「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

神道の始まりは道教であり、全国に広めたのは倭姫命(卑弥呼)・倭建命・崇神天皇であった

2018-07-29 06:22:03 | 日本書紀10代から27代までの期間の倭国天皇

1  倭姫命が定めた20社(神話の森・倭姫命世紀より)
 また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「百張(ももはる)蘇我の国、五百枝刺(いほえさす)竹田の国」と申上げた。その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
  ここから御船に乗って幸行し、河後の江に到ると、魚が自然と寄り集って、御船に参ゐ乗った。倭姫命は、それを見て悦ばれ、魚見社を定められた。
  さらに幸行すると、御饗を奉れる神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「白浜 真名胡国」と申上げた。その所に兵名胡神社を定められた。
 さらに幸行して、佐々牟江に御船を泊め、そこに佐々牟江宮を造って遷座し、大若子命は「白鳥の真野国」と国寿き申上げた。そこに佐々牟江社を定められた。
  そこから幸行する間に、風浪は無く、海潮は大淀に淀んで御船が幸行できたので、倭姫命は、悦ばれて、その浜に大与度社を定められた。
 そこから幸行すると、速河彦(はやかはひこ)が現はれ詣でたので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「畔広(あぜひろの)狭田国」と申上げて、佐佐上の神田を進った。その地に速河狭田社を定められた。
  さらに幸行すると、高水神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「岳高田(をかたかだ)深坂手国(ふかさてのくに)」と申上げ、田上の御田を進った。そこに坂手社を定められた。
  さらに幸行すると、河が尽き、その河の水は寒かったので、寒河となづけた。そこに御船を留め、御船神社を定められた。
 そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡神(まなごのかみ)が現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。
 そこから幸行すると、久求都彦(くくつひこ)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「久求の小野」と申上げた。倭姫命は詔して、この御宮処を久求小野(くくのをの)となづけ、久求社を定められた。久求都彦が、「吉き大宮処有り」と申上げたので、そこに幸行すると、園作神が現はれ参上して、御園地を進った、それを悦ばれて園相社を定められた。
 その地から幸行すると小浜があり、鷲取る老翁があった。倭姫命が、「御水おもゆ飲らん」と詔して、「何処に吉き水あらむ」と問ふと、老翁は、寒なる御水を以て御饗を奉った。それを讃めて水門に水饗神社を定められた。
 かくして二見浜に御船を泊め、大子命に「国の名は何そ」と問ふと、「速雨二見国」と申上げた。永くその浜に御船を留めて坐す時、佐見都日女が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、詔を聞かず何も答へずに、堅塩を以て多き御饗を奉った。倭姫命は慈しんで堅多社を定められた。
 そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると、佐美川日子が現はれ参上したので、「この河の名は何そ」と問ふと、「五十鈴河後」と申上げた。その処に江社を定められた。
  また荒崎姫が現はれ参上したので、国の名を問ふと、「皇太神の御前の荒崎」と申上げた。「恐し」と詔して、神前社を定められた。
 その処に現はれ参上して、御饗を仕へ奉った神を淡海子神(あはのみこのかみ)となづけて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。還り幸行して御船を泊めた処を、津長原(つながはら)となづけ、津長社を定められた。
 その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。
 彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神と称ふるは是なり。
 鶴の住処には八握穂社を造り祠った。

2  古事記における第十代の和風諡号と皇居のあった場所
 第十代 崇神天皇 御真木入日子印恵命 師木の水垣宮
 師木は東郷池周辺なので崇神天皇の皇居は鳥取県中部にあった。崇神天皇は「御真木入」であるので「御真木国」を活動拠点にしていた。大国主が最初に逃げていた「木国」は鳥取県智頭町であるが、「御真木国」は木国に似ているが本当(御真)の「木国」という意味であり木国(鳥取県智頭町)の近くにあった。木国は紀伊国ではなく鳥取県智頭町であるが「御真木国」は岡山県津山市と思われる。中山神社には中山神が来るまで大国主がいたという伝承がある。

3 出雲(殷王朝の末裔が建国した)を本拠地として全国に展開していた青銅器文化の一族の生け贄を伴う祭祀は、止めさせなければならなかった。日本書紀・垂仁25年には「先皇御間城天皇祀神祇」とある。崇神天皇は新たな祭祀を考えた。それは、始祖から伝わる道教に基づく神道であった。神祇信仰は神道と同義である。崇神天皇は道教をもとにした神祇信仰を全国に布教した。実際に全国に社を定めて行ったのは倭姫命(卑弥呼)であった。全国各地に神社を建立し平定した青銅器文化の一族に神祇を祀らせた。
 崇神天皇は大碓命(大吉備津彦)であったから、倭国大乱終結後、豊田市の猿投神社に居た。姉の倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社に居た。
 代表者を集めての祭祀は当初鳥取県北栄町下神の神浅茅原でしていた。しかし東国の代表者の便宜のため祭祀は奈良の纒向ですることにした。卑弥呼の居所は安全のため、青銅器文化の一族(唐古・鍵遺跡や清水風遺跡など)の多くいる奈良盆地ではなく志摩国に定めた。宇陀や伊賀に始まり志摩国に神界を定める倭姫命世紀は卑弥呼の安全な居所を探すための巡行であった。
 神道の語の初見は中国の易経で、神道の語の出典は道教の教典である。神社は日本独特の宗教とされるが、道教と共通する部分が多く残っている。例えば、心身を清める儀式、柏手を打つ拝礼、鏡と剱(道教)玉(儒教)の神器、お札・お守り、鈴を鳴らす、などである。神道の母体は道教であった。

4  崇神5年に疫病が大流行し、大田田根子を探し出し三輪山で大物主を祀らせたとあるが、大田命を祀る神社(青木神社 鎮座地 鳥取県米子市青木1157番、阿陀萱神社 現在地 鳥取県米子市橋本623番、上長田神社 鎮座地 鳥取県西伯郡南部町下中谷823番、田中神社 現住所 鳥取県西伯郡南部町刺1070番、菅福神社 現在地 鳥取県日野郡日野町上菅250番、福栄神社 現在地 鳥取県日野郡日南町神福1247番)が鳥取県西部に6社(鳥取県神社誌より)あるため、大田田根子は鳥取県西部にいたものと思われる。天忍穂耳は大陸に行くために、鳥取県西部を通って北九州に何度も行っていたのだから、その子孫が鳥取県西部にいたとしてもおかしくない。崇神天皇(大吉備津彦)は鬼の平定で鳥取県西部はよく知っていたので、大田田根子を探すのは難しくなかった。大田田根子を鳥取県中部(北栄町下神)の三輪山に連れてきて、大物主(天忍穂耳)を祀らせた。崇神天皇が大田田根子(伯耆国西部の6神社)をみつけてきて大物主を祀らせた三輪山は鳥取県北栄町の三輪山であった。奈良の三輪山はこの時はまだ祭祀は行われていなかった。
 崇神天皇は道教をもとにした神祇信仰を全国に布教した。全国各地に神社を建立し平定した青銅器文化の一族(銅鐸祭祀の一族)に神祇を祀らせた。代表者を集めての祭祀は当初鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の神浅茅原で神戸市の旧生田神社にいた倭迹迹日百襲姫命を連れてきてさせていた。その後、東国から鳥取県中部まで来ることは大変であることが判り、全国の代表者を集めての祭祀は奈良の纒向で行うことにした。卑弥呼の居所は安全のため、青銅器文化の一族(唐古・鍵遺跡や清水風遺跡など)の多くいる奈良盆地ではなく志摩国に定めた。宇陀や伊賀に始まり志摩国に神界を定める倭姫命世紀は卑弥呼の安全な居所を探すための巡行であった。伯耆国出身の卑弥呼は安全のため志摩国に、崇神天皇(在位188年~220年)は御真木国(岡山県津山地方)にいて全国の代表者を集めての祭祀は奈良の纏向で行うことを始めた(200年頃より)。


