長髄彦の妹と結婚した。長髄彦も哮峰の近くの倉吉市富海に住んだ。饒速日は次男のウマシマジが生まれる前に亡くなった。その後、饒速日の弟の邇邇芸は北栄町上種の大宮神社に降臨し木花之佐久夜毘売との間に火火出見(鵜草葺不合)が北栄町由良の高江神社で生まれた。火火出見(山幸彦)は3代目長髄彦(海幸彦)と折り合いが悪く、辰韓に3年間逃げていた。しかし、倭国に帰り四王寺山を本拠地として玉依姫との間に神倭磐余彦の4兄弟が生まれた。

 神倭磐余彦は火火出見(鸕鶿草葺不合)の子として四王寺山(日向)で育った。九州の鬼八を平定して五瀬と鳥取県中部に帰ってきたが、五瀬は長髄彦の矢があたって亡くなり、神倭磐余彦は福山市に退却して出雲から出てくる略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)を平定し、瀬戸内周辺の住民に高地性集落を造らせて略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)から命を守らせた。また、自分たちが生まれ育った倭国を取り戻す機会をうかがっていた。東は摂津国まで平定し明石にいた椎根津彦を引き連れて岡山県の旭川を北上し、蒜山高原を過ぎて鳥取県江府町の鏡ヶ成から倉吉市上大立(穿邑)に降った。江府町江尾に帰っていたウマシマジも神倭磐余彦に合流した。道臣たちは山側(南側)に穿って道をつけた。広瀬・円谷線もその一つであった。長髄彦のいた富海を遠まきにするように道をつけている。長髄彦は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。神倭磐余彦とウマシマジはその南で長髄彦と対峙した。長髄彦一族を平定してから倉吉市大宮に皇居(橿原宮)を置いた。長髄彦は亡くなったが一族は生田に移り住んだ。現在の倉吉市は長髄彦一族(出雲族)が中心になって築かれた自治体である。
 日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。
 第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。神倭磐余彦は倉吉市大宮で初代天皇として紀元前60年に即位した。神倭磐余彦の4兄弟の育った四王寺山の前の土塁(中尾遺跡)から紀元前100年頃の住居跡と国内最長の鉄矛が発掘された。
 稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。辰韓から来る途中の隠岐島から鳥取県中部(倭国)までの海が荒れないように上里神社を建立した。紀元前70年に稲飯命は辰韓に現れた。紀元前60年は現れてから10年経ったので、10歳と表現されている。稲飯命は紀元前57年に新羅を建国した。
 赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。
 小鴨川の上流に神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志(古代の舵)と言われていた高さが推定25mくらいの建物(出雲大社のモデル)のあった湯梨浜町の長瀬高浜に到る。多芸志耳は長瀬高浜の高い建物に上がり、新羅から難波津(東郷池)に来る船を誘導していた。

日本書紀は列島における百済再興のために制作された

2021-03-25 16:47:25 | 藤原氏

 日本書紀は列島における百済再興のために制作された。

1 「ヤマトタケルに秘められた古代史」において崎元氏は「書紀」は15代までの天皇の享年は知っているが、17代からの天皇の享年はほとんどわかりません、と言っている。人間の最長寿命の遺伝プログラムは最初から決められており、120歳程度とされる。それを越える天皇が16代までの中に6人も存在する。従って、16代までは潤色されている、とする。

 倭国を乗っ取った亡命百済王朝は、中国に天照・神武から続く万世一系の皇統だと思わせなければならなかった。しかし、天照大神が中国人であったことは隠さなければならなかった。従って神武元年を紀元前210年よりずっと古く見せなければならなかった。そのために、120歳以上の天皇を6人も創り、兄弟承継であった8代9代10代を父子承継にした。