九州における卑弥呼・倭建命の軌跡

2018-07-28 03:55:08 | 邪馬台国・卑弥呼
1  卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は伊万里市から新羅に向けて出港した。
 まず壱岐に向けて出港した。対馬海流を考慮した出港である。

すぐ向こうは海である。
 佐賀県伊万里市黒川町小黒川鎮座
 若宮神社
 祭神 若日孁尊(稚日女命=卑弥呼)
 御由緒
 「当神社は神功皇后征韓の砌(みぎり)若日孁尊の威霊を現わされし給いしにより此地◯◯に是を鎮祀給うた古社にして・・・。」とある。
 日女命に稚をつけて稚日女命とし、ここでは若日孁尊としている。由緒に神功皇后が出てきているので、若日孁尊は卑弥呼(倭姫命=稚日女命)である。

2  熊襲は船山遺跡のあたりにいたのではないかと思われる。崇神天皇が中山神社を拠点としたように、平定した相手の拠点をヤマト王権の拠点とした。
 柿原神社は確認できなかったが卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が拠点にしていたはずである。
 四王子神社 祭神 倭建命
 摂社若一皇子社 祭神 若晝女神(稚日女命)
 ここでも稚日女命を若晝女神に変えている。
 ワカタケル(雄略天皇)銘であると思われる。江田船山をヤマト王権は拠点とした。

3  天草の「天」は、隋書東夷伝倭国伝にある「倭王、姓は阿毎(アマ)」とある「天(アマ)」である。
 
 路木神社より海が見える。当時はもっと手前まで海岸がきていたはずである。
 稚日女命を祀る神社は海岸近くが多いので、ヤマト王権は船で移動していたものと思われる。
 天草市牛深の夕日
 卑弥呼(倭姫命=稚日女命)たちは天草市牛深にも来ていた。
 宮崎県、鹿児島県に卑弥呼たちの痕跡がないのは神武天皇たちによって宮崎県、鹿児島県はすでに平定されていたからと思われる。鹿児島県で弥生中期の鉄鏃が発掘されている。

卑弥呼の墓は安楽島集落から伊射波神社に行くまでの1.2kmの間にありはしないか

2018-07-28 03:15:58 | 邪馬台国・卑弥呼
 魏志倭人伝によると「卑弥呼の死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、100余人が殉葬された」とある。また、「倭の墓は棺をもってあるも槨なく、土を封じて塚をつくる」とある。箸墓古墳はこれに該当しないのではないかと思われる。
 伊射波神社より700mくらい南西にある。
 安楽島町から500mくらい北にある。

 軽自動車が通れるほどの道は左に大きく迂回するように造られている。
 歩行者は丸い丘の上辺を通る近道がある。
 それほど勾配のある丘でもないのに、広い道をつくる時に、なぜこの丸い丘を崩して真っすぐな道路をつくれなかったのだろうかという疑問が沸いた。
 上空から見る限り、もともとは、卑弥呼(倭姫命=稚日女命)のいた伊射波神社に通ずる道が南北に真っすぐあったのではないか。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が亡くなってから卑弥呼(倭姫命=稚日女命)の居所に通ずる道を塞ぐ意味も込めてその道のど真ん中に墳墓をつくったのではないか、という推測が生まれる。

 円の直径は70m余り。魏志倭人伝に「百歩余り」とあるが、実際に誰かが歩いたものと思われる。身長170cmの男性の平均歩幅は70cmとされる(ヤフー知恵袋より)。70m余りは100余歩となる。
 ここを通るときに、青谷上寺地遺跡が発掘されるまでの青谷町の薄気味悪い雰囲気が思い起こされた。風もそれほどないのに竹藪の竹の擦れる音が大きくて、助けをもとめているように聞こえた。私以外にも、神社に行くまでの薄気味の悪さを書いておられる方がいる。殉葬された者達の無念さが残っているのかもしれない。
 追記(11月16日) 地元の方から情報をいただきました。「安楽島町では此処を松の鼻古墳と言っています。 昭和30年代中高生が剣と土器を発掘し鳥羽市 三重県 へ寄付した」そうです。「松の鼻」古墳は、「姫小松」に見立てられた稚日女尊(卑弥呼)の古墳と思われる。

全国と半島に散らばった青銅器文化の一族を平定していった卑弥呼の巡行

2018-07-27 21:49:49 | 邪馬台国・卑弥呼

1  青銅器文化を持った一族(準王一族=出雲神族)が紀元前2世紀から日本列島各地に勢力を伸ばしていた。彼らは殷や秦の流れをくむ一族であり、情け容赦なく女子供を殺したりした。古事記にいう「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」であり鬼と呼ばれることもあった。彼らの進出にストップをかけたのが、神武天皇に始まる天孫族である。倭姫命世紀には南北に巡行して彼らを従わせた記録が書かれている。古事記には倭建命の東西の平定説話として書かれているが、どちらも卑弥呼(倭姫命=稚日女命)倭建命の巡行である。

2  卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は焼津で野火に囲まれ、木花之佐久夜毘売の火中出産を思った。これが男性の倭健命だけなら木花之佐久夜毘売を発想しない。焼津から巡行を進めるうちに福地(富士宮)で徐福の子孫(第一次)に出会った。徐福の子孫に、野火に囲まれたことを話した。「まるで木花之佐久夜毘売になったようであった」と言った。その話を聞いて、徐福の子孫は福地で木花之佐久夜毘売を祀るようになった(185年頃、弥生時代後期)。806年に浅間大社が山宮(現山宮浅間神社)から現在地に遷座して来るまで、同地には福地神社が地主神として鎮座していた。富士山本宮浅間大社が建立されるずっと前から福地神社で木花之佐久夜毘売を祀っていた。
静岡県の稚日女命が祀られている神社。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が寄ったと思われるところ。
静岡県三島市加茂川町 賀茂川神社
静岡県静岡市小鹿 若一王子社
静岡県島田市南町 茨神社
静岡県袋井市国本 冨士浅間宮摂社天白社
 野火事件のあった焼津市は島田市と静岡市との間にある。稚日女命(卑弥呼=倭姫命)は焼津にもいた。

3  卑弥呼たちが新羅から船で帰途の途中に寄ったと思われるところである。稚日女命が祀られている。
島根県簸川郡大社町大字日御碕 摂社立花神社
島根県八束郡美保関町片江 方結神社
 卑弥呼(倭姫命=稚日女命)の時代も、倭国は新羅と兄弟であり、新羅は鉄の武器を造って倭国に送っていた。倭国が新羅を攻撃することはありえない。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)と倭健命は中国に朝貢するためのルートを開くために朝鮮半島に渡った。この時、全羅南道に任那を造った(173年)。朝鮮半島からの帰国時、島根半島の日御碕の立花神社と片江の方結神社に停泊している。新羅から来た天照大神(徐福)と須佐之男も出雲の日御碕神社に停泊している。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は全羅南道に任那を造る(173年)ため朝鮮半島に渡っていた。


​古事記の倭建命には卑弥呼が同行していた。

2018-07-27 19:15:26 | 邪馬台国・卑弥呼

​1 古事記の抜粋
 天皇は「西の国に、熊曾建という者が二人いる。彼らを殺せ」と命じた。そこで叔母の倭比賣命に女性の衣裳を借り、叔母の着物を着た。そして都に帰る途上、山の神、川の神、穴戸の神たちをみな平定して帰った。
 天皇は「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」と命じた。叔母の倭比賣命に「父は私を早く死なせたいと思っているんだろうか。」と言って、泣き憂えた。倭比賣命は彼に草薙の剣を与え、また一つの嚢を与えて、「緊急のことが起きたら、この袋の口を開けなさい」と教えた。相模国に到った時、その国造が彼を騙して、「沼に住む神は非常に荒れ狂う神で困っております」と言った。そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。刀で身の周りの草を切り払い、それに倭比賣命にもらった燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。帰って来ると、その国造たちを斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。
 さらに道の奥に入り、荒ぶる蝦夷たちを退治し、山河の荒ぶる神たちを平らげて、都に還る時、・・・そこでその国を「あづま」(関東)と言う。
 その国を越えて甲斐(山梨県)に出た。そこで酒折宮(山梨県)にしばらく滞在し、歌って「新治(茨城県)、筑波(茨城県)を過ぎて、幾夜寝たことだろう」。
 その国から科野の国(長野県)に越え、科野の坂の神を退治し、尾張へと帰り着いた。

2  「 」は古事記で倭建命が訪れた地名であり、右は稚日女命(倭姫命)を祀る神社。
「熊曾」 熊本県玉名郡南関町四原 柿原神社(熊襲の比定地)
 (近くにワカタケル銘の鉄剣)熊本県玉名郡和水町  江田船山古墳
「蝦夷」 岩手県胆沢郡金ケ崎町大字永栄字飛鳥田後 永岡神社
     福島県郡山市安積町荒井字萬海 柴宮神社
「新治」 茨城県水戸市元石川町 手子后神社
「筑波」 茨城県つくば市筑波 筑波山神社摂社稚日女神社
「あづま」 栃木県栃木市平井町 大平山神社摂社機織姫神社
    群馬県群馬郡榛名町下室田 大森神社
    埼玉県鴻巣市大間 大野神社(近くにワカタケル銘の鉄剣)
       千葉県成田市船形 麻賀多神社
    東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎 狭山神社
    神奈川県座間市栗原中央 栗原神社
    神奈川県伊勢原市三ノ宮 三宮比々多神社
    神奈川県伊勢原市神戸 木下神社
    山梨県西八代郡六郷町鴨狩津向 城山神社
「科野の坂の神」  長野県駒ケ根市上穂栄町 三和社
        長野県飯山市大字緑字塩辛 布施田神社 
「尾張」  愛知県名古屋市中区大須 日出神社
    愛知県一宮市千秋町芝原字石原 生田神社
    愛知県日進市大字本郷字宮下 白山宮摂社香良州社
    愛知県岩倉市下本町下市場 神明生田神社
    愛知県東海市加木屋町宮ノ脇43 熊野神社摂社香良州神社
その他 新潟県 1社
    石川県 3社
「筑紫の末羅縣の玉嶋の里」 佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社 (卑弥呼はここから出航した)
    長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触 天手長比賣神社(新羅に行くときの通過地点である)

3 私見
  倭建命は倭姫命に女性の着物と草薙剣を借りた。一緒に行動していたから借りることができた。熊本県に行って、今夜の宴に女の着物がいるからといって三重県の伊勢神宮まで帰らない。野火を着けられるから刀で草を切り払い迎え火をつけることになるのを事前に知って準備することは不可能である。これも倭姫命が一緒にいたからできたことである。
 また、叔母と甥の関係ではなく、姉弟の関係であった(別稿「孝霊天皇一族について」を参照されたし)。二人の行動範囲はほぼ一致する。西は「熊襲」倭建命・「熊本県」倭姫命(稚日女命)、東は「蝦夷」倭建命・「岩手県」倭姫命(稚日女命)である。

 

 

 


伊勢神宮参拝

2018-07-27 12:34:56 | 邪馬台国・卑弥呼
 神はいないしいたこともないテーマパークであるとわかっていても、話のついでに行ってみたいのが人情である。
 
1 伊勢神宮は敷地が広くて神社も立派である。さすがに藤原氏である。なにもなかったところにテーマパークを造っている。宮司だけは沢山いて、遷宮のときには国民から金を巻き上げて、それで撮影は禁止です、とは何事であろう。戦前の不敬罪の精神が思い起こされた。何もいないのに何を保護するというのだろうか。建物の形状だろうか。藤原氏の短気さが見えたような伊勢神宮参拝であった。
 伊勢神宮内宮正殿には心御柱がある。地中2尺地上3尺、長さ5尺の柱。心御柱祭は深夜に地元の娘たちが心御柱の周りを踊りながらまわるというから心御柱は男根である。天照大神が男性であることを隠すために写真撮影を禁止していた。
 
2 伊雑宮にも心御柱がある。伊勢神宮の心御柱は伊雑宮の心御柱を模倣したものである。
 伊雑宮の宮司は「この祠は遷宮のときに心の御柱を建てる位置を示している」といった。
 伊雑宮は伊勢神宮より550年以上古い。伊雑宮の時代の本当の伊勢神宮は奈良時代まで鳥取県琴浦町にあった。伊雑宮ではこちらを「元伊勢」と言っていた。卑弥呼(稚日女命)はのちに安楽島の要害の地の伊射波神社で生涯を終えた。「いざわ」とは地名であり、藤原氏はそれぞれ異なった当て字をしているが、伊雑宮と伊射波神社は同系列の神社である。 
 
3 伊勢神宮 
 伊勢神宮(内宮)の正面入り口
 祭神は天照大御神だけである。
 正面入口を入ったところに五十鈴川にかかる橋がある。
あまりにも広すぎて、往復すると疲れを感じる。
 
4 藤原氏は、原古事記にあった天照大神が建御名方命に鳥取県琴浦町の伊勢野を国譲りしてもらった記述を神武天皇と伊勢津彦の話に変えて伊勢国風土記を作った。 また、藤原氏は、卑弥呼(倭姫命)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行の記録を「倭姫命世記」として独立させ伊勢神宮ができた由来を創作した。これらの創作は750年以降である。藤原氏は原古事記に書かれていた邪馬台国(志摩国)を隠蔽するために伊勢国と伊勢神宮をテーマパークとして創設した。
 この目論見は今のところ見事に成功している。伊勢神宮は全国の約8万5千の神社の頂点である神社本庁の本宗と位置づけられている。神社本庁の下部組織の神道政治連盟国会議員懇談会には多くの政治家が加入している。神社本庁は改ざんが多くなされている古事記・日本書紀をもとに活動している。