2 旧唐書に倭国と日本(百済)は別の国と書かれるほど唐に疑われていたので万世一系の天皇家と思わせるようにしなければならなかった。そんなおり、太安万侶より倭国の歴史書が上程された。不比等をはじめとする亡命百済人たちは百済(日本)の歴史書を創るにあたり、倭国と日本(百済)は別の国と思われないために百済の王の中に倭国の王を混ぜた。
 日本書紀において原古事記から引用したと思われる倭国大王は神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇くらいである。あとは百済王の在位期間を持ってきている。大「臣」とされているのも、すべて倭国の大「王」であった。亡命百済人たちは、奈良で仕事を与えられ、倭国の下僕として働いていた。石像などを造ったのも亡命百済人である。テロで政権を奪った亡命百済人たちは日本書紀において倭国の大王を下僕(大臣)として仕えさせるという書き方をした。
 古事記原本には大「王」と書いてあったのを大「臣」に書き換えている。

 崎元氏は、単純に直線を引いて神武元年を207年とする。崎元氏は履中からの傾きは正しいとされるが、大臣が倭国大王なので690年は第31代の高市大王となる。百済人(扶余族)の性格は性急なので寿命も短かったようである。履中からの在位年数は百済王の在位年数である。一方、魏志倭人伝には「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから王の在位年数も現代とあまり変わらず30余年であった。 
 神武元年は紀元前60年であった。別稿「神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった」を参照されたし。
 神武元年を紀元前60年とし、690年に31代が即位したのでほぼ直線に近くなる。

3 蘇我氏は倭国大王であった。
 倭国13代大王は武内宿禰大王であり、その三男の蘇賀石河宿禰は蘇我氏の始祖であった。蘇我氏は武内宿禰大王の子孫であり、倭国大王になる血筋であった。蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我入鹿・蘇我倉山田石川麻呂は大「臣」ではなく大「王」であった。太安万侶が上程した原本にはそう書かれていたが、百済人は日本国天皇を創り上げ蘇我氏三代は下僕(大臣)として仕えさせるという構成にした。
 したがって、宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智は倭国大王ではなく百済王であった。
 崇峻紀4年(591年)条に「崇峻天皇(蘇我馬子大王)は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して『いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ』と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇が自分を嫌っていると考え、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた」とある。
 「任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った」のは百済王の崇峻ではなく倭国王の蘇我馬子大王であった。朝鮮半島にいた東漢駒の軍に百済王の崇峻を殺害させた。主語を書き換え、舞台を倭国内のように書いているが舞台は朝鮮半島であった。
 皇極・斉明は642年に百済からの船に乗っていた「高名な40人余り」の中にいた百済人豊璋(天智)の母親であった。舒明は百済で亡くなった武王(百済人豊璋の父親)がモデルである。天武天皇は倭国28代蘇我善徳大王(聖徳太子)の王子であった。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。

4 倭国を征服・支配するために創られた百済の八幡神社の祭神として、神功皇后・武内宿禰・誉田別・仲哀天皇を創作し日本書紀に書き入れた。
 13代成務天皇と14代仲哀天皇は架空の天皇である。神功皇后は豊鋤入姫(台与)がモデルであった。倭国が弥生時代後期に神社・神道で全国を統一したのを真似て、不比等たち百済人は多くの八幡神社を全国に創った。
 列島に多く残っていた倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承も消さなければならなかった。八幡神社周辺の倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承は武内宿禰と神功皇后の伝承に吸収させた。
 13代大王の武内宿禰を大臣とした。抜けた13代天皇に架空の成務天皇をあてた。
 14代を誉田別の父親にすることにし14代に架空の仲哀天皇をあてた。本来14代であった仁徳天皇を16代に移した。
 15代は特別な天皇であったので動かすことはしなかった。応神天皇は百済が初めて倭国に朝貢したときの倭国大王であり、3年間人質として百済にいたため、百済にとって特別な天皇であった。応神天皇を百済の神社である八幡神社の主祭神にした。