5 「倭姫命世記」偽書説は、「古語拾遺を始め、紀やその他からの転用が多く、古書の継ぎはぎだけでは済まない文脈の乱れがある」と指摘する。江戸中期の神道家・吉見幸和は「倭姫命世記」を含む「五部書説辨」(1736年刊行)で「乱世の時代ならば五部書のような偽書をも疑う者は居ないが、天下が治まり泰平の世が続けば学問も興り、私如き者すら信じず学識のある者が信じることなど恥ずかしいと思え」と記している。
※ 私見
 「倭姫命世記」は偽書ではなく倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行の記録を、伊勢神宮が出来た由緒を作るため、整合性を図って改ざんしたものであり、偽書に見えるが原典は偽書ではない。先代旧事本記も大成経(1679年刊行)が出た影響で偽書扱いされたが、記紀と異なる記載は参考になる場合があり、藤原氏が改ざんしていない部分は信用できる。
 通説は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」と整合性を持たせているが、史実は「倭国大乱の後に、倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行をし、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」であり、二人の巡行は目的の違う巡行であった。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。原本にあった安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
(1)倭姫命は倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)(神社の祭神としては稚日女命)であり卑弥呼であった。
1、大和国 宇多秋志野宮 2、大和国 佐々波多宮 3、伊賀国 隠市守宮 4、伊賀国 穴穂宮 5、伊賀国 敢都美恵宮 6、淡海国 甲可日雲宮 7、淡海国 坂田宮 8、美濃国 伊久良河宮 9、尾張国 中嶋宮 10、三河国渥美宮 11、遠江国浜名宮 12、伊勢国 桑名野代宮 13、鈴鹿国 奈具波志忍山宮 14、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 15、伊勢国 飯野高宮 16、伊勢国 佐々牟江宮 17、伊勢国 伊蘇宮 18、伊勢国 大河之瀧原宮 19、久求小野宮 20、伊勢国 矢田宮 21、伊勢国 家田田上宮 22、伊勢国 奈尾之根宮  23、伊勢国 渡会宮 24、伊勢国 五十鈴宮 25、志摩国 伊雑宮 
(2)豊鍬入姫命は垂仁天皇の皇女、景行天皇の妹であり台与であった。
 1、大倭国 笠縫邑 2、但波乃 吉佐宮 3、大倭国 伊豆加志本宮 4、木乃国 奈久佐濱宮 5、吉備国 名方濱宮 6、大倭国 彌和乃御室嶺の上(山側)の宮
(3)私見
 倭姫命世記では「大和」と「倭」の字を使い分けている。「倭」は鳥取県中部であり「大和」は奈良であった。
 倉吉市高城には楯縫神社があるので、楯縫邑がありその近くに笠縫邑もあったと思われる。
 現在、鳥取県東伯郡琴浦町に「笠見」集落がある。「笠見」という地名は全国でも少ない。ヤフー地図で検索すると真っ先に鳥取県琴浦町「笠見」がヒットする。「高城史」では立見は「楯検」であり楯を検査するところとする。同じく笠見は「笠検」であり笠を検査するところと思われる。倉吉市高城地区の立見と同じく、笠を縫う所もこの近くにあったはずである。すぐ隣の八橋が笠縫邑ではないかと思われる。八橋の地名由来は「八岐大蛇の恨みで加勢蛇川に8つの橋が架かったから八橋という」とするが、それは加勢蛇川周辺のことであって、上伊勢・下伊勢・浦安・徳万・保・丸尾などの集落を飛越えて、笠見の北に八橋の地名が来るのは不自然である。琴浦町八橋は古代「笠縫邑」であったと思われる。倭姫命世記にある豊鋤入姫命の巡行をスタートした大倭国の「笠縫邑」とは鳥取県中部の琴浦町八橋であった。
 鳥取県中部が倭国であったから、但波(竹野川流域)と木乃国(津山市)と吉備(倉敷市)は鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。千余人が誅殺し合ったのもこの地域と思われる。豊鋤入姫命はこれらの地域を平定する巡行をした。吉備国名方濱宮(倉敷市上東)と但波乃吉佐宮(竹野神社)は比定地が多く特定できていない。特に吉備国名方濱宮の比定地は和歌山県に2か所あり、比定地を和歌山県にもっていこうとする藤原氏の意図が見て取れる。名草邑は津山市二宮であったから、「濱」は付けてあるが、奈久佐濱宮は津山市二宮の高野神社であった。奈久佐濱宮は木国を和歌山県にしたい藤原氏の改ざんと思われる。
 「倭国、彌和乃御室嶺の上(山側)の宮」とあるが「上」を「ウエ」ではなく「カミ」と読ませる。「上」(カミ)とは鳥取県中部では山側(南側)のことを意味する。鳥取県北栄町下神の三輪神社跡の石碑は三輪山(御室嶺)の山側(南側)にある。奈良で、特定の方角を「上(カミ)」と呼ぶ慣例があるとは聞いたことがない。

 
 彌和乃御室嶺上宮は宝暦三年(1753年)まで鳥取県北栄町下神にあった三輪神社と思われる。北栄町の三輪神社は焼失したが、京都の藤原氏による放火と思われる。北栄町の三輪神社が奈良の三輪神社の系列なら、同じ場所に再建するはずである。鳥取県中部に本物の三輪神社があるから「五部書説辨」(1736年刊行)のような書物が出て乗っ取りが完成しない、として藤原氏は証拠の隠滅をはかったと思われる。
 
6 海部氏勘注系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であることを暗示している。豊鋤入姫命と倭姫命との順番を入れ替えるためにこのような細工をした。本来13世孫の妹であった豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきた。本来9世孫の妹であった倭迹迹日百襲媛命である日女命を11世孫の妹の日女命に持ってきた。これによって順番は逆になる。11世孫(崇神天皇)の妹の日女命とされる稚日女命・倭姫命は本来9世孫(孝元天皇)の妹の日女命亦の名は倭迹迹日百襲媛命である。
 10世孫の妹の大倭姫命の亦の名に豊鋤入姫命の名がある。彼女が魏志倭人伝の「台与」であり、11世孫の妹の日女命は、9世孫の妹の日女命と同じく「卑弥呼」であった。11世孫は崇神天皇にあたるから、豊鋤入姫命は13世孫(景行天皇)の妹であった。稚日女命は倭姫命と同神であり、倭迹迹日百襲媛命であった。倭姫命(卑弥呼)と豊鋤入姫命(台与)との順番を入れ替えるためにこのような細工をしたと思われる。
 
7 倭姫命は志摩国に着いて、始めのうちは磯部の伊雑宮にいて水田稲作を普及させた。「かの稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。志摩国の伊雑の方上に伊佐波登美の神宮を造り奉り、天照皇太神宮の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。」と倭姫命世記にあるが、現在伊雑宮の祭神は天照大神だけとなっている。
 安楽島の伊射波神社に伊佐波登美(トミだから出雲神族)を祀るようになったのは、藤原氏によるものである。安楽島の伊射波神社の祭神に倭姫命はおらず、祭神は稚日女命である。藤原氏はそこに「倭姫命」に仕えた伊佐波登美(イザワトミだからイザワ地域にいた出雲神族)を持って行った。稚日女命も倭姫命も同一神であることを藤原氏は知っていて移動させている。倭姫命は伊勢国に引き返すのではなく志摩国に留まり、神社の祭神である稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とした。姫小松(稚日女命)の松の鼻古墳もある。松の鼻古墳が卑弥呼(日皇女=孝霊天皇の皇女)の墓と思われる。

伊射波神社の祭神は当初稚日女尊だけであった(由緒など引用しています)

2018-07-27 09:08:19 | 邪馬台国・卑弥呼
 ガイドブックによれば、伊射波神社に祀られているのは、稚日女尊、伊佐波登美命、玉柱屋姫命、狭依姫命という4柱の神様で、伊佐波登美命以外は女神とある。

1  狭依姫命(女神)
 宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名である。加布良古崎の前海にあたる長藻瀬という島嶼の神乎多乃御子神社のご祭神として祀られていたが、戦国時代の地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまった。幸いご神体は村人らによって見つけ出され、伊射波神社に合祀された。海の守護神として卑弥呼のころに祀ったのかもしれない。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。

2  玉柱屋姫命(女神)
 伊雑宮の御師・西岡家に伝わる文書には、中世以降に伊雑宮の祭神とされた「玉柱屋姫命」について、玉柱屋姫と瀬織津姫は鎮座顕現する場による呼称のちがいにすぎず、両神は異称同体という認識が記されているそうである。
 瀬織津姫は天照大御神の妻であり、天照大御神を女神だとするようになってから、藤原氏が消していったものである。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。

3  伊佐波登美命(男神)
 伊佐波登美命以外は女神だから伊佐波登美命は男神である。伊佐波登美尊は、倭姫命が天照大神の御魂を鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられている。安楽島町には、加布良古崎の伊射波神社以外に安楽島町字二地の贄に伊射波神社本宮がありそこに伊佐波登美命が祀られていたそうである。
 安楽島町字二地の贄の遺跡からは、縄文中期から平安中期に至るまでの時代の連続した、おびただしい数の遺物・遺跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっている。伊射波神社本宮の社殿は贄遺跡の近くの一番高いところにあったそうである。
 後、伊射波神社本宮の衰退と共に、伊佐波登美命は加布良古崎の伊射波神社に遷座された。「倭姫命」に仕えた伊佐波登美命はもともと伊射波神社本宮に祀られており、現在の伊射波神社の祭神ではなかった。「倭姫命」と「稚日女尊」は違う神だとすれば、おかしなことをするとなるが、同神だとすれば違和感がない。また安楽島町字二地の贄にあった伊射波神社本宮と加布良古崎の伊射波神社は近いところにある。伊佐波登美命は生前、加布良古崎の伊射波神社の「稚日女尊」のところに行き来していたと思われる。魏志倭人伝には「ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す」とある。この男子は伊佐波登美命のことと思われる。

4  稚日女尊(女神)
 海部氏系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であり、11世孫の稚日女命は9世孫の日女尊又の名を倭迹迹日百襲媛命となり、第八代孝元天皇の妹であり、魏志倭人伝にいう卑弥呼である。霊験あらたかな神様として知られる稚日女命は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するという別格の扱いを受けていました。 
 古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げるアワビを採る神事が行なわれていました。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」と歌にも詠まれています。
 稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。

5 私見
 海部氏勘注系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であることを暗示している。豊鋤入姫命と倭姫命との順番を入れ替えるためにこのような細工をした。本来13世孫の妹であった豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきた。本来9世孫の妹であった倭迹迹日百襲媛命である日女命を11世孫の妹の日女命に持ってきた。これによって順番は逆になる。11世孫(崇神天皇)の妹の日女命とされる稚日女命・倭姫命は本来9世孫(孝元天皇)の妹の日女命亦の名は倭迹迹日百襲媛命である。
 鳥羽市国崎町字鎧崎にある海士潜女神社の由緒には、「倭姫命にアワビを献上したと伝えられている伝説の海女(お弁)は海女の元祖ともいわれ、年初めの漁が始まる前に海女たちは必ずここを訪れ、一年の無事と大漁を祈願する」とある。
 志摩国でアワビを献上された姫は一人と思われるから倭姫命(倭姫命世紀)と稚日女尊(全国の神社の祭神)は同一人物だということが判る。
 加布良古崎の伊射波神社の祭神は最初は稚日女尊一神だけであった。稚日女尊は加布良古崎の伊射波神社の地に一人で居り、伊佐波登美命が飲食を給し、辞を伝え居処に出入していた。王となりしより、見たことのある者は少なかった(魏志倭人伝)。
 

倭姫が最初に天照大神を祀った神社は磯部の伊雑宮であり、外宮は月読が祀られていた

2018-07-27 08:21:22 | 邪馬台国・卑弥呼

 ある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。

 『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによると、「伊雑宮こそ天照大神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたっては邇邇芸命を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる」とする。

 (地元の伝承) 「形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない」とある。
 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。

※ 私見
 蒜山の長田神社に、鉾を持った兵を先頭に白い馬に乗った女性を中心にした隊列の絵が描かれている。彼女こそ倭姫命(卑弥呼)であり、その後、倭建命と共に鳥取県中部(倭国)に降りたち倭国を取り返した。倭国平定後、但馬・因幡から来た孝霊天皇たちと合流した。倭建命の伝承は蒜山から降りた関金町に残っている。
 倭姫命は崇神天皇と話し合い、全国を巡行し宗教を神道に改めさせて神道の社を創り平定していった。弥生時代後期のことである。崇神天皇は倭国(都)を隠す意味もあり、岡山県津山市の中山神社に常駐した。全国の代表者を集めての祭祀は東国の代表者の便宜を図って、奈良の纒向ですることにした。
 白い馬の風習はもともと磯部の伊雑神社にあり、倭姫命(卑弥呼)は伊雑神社の地に留まった。倭姫命は稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とし、ここから奈良の纒向での祭祀に出かけた。奈良にも平定はしたが青銅器文化の一族(銅鐸の主要な製造地であった唐古・鍵遺跡など)は多くいたし、倭姫命(卑弥呼)の安全を考えての居所の選定であった。
 
2 現在の伊勢神宮の創建年
 この看板のとおりだとすると、第一回目の式年遷宮は793年に行われたことになる。その時に20年ごとに改修しなければ、傷みがひどくなるという結論に達した。ということは、少なくとも最初に建てたときよりも20年は経っていたということである。773年より古いと思われるが、それよりも20年も古いとは思われない。いくら古くとも753年くらいではないだろうか。今の規模の伊勢神宮を造ったのは753年よりふるくはないと思われる。今の規模の伊勢神宮は持統が亡くなってから造られたと思われる。持統が勅賜門を千田寺に造ったときに小さな伊勢神宮のもとを造ったかどうかはわからない。倭姫命世紀の伊勢神宮をこの時に造ったという部分は改ざんして後に付け加えたものである。
 千田寺は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)が建てたが、放火による火事にあった。
 
3 「倭姫命世記」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記したものであった。はじめは、纒向から隠れた宇陀や伊賀も候補地であったが、敵対していた唐古・鍵遺跡(出雲神族である準王一族)などに近すぎて安全ではなく、巡行を続けて最終的な居所は志摩国に定めた。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、先に倭姫命、次に豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
 倭姫命は孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫命は垂仁天皇の皇女であった。国史を改ざんし、倭姫命を垂仁天皇の皇女とし、豊鋤入姫命を崇神天皇の皇女としたのは藤原氏である。全国を平定した倭姫命の居た志摩国(邪馬台国)を封印するために伊勢国・伊勢神宮を創らなければならなかったからである。伊勢国・伊勢神宮を創ったのは藤原氏だから、奈良時代より古くはない。倭姫命は151年に生まれ248年に没している。
 「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が創建したものなので、奈良時代後半以降に創建されており、倭姫命(151年~248年)の時代には存在しなかった。「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は中世に京都の藤原氏が改ざん・加筆したものである。

「邪馬台国は三重県にあった」を読んでの感想

2018-07-26 17:03:35 | 邪馬台国・卑弥呼


 旅行中、志摩市にいるときに、「邪馬台国は三重県にあった」直井裕著という本を知り読んでみました。
 邪馬台国は三重県にあった理由として以下の理由をあげておられる。青玉は蛍石であり三重県で取れる。真珠もとれる。丹(辰砂)や水銀も取れる。海辺の国でありサメ避けの入れ墨をしている。冬でも野菜が採れる。伊勢市の遺跡は弥生時代後期になって急に増えている。距離方角も上げておられるが、私にはよくわかりませんので割愛します。卑弥呼は伊勢神宮の近くにいたのではないか、としておられる。狗奴国の狗は犬であり、愛知県には犬を一緒に埋葬している墳墓が多く見つかることと、抜歯の仕方より、狗奴国は愛知県にあった、としておられる。邪馬台国三重県説はこの方以外に知らない。
 私は日女命(卑弥呼)がいるべきところにすべて稚日女命がいたので、これは神社の祭神の日女命が稚を付けられ稚日女命に改ざんされているということに気づいて、稚日女命を祀る神社の由緒を調べていくうちに神戸の生田神社と鳥羽の伊射波神社に行きついたので、詳しく調べているうちに、邪馬台国は志摩国にあったという結論になりました。
 第三章の「邪馬台国のロマンを探る」特に「古代の国にタイムスリップ」の部分は空想科学小説のようでもあり、「不思議なコーヒーショップのモカの味わい」にしても、芥川龍之介の「河童」をほうふつとさせるものであり、買って損したとは思わなかった。卑弥呼は徐福の子孫である、というくだりになると、誰も信じないだろうと思いながら、やはりそうかもしれないという思いもある。魏志倭人伝の鬼道とは道教である、としておられるがそれ以外は直観であろう。
 私の理由はいくつかあります。徐福も天照大神も蒜山高原(東海の三神山の一つの瀛州山の瀛州)にいたということと、徐福は始皇帝に言われていた「三神山に留まり王となれ」という言葉を守り三神山で王となった。王とは同じ高天原(蒜山高原)にいた天照大神と思われる。天照大神は男性であり徐福である。卑弥呼は第七代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命であり、天照大神の子孫である。徐福は道教の方士である。卑弥呼も民衆を鬼道(道教)でまどわした。
 卑弥呼は120歳まで生きたとか、狗奴国の王と結婚していた、とかについては理由が示されておらず、なるほどとはならなかった。