5 神武東征は不比等の創作である。
 亡命百済人の王族は一時宮崎県にいたので不比等は宮崎県を都に見立てた。710年に平城京を築いてもらったので、不比等は宮崎にいた王族を奈良に呼び寄せた。王族が宮崎から奈良にきたのだから百済の都も宮崎から奈良に遷ったという体裁をとる必要があった。不比等は太安万侶が上程した原本に書いてあった初代神武天皇の鳥取県中部を出発して藤原氏の先祖の蝦夷(略奪集団の出雲族)を平定し、鳥取県中部に帰ってきた記述を利用することを考えた。不比等は倭国の歴史書に書いてあった神武天皇の記述を改ざんして神武東征を創作した。
 原本に書かれていた神武天皇たちの目的は蝦夷(出雲族)を平定することであった。九州の蝦夷を平定したあと、倭国に帰ったが、長髄彦に敗れ、倭国をいったん退いて福山市と尾道市を拠点として出雲から出てくる賊(出雲族)を平定し倭国を取り戻す機会をうかがっていた。倭国(鳥取県中部)を出雲族から取り戻し、紀元前60年に即位した。
 神武天皇は線刻土器の年代比較により摂津国(茨木市の東奈良遺跡)までは行っているが、奈良までは行っていない。唐古・鍵遺跡などの線刻土器は1世紀なので奈良を平定したのは4代懿徳天皇(在位40年~75年)と思われる。中国皇帝への最初の朝貢を北九州の倭奴国にさせたのも懿徳天皇と思われる(紀元57年)。倭奴国は「倭国に仕え従う国」と書く。2代から6代までの天皇は奈良だけでなく東国も平定していった。東北まで平定したのは7代孝霊天皇の皇子(倭建命)と皇女(倭姫命)であった。藤原氏は神武東征との整合性を謀るため、また藤原氏より以前に全国を統一していた別の王朝があったことを隠すため、2代から9代までの旧事を消した。
 10代崇神天皇は四道将軍を置き、全国に神社を建てて、殷王朝から伝わってきた出雲族の宗教を神道に改宗させて、全国を統一した。

6 倭国王2代から9代までの旧辞は削除した。
 倭国王第4代懿徳天皇は奈良を平定し、北九州にあった倭奴国を使って初めて中国に朝貢させた。倭国王第6代孝安天皇(倭国王帥升、在位105年~147年)は後漢への即位報告の朝貢途中、朝鮮半島でとらえた生口(捕虜=略奪集団の扶余族)160人を後漢の安帝に献じた(107年)。7代孝霊天皇とその子、8代孝元天皇と9代開化天皇と卑弥呼は全国と半島を平定した。
 奈良に都を遷したのは初代神武天皇としなければならないから、第4代の旧辞を残しておくと整合性が取れなくなるので消した。
 第6代の捕らえた生口は略奪に喜びを感じる扶余族であり、百済人の先祖であった。7代8代9代に平定された出雲族も略奪集団であり、百済人の先祖であった。藤原氏と同族である出雲族の平定される様を残すわけにはいかず2代から9代の旧辞は消した。出雲族と同族の藤原氏は倭国を乗っ取ってから、出雲国風土記を創作し出雲大社を築造して出雲を聖地にした。藤原氏以前に全国を平定・統一していた王朝の旧辞を残すわけにはいかなかった。

7 新羅と百済を入れ替えている。
 垂仁紀2年是歳条 、神功皇后摂政紀47年4月条、応神紀14年是歳条、応神紀16年8月条、仁徳紀53年5月条、雄略紀7年是歳条、雄略紀9年3月条にある「新羅」は原文に「百済」とあったのを書き換えている。
 新羅と倭国(鳥取県中部)は建国以来兄弟国であったので、倭国の歴史書に新羅を悪く書くことはない。百済人は倭国の歴史書にあった新羅と百済を入れ替えた。欽明天皇の段で特に多い。百済は新羅の法興王を殺した。
 仏教は新羅の法興王から伝わったにもかかわらず、百済から伝わったと書いた。飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルに建築された。
 湯梨浜町宮内遺跡発掘調査報告書や青谷上寺地遺跡発掘調査報告書を見ると、弥生時代前期から鳥取県中部(倭国)は大陸と直接交流をしていたことが判る。その大陸とは東郷池・青谷と最短距離にある新羅国である。新羅国は稲飯命が建国しそこで鉄製の武器を造っていた。新羅国と倭国(鳥取県中部)は弥生時代前期から兄弟国であった。
8 日本書紀は原古事記の発音を他の漢字であてた当て字である。
 日本書紀は古事記とは別の漢字を使う。意地でも別の漢字を使う。久米を来目と書く。長谷を泊瀬と書く。大御堂廃寺から7世紀の「久米寺」と墨書された皿が発掘された。日本書紀が製作される以前は「久米」の字が使われていた。「大倭」を大和や日本に変えている。先祖代々使ってきた「倭」の国号を倭国の大王はそう簡単に変えることはない。倭(やまと)と名乗った祖神(伊邪那岐)を大事にする一族だからである。8世紀に倭の国号を変えたとするが、倭の大王ならば先祖が800年使ってきた国号を「優雅でない」という理由だけで変えることはない。倭の文字が「優雅でない」から大和・日本に変えたのではなく、日本と名乗ったのは倭王朝とは別の百済王朝だからである。日本(百済)は倭国を乗っ取ったのである。