千田の御池の説明板より

2018-07-26 16:40:14 | 邪馬台国・卑弥呼


1 「大歳の神前へ真鶴が稲穂をふくみ来て落としたので、倭姫命がその稲の美しいのをご覧になり千田の神池に種つぎされて、その秋は垂穂・八握穂にたれて、はなはだ見事であった。それで日本国中へその種をわかち弘められた。それから米穀が豊かに実った。諸国の神社・八百万の神たちに神酒をつくり、ご供をおそなえられることの始となった。人々の日々に用う粮米もみなこの神のおかげである。
 その後聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ『わたくしその地を遊覧しよう』と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである。
 持統天皇この地に行幸あり、数日みこしを留めさせられ、勅賜門を建てられた。毎年元日の朝から七日までこの門を開き、人々はお詣りをして、神池の霊水をいただき、太子のお影を拝むことが故実となっていた。のちに、堂宇は雨露のため破れ、御影を仮殿に安置して再建しようとしたが、かなわなかった。思うに、太子は神仏両道を興隆し万民の家業を教えられたのである。神者仏者・士農工商いづれか太子の報恩を知らないでいられようか』とある。
  文政十三年寅正月    志州磯部宮本無量山 願主千田寺


2 私見
(1) 勅賜門がなぜ建てられたかを考えてみると、千田寺の前に建てたようである。それを建てるまでは、千田寺に自由に出入り出来ていたようである。太子自ら三歳の姿を彫刻した像のある、太子の建てた千田寺を封印するためである。
 倭国を乗っ取った亡命百済王朝によって作られた日本書紀には「壬申の乱」とあるが、これは倭国天皇家による亡命百済王朝(日本)に対する平定であった。倭国天皇家は過去幾度も蝦夷の反乱などに対して平定してきたが、いわゆる「壬申の乱」もその一つであった。日本書紀はこのように改ざんされているため、壬申の乱のルートも改ざんされている。壬申の乱は伊雑宮・千田寺を経由していたはずである。原古事記には書いてあったが日本書紀では削除している。壬申の乱の時に、持統と不比等は天武天皇と一緒にここも訪れたと思われる。千田寺の存在を持統と不比等が知ったのはこの時と思われる。
 天武天皇から「私は天照大御神の子孫である」と言われた。その時はまだ現在の伊勢神宮はなかった。持統は不比等から天武天皇を毒殺するように頼まれていた。持統は天武天皇を毒殺してから、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の崇りを封印するために不比等の依頼で勅賜門を建てた。1年に7日しか拝観できないような寺はやがて衰退するのは分かりきったことである。
(2) 天智は百済の官僚機構の左大臣右大臣制度を導入したが、天武天皇はこの制度を廃止し以前の官僚制度に戻した。しかし、持統は天武天皇が廃止した百済のこの官僚機構(左大臣右大臣制度)を再び復活させたという説がある。日本書紀を読むとこのように思われるのだが、660年より倭王朝と百済王朝が列島に並立していて、日本書紀は百済王朝の歴史を基本としているが倭国の有力な天皇を挿入している、と考えれば倭国には大臣制度がなかったのであるから何もおかしくはない。天武天皇の父の聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は鳥取県中部(倭国)で10人の住民の陳情を直接聞いている。
(3) 倭姫命(卑弥呼)は聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の先祖であり同郷である。
 卑弥呼は師木(鳥取県湯梨浜町宮内)の出身であり、蘇我氏は葛城(鳥取県北栄町の蜘ヶ家山から西)が出身母体である。どちらも鳥取県中部である。天武天皇は聖徳太子(倭州天皇=蘇我入鹿天皇であり皇居は由良宮にあった)の子であり北栄町由良の出身であり、倉吉市の賀茂神社に皇居を置いた。聖徳太子も天武天皇も卑弥呼(倭姫命)の子孫であった。


卑弥呼(稚日女=夜麻登登母母曽毘売)は七才まで鳥取県湯梨浜町宮内にいた

2018-07-26 10:52:23 | 邪馬台国・卑弥呼
1  鳥羽市安楽島町加布良古崎と鳥取県湯梨浜町宮内とは共通点がある。
 どちらも、海あるいは大きな汽水池に面していて、高台になっていることである。目の前の海あるいは池からは海産物やシジミなどの魚介類がとれる。伊射波神社の海抜は80mくらいで、宮内第一遺跡のあたりは50mくらいである。どちらもすぐ下が急な崖になって海あるいは汽水池に面している。
 卑弥呼は七才まで湯梨浜町宮内で過ごしたから、同じような環境のところを終の棲家とした。東郷池は水面が今より高く、東郷池と海との出入り口も広かったため、海の魚介類も入って来ていた。
 湯梨浜町宮内と安楽島町加布良古崎と違うのは、安楽島町加布良古崎のほうが気候が温暖であるところである。卑弥呼は幼少期を過ごした湯梨浜町宮内と環境の良く似たところを終の棲家とした。
 
2  伊射波神社の下の鳥居の海辺は船着き場であった。

 伊射波神社の下の鳥居。船をこちらに着け、ここから左の急な坂を上がって海産物を届けた。伊射波登美や海女も船をここに着けた。

 宮内集落の空撮。第1遺跡の下に船着き場が確認できる。

 船着き場であった。当時は水面が2m~3m高かったから、新羅から来た大きな船でも接岸できた。

 御冠山。下が宮内集落。その下が船着き場である。
 宮内の下は船着き場であった。水産物はここからあげていた。卑弥呼はここから船で長瀬高浜に巫女になる修行に行っていた。大陸(新羅)からの船もこちらに着船した。
 藤津は宮内から来るものや宮内に行くものを監視するために藤原氏が作った集落と思われる。百済(藤)津である。
 倭文神社の宮司は藤津に住んでいる。

3  藤原氏が作った岩のモニュメント
 
4  私見
 倭文神社の祭神を書換え、藤津をつくり、下照姫ゆかりの岩のモニュメントをつくり、下照姫の伝承を全面に強くだしたのは、藤原氏と思われる。宮内(黒田庵戸宮)に孝霊天皇や夜麻登登母母曽毘売(卑弥呼)がいたことを消すためであった。国宝の経塚もあるが平安時代に京都の藤原氏が埋納したものである。「祭神を変えてしまったが、祟らないでください」と経塚を作った。倉吉市志津にいた下照姫の伝承を創作して孝霊天皇一族のいた神社を強奪した。
 

いざわ神社(安楽島)に行ってきました

2018-07-26 10:22:32 | 邪馬台国・卑弥呼

 三重県鳥羽市安楽島集落です。伊射波神社に行くにはここから徒歩で岬を1.2km上がって行かなければなりません。
 ここを通ってからまた上がってください、と表示がある。前は伊勢湾である。
 やっと伊射波神社に到着しました。眼下に伊勢湾が広がる。ここで海抜100mくらいであろうか。
 伊射波神社本殿
 魏志倭人伝によると宮室と楼観があったそうである。楼観は高いという修飾語がついていないから普通の高さ7mくらいであろう。長瀬高浜の25mにもなろうという高い建物ではない。長瀬高浜の建物はやはり特別な高さで大国主のために建てられた出雲大社のモデルであろう。楼観跡はあちこちの遺跡で見つかっており、普通は7~8mの高さであった。まだ発掘はされていないが、背後から敵が来る恐れもあるので、楼観があったものと思われる。背後に点々と見張りを置いておくだけでよいから、地形を利用した要害の地である。

「倭姫命世記」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録であった

2018-07-26 05:27:01 | 邪馬台国・卑弥呼

​1 「倭姫命世記」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録であった。はじめは、纒向から近い宇陀や伊賀も候補地であったが、敵対していた唐古・鍵遺跡(出雲神族である準王一族)などに近すぎて安全ではなく、巡行を続けて最終的な居所は志摩国に定めた。
 「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が創建したものなので、奈良時代後半以降に創建されており、倭姫命(151年~248年)の時代には存在しなかった。「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は鎌倉時代に京都の藤原氏が繋ぎ合わせ・改ざん・加筆したものである。
 藤原氏の作った日本書紀は原「倭姫命世記」を書換えている。「倭姫命世記」は藤原氏の手法からすれば、宮下文書におけるがごとくまず基本となる文書があり、それに自分たちの目的に合うように改ざんしていくということである。宮下文書は徐福が書いた原文があり、それを高天原は蒜山ではなく、富士山にあったと思わせるように書き換えていく、という手法である。
 これを「倭姫命世記」に当てはめるならば、卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録を基本とし、伊勢神宮の祭神である天照大神がどうして祀られるようになったか(天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行)ということを主眼に変えて書かれている。「一書に曰く」があるので、これも藤原氏が書いたものである。巡行の最後に志摩国に神界を定めるのであるが、その時に連れて歩いた天照大神は志摩の磯部の伊雑宮に祀った。これが伊勢神宮の本家である。現在の伊勢神宮も卑弥呼の巡行の頃に創建されたように書いているが、実際には倭国を乗っ取って(734年)から、奈良時代後期に創建したものと思われる。日本書紀と同じように、古く見せるという手法である。

2 内藤湖南は「豊鋤入姫命→倭姫命とする国史は正しくて卑弥呼→台与とする倭人伝は誤り」とする。私見では「卑弥呼→台与とする倭人伝は正しくて、豊鋤入姫命→倭姫命とする国史は誤り」となる。
 日本(百済)は倭国を乗っ取っているから倭国の歴史を改ざんする動機がある。全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するため、藤原氏によって伊勢国・伊勢神宮は創られた。伊勢神宮は多くの八百万の神を集めたテーマパークである。藤原氏だから奈良時代以前ではない。伊勢神宮は奈良時代後半に造られている。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするためには、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命→倭姫命としなければならなかった。目的も時代も違う巡行を「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするために、整合性を図って順序を逆にしなければならなかった。
 中国には改ざんする動機がない。国史より倭人伝のほうが正しいとして解釈すべきである。藤原氏の支配していた戦前では、「日本は倭国を乗っ取った」という前提は出せなかった。倭姫命は卑弥呼であり248年には亡くなっているから、全国を統一した卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために奈良時代後半に藤原氏によって創られた伊勢神宮はまだできておらず、倭姫命世記に書かれている伊勢神宮は藤原氏が中世になって書き加えた出鱈目である。伊勢神宮は今も藤原氏(鷹司)が頂点にいる。この時代は卑弥呼(倭姫命)の創った磯部の伊雑宮しかなかった。倭姫命はその頃なかった伊勢国に引き返してはいない。安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(日女命=日皇女)に名を変えて生涯を終えた。
 
倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、​倭姫命が亡くなって倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。豊鋤入姫命はその誅殺し合っていた地域を巡行した。倭姫命が女王になるまで都は鳥取県中部にあったから、豊鋤入姫命(台与)が誅殺し合っていた地域を平定するために巡行した6ヶ所は倭姫命が志摩国を都にするまで都であった鳥取県中部やその周辺である。​

 順番は倭姫命(卑弥呼)の全国の平定に準ずる巡行が先であり、豊鋤入姫命(台与)の誅殺し合っていた地域を平定するための巡行が後であった。

 卑弥呼の墓は箸墓古墳ではなく、径70m余りで鉄剣と土器も出土している安楽島町の松の鼻古墳(姫小松=稚日女命)と思われる。
 鳥取県中部(倭国)で弥生時代後期からの多くの古墳(ほとんど円墳)で発掘されている剣は例外なく鉄剣である。卑弥呼は7歳まで鳥取県湯梨浜町宮内の黒田庵戸宮(倭文神社)で育った。父親の不祥事(出雲神族の誤解)で但馬に疎開し、一年後さらに讃岐に疎開した

3 倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と倭建命(若日子建吉備津日子命)は全国と半島を巡行してから、倭建命(若日子建吉備津日子命)と御真木入彦命(大吉備津日子命)は豊田市の猿投神社(開化天皇と崇神天皇)に居り、倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は神戸の布引(旧生田神社)にいた。倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は倭建命が亡くなった時は、まだ神戸の布引(旧生田神社)にいた。倭建命(開化天皇)が亡くなってから即位した崇神天皇(御真木入彦命)は鳥取県北栄町の下神(しもつみわ)集落の神浅茅原に全国の代表者を集めて倭迹迹日百襲姫命に祭祀をさせた。この時、崇神天皇は愛知県の猿投神社を本拠地とし、倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は神戸の布引(旧生田神社)にいた。しかし、東国から鳥取県中部まで来ることは大変であることが判り、奈良の纒向で全国の代表者を集めて祭祀をすることにした。しかし、奈良は平定したとはいえ青銅器文化の一族(出雲神族)が多くいた。1世紀には倭王朝に従って絵画土器を作っていたが、唐古・鍵遺跡や清水風遺跡などにいた一族はそれまで銅鐸を作っていた。青銅器文化の一族(出雲神族)は反乱することがあったので、崇神天皇をはじめとする倭王朝と卑弥呼は卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。それが、志摩国であった。
 纏向遺跡よりアワビの貝殻が多く見つかっているという(世界ふしぎ発見より)。稚日女命にアワビを献上してからさらにアワビを献上した都の「朝廷」とは奈良の纒向にあった朝廷であった。稚日女命(倭姫命)は纏向遺跡と同時代の姫と思われる。多くの魚介類の中でアワビが好物の姫は多くないと思われる。倭姫命もアワビが好物であった。これは偶然ではなく稚日女命と倭姫命が同一姫であったからと思われる。海女の祖お弁が倭姫命にアワビを奉納した(海士潜女神社)のだから、魏志倭人伝の千人の采女は海女たちに重なり(千人の采女は海女になった)、卑弥呼は倭姫命(稚日女命)に重なる。
 稚日女命(倭姫命)は志摩国から吉野町宮滝経由で纒向まで行き、面をして祭祀をし、帰りは和歌山の玉津島神社から海流に乗って何日も掛けて安楽島町の伊射波神社まで帰った。女王となりしより見たものは少なかった。その頃、崇神天皇(大碓命)は皇居(鳥取県湯梨浜町長和田)と奈良の纒向との間の岡山県津山の中山神社(御真木)にいた。ここにも、猿の伝承が残る。