9 日本(百済)という国号を遡らせて使っている。
 日本という国号は百済からの人質の豊璋(天智)が669年に発案し702年に中国に知らせた。亡命百済人たちの国号であった。万世一系の日本国であったと思わせるため日本の文字を669年以前に遡って記載した。
 倭国歴史書には倭建命(157年~188年)と書いてあったのを日本武尊に書き直している。
 173年に卑弥呼と倭建命が建国し663年に統一新羅が半島を統一するまで、任那があった場所は最初から最後まで全羅南道であった。藤原氏は百済が任那を征服したと思わせないため、新羅に隣接する加羅10国が任那であると記載した。
 雄略天皇のときと512年から543年頃にかけて任那は百済(日本)に滅ぼされ占領されていた。「任那日本府」の文字は百済が全羅南道の任那を征服したので日本書紀では遡らせて「任那日本府」と書き換えた。

10 伊勢神宮と伊勢国を古く見せかけている。
 伊勢神宮は全国を統一した卑弥呼のいた志摩国を封印するために倭国を乗っ取った藤原氏が創建した。藤原氏だから奈良時代より古くはない。伊勢神宮がまだなかった時代に倭建命も持統も伊勢神宮に行ったことにしている。
 伊勢国を創るために、原古事記にあった建御名方と建御雷との国譲りの交渉を伊勢国風土記の伊勢津彦と天日別命との交渉に書き換え、時代を神武天皇の時代にして天照大神の降臨を日本書記には記載しなかった。伊勢国を創ったのも伊勢神宮と同じく奈良時代以降である。

11 準王一族のいたところを聖地にしている。
 藤原氏は朝鮮半島に残っていた箕氏朝鮮の準王一族と思われる。倭国を乗っ取ってから紀元前194年頃に渡来した準王一族のいたところを聖地にした。藤原氏は兄妹婚や母親・叔母との結婚(近親婚)をおかしいと思っていない節があるので藤原氏と準王一族(蝦夷)は同族と思われる。奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂など準王一族が多くいたところであり、藤原氏は倭国を乗っ取ったあと奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂などを聖地にして日本書紀でもそのように記載した。


神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった

2021-03-16 17:12:40 | 火々出見と神武天皇4兄弟

 神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった

1 神武元年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この神武元年は実際よりも古く改ざんされているという説がある。
 なぜ神武元年を実際より古く見せなければならなかったか。
 それは天照大神が紀元前210年に来倭した徐福であることを消す方法の一つとして紀元前210年よりもずっと古くしなければならなかったからである。天照大神が徐福であることを消す方法としては他に、欠史八代を作り長い寿命にしたり、72代にわたるウガヤフキアエズ王朝を創ったり、高天原は雲の上にあったとしたり、天照大神は女性であったとする、などがある。
 ただ、何年改ざんされているかについては説が分かれる。(1)600年改ざん説 (2)660年改ざん説 (3)720年改ざん説がある。それぞれ確信のある年代から割出した説である。例えば660年改ざん説によると神武天皇の即位は西暦元年となり、西暦は西洋から来たのではなく神武天皇の即位を元年にしたものである、とする。
 600年改ざん説は少数だが江戸時代すでに主張されていた。朝鮮半島との交易を調べるとこの説になるそうである。始めに600年ありきで、切りのいい600年改ざん説が正しいと思われる。どの天皇が何年水増しされているかについては、そもそも実在しない天皇も含まれているので全体で600年(60年×10回)としか言えない。干支がずれないように60年単位で増やしている。私は紀元前60年説が正しいと思う。

2 神武元年を紀元前60年(弥生時代中期)とする根拠。
(1)新羅の建国年
 「新撰姓氏録」では、右京皇別 新良貴- 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
 鈴木真年著作の「朝鮮歴代系図」には新羅王家の朴氏が飯氷命を遠祖とする系図を挙げ、赫居世居西干に仕えた倭人重臣の瓠公と同一人物であるとする。また、日本側に残る諸豪族の系図から推定された本来の皇室系図における稲氷命と、朝鮮側に残る新羅歴代の系図の赫居世が同世代の人物であり、暦年研究からもこの両者が同時代に活動したことがわかり、飯氷命を瓠公とする所伝には信憑性がある、とする。
 神武元年紀元前60年説は紀元前57年に新羅を建国した瓠公(赫居世=稲飯命)と符合する。紀元前60年に稲飯命は辰韓で周囲に「弟が倭国の天皇になった」と自慢したふしがある。
(2)中尾遺跡
 倉吉市の四王寺山(神倭磐余彦の4兄弟がいた)で見つかった紀元前100年頃の中尾遺跡(住居跡と国内最長の鉄矛)とも符合する。別稿「神倭磐余彦4兄弟のいた倉吉市の四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された」を参照されたし。
(3)九州の鉄の鏃
 九州各地で見つかっている紀元前100年頃に使われた鉄鏃とも符合する。
以下の鉄鏃は辰韓・加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神武天皇たちに送られ、九州で使われた。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 
(4)妻木晩田の松尾頭遺跡
 妻木晩田の松尾頭遺跡は紀元前100年頃に始まっており。所子の糺神社から神武天皇が来て出雲族に宗教改革を始めさせた。別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。
(5)高地性集落
 人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、高地性集落の遺跡が見つかっており、その性質は「逃げ城」とされる。高地性集落の分布は、弥生時代中期では中部瀬戸内と大阪湾岸にほぼ限定される。
 略奪集団(出雲族)から住民を避難させるために神武天皇は高地性集落を造らせた。また分布からもわかるように、弥生時代中期の神武天皇は広島県福山市を本拠地とし、東は摂津国と大阪湾沿岸までしか行っておらず、奈良には行っていない。

3 神武天皇の生誕年は52歳で即位したとされるから紀元前112年頃となる。饒速日の誕生は紀元前210年以降である(父の天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年だから)。饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年25~30歳くらい。瓊瓊杵命は饒速日が亡くなった頃に生まれたから紀元前180年頃の生まれと思われる。紀元前180年(瓊瓊杵の生誕年)引く紀元前112年(神武天皇の生誕年)は68年であり、それを2で割る(ウガヤフキアエズは火火出見のあだ名だから神武天皇は瓊瓊杵の孫)と34歳となる。世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 また、2代綏靖天皇は神武天皇が即位後に娶った皇后の第2子であるから紀元前55年頃の生まれと思われる。7代孝霊天皇(生誕年を115年とする)までは5代であるから、世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 神武天皇は特別だから除外すると、瓊瓊杵命から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であり、綏靖天皇から孝霊天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であるからほぼ同じになる。この結果は、天照大神は徐福(紀元前210年渡来)だったという私見にも合致する。
 出雲国と接する地域で鬼(出雲族)と戦っていた孝霊天皇(115年~211年)が倭国大乱の時代の天皇となり、皇女の倭迹迹日百襲姫の生誕年を151年頃とすると倭迹迹日百襲姫は倭国大乱の時代を生きた「宋女」となる。
 古事記・日本書紀の初期天皇の寿命はあまり長すぎるが、「魏志倭人伝」に「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから世継天皇を生む年齢も現代とあまり変わらなかった。その後、荘園制度や過酷な年貢の取立てなどで藤原氏に搾取されて寿命は短くなるが・・・。