邪馬台国(女王国)は志摩国であり、倭姫命は卑弥呼である

2018-07-25 15:37:26 | 邪馬台国・卑弥呼
1  魏志倭人伝の女王国より「以北」21ヶ国
 女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶で、詳細を得ることができない。
 1.斯馬國(志摩国)。2.己百支國。3.伊邪國。4.郡支國。5.彌奴國。6.好古都國。7.不呼國。8.姐奴國。9.対蘇國。10.蘇奴國。11.呼邑國。12.華奴蘇奴國。13.鬼國。14.為吾國。15.鬼奴國。16邪馬國。17.躬臣國。18.巴利國。19.支惟國。20.烏奴國。21.奴國。此れ女王の境界の尽きる所なり。
※私見
 女王国より「以北」21ヶ国だから、最初に書いてある斯馬國(志摩国)が女王国であり邪馬台国である。

2 「倭姫命世記」について
(1)倭姫命(卑弥呼)
1.大和国・宇多秋宮    (阿紀神社=奈良県宇陀郡大宇陀町)
2.大和国・佐々波多宮   (篠畑神社=奈良県宇陀郡榛原町)
3.伊賀国・市守宮     (宇流冨志禰神社=三重県名張市)
4.伊賀国・穴穂宮     (神戸神社=三重県上野市上神戸)
5.伊賀国・敢都美恵宮   (都美恵神社=三重県阿山郡伊賀町)
6.淡海国・甲可日雲宮   (頓宮=滋賀県甲賀郡内)
7.淡海国・坂田宮     (同=滋賀県坂田郡近江町)
8.美濃国・伊久良河宮   (天神神社=岐阜県本巣郡巣南町)
9.尾張国・中嶋宮     (酒見神社=愛知県一宮市今伊勢町)
10.  三河国渥美宮       (?)
11.  遠江国浜名宮       (?)
12.伊勢国・桑名野代宮   (野志里神社=三重県桑名郡多度町)
13.鈴鹿国・奈具波志忍山宮 (布気皇館太神社=三重県亀山市布気町)
14.伊勢国・阿佐加藤方片樋宮 (加良比乃神社=三重県津市藤方森目)
15.伊勢国・飯野高宮    (神山神社=松阪市山添町)
16.伊勢国・佐々牟江宮   (竹佐々夫江神社=三重県多気郡明和町)
17.伊勢国・伊蘓宮     (磯神社=伊勢市磯町)
18.伊勢国・大河之瀧原宮   (同=三重県度会郡大宮町)
19.  久求小野宮        (?)
20.伊勢国・矢田宮     (同=伊勢市楠部町)
21.伊勢国・家田田上宮   (神宮神田=伊勢市楠部町)
22.伊勢国・奈尾之根宮   (津長神社=伊勢市宇治)
23.  伊勢国 渡会宮      (?)
24.伊勢国・五十鈴宮     (?)
25.志摩国・伊雑宮     (同=三重県志摩郡磯部町)
(2)豊鋤入姫命(台与)
1.大倭国・笠縫邑     (檜原神社=桜井市三輪?)
2.但波乃・吉佐宮     (籠神社=京都府宮津市字大垣?)
3.大倭国・伊豆加志本宮  (与喜天神宮=桜井市初瀬字与喜山?)
4.木乃国・奈久佐浜宮   (日前、国懸神宮=和歌山市秋月?)
5.吉備国・名方浜宮    (伊勢神社=岡山市番町?)
6.大倭国・彌和乃御室嶺の上(山側)の宮 (大神神社=桜井市三輪?)
 倭姫命(卑弥呼)には、安倍、大伴、物部、中臣、和珥(わに)氏など五人の有力将軍が随伴していた(倭姫命世記)。天照大神を戴くヤマト軍が侵攻してきたとき、その国の人々は、ヤマトの支配に従うか、それとも戦うかの選択を迫られた。
 大神は国名を問いかけた。国名を問われることは、帰順の諾否を尋ねられることであった。大神の問いかけに対し、国の長は従順に返答し、自分の国を差し出していった。「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女の貢上、地口や御田、物品の進上などが列挙されている。
 「倭姫命世記」に倭姫(卑弥呼)が嶋(志摩)の国を巡行した折に「神堺を定めたまひき」とある。それは倭姫(卑弥呼)による志摩国の領有、王権の支配拡張を意味する。
 
※私見
 倭姫命が最後に至ったところが志摩国であり、そこに神堺を定めた。志摩国が倭姫命(卑弥呼)の邪馬台国である。
 倭姫命は全国と半島を平定した。ただ、この時は、祭祀場を大和国(奈良)の纒向に決めたが、倭姫命の「安全な居所を探すための」巡行(21国)であった。全国の平定も「倭姫命世記」と同じやり方の巡行であったと思われる。
 現在、鳥取県東伯郡琴浦町に「笠見」集落がある。「笠見」という地名は全国でも少ない。ヤフー地図で検索すると真っ先に鳥取県琴浦町「笠見」がヒットする。「高城史」では立見は「楯検」であり楯を検査するところとする。同じく笠見は「笠検」であり笠を検査するところと思われる。倉吉市高城地区の立見と同じく、笠を縫う所もこの近くにあったはずである。すぐ隣の八橋が笠縫邑ではないかと思われる。八橋の地名由来は「八岐大蛇の恨みで加勢蛇川に8つの橋が架かったから八橋という」とするが、それは加勢蛇川周辺のことであって、上伊勢・下伊勢・浦安・徳万・保・丸尾などの集落を飛越えて、笠見の北に八橋の地名が来るのは不自然である。琴浦町八橋は古代「笠縫邑」であったと思われる。倭姫命世記にある豊鋤入姫命の巡行をスタートした大倭国の「笠縫邑」とは鳥取県中部の琴浦町八橋であった。
​ 倭姫命が亡くなって倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。豊鋤入姫命はその誅殺し合っていた地域を巡行した。倭姫命が女王になるまで都は鳥取県中部にあったから、豊鋤入姫命(台与)が誅殺し合っていた地域を平定するために巡行した6ヶ所は倭姫命が志摩国を都にするまで都であった鳥取県中部やその周辺である。​
 順番は倭姫命(卑弥呼)の全国の平定に準ずる巡行が先であり、豊鋤入姫命(台与)の誅殺し合っていた地域を平定するための巡行が後であった。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。原本にあった安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行のあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
 倭姫命は孝元天皇の妹であり、豊鋤入姫命は景行天皇の妹であった。国史を改ざんしたのは藤原氏である。全国を平定した倭姫命の居た志摩国(邪馬台国)を封印するために伊勢国・伊勢神宮を創らなければならなかったからである。伊勢国・伊勢神宮を創ったのは藤原氏だから、奈良時代より古くはない。倭姫命は151年に生まれ248年に没している。 
 安楽島町と伊射波神社との間には径100歩余り(現代人の平均身長は170cmくらいでありその一歩は70cmくらいだから70mあまりとなる)の前方後円墳も存在する。

3 魏志倭人伝に見る「千人の婢」について
 「魏志倭人伝」には、「以婢千人自侍」(女王は自ら千人にも及ぶ婢を侍らせ)とあり、「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女(うねめ)の貢上が書かれている。千人という数字をそのまま真に受けることはできないが、100国(121国はあったはず)から10人づつの釆女(うねめ)の貢上があれば千人の婢となる。この釆女なり婢がどういう立場にあるのかは、人質というような解釈もあるが、鬼(出雲神族)たちに捕らえられていた少女たちではないだろうか。卑弥呼(倭姫命や稚日女命)に対して感謝の念を持っていた(アワビの献上など)。
 海女の祖お弁は倭姫命にアワビを献上した(海士潜女神社)。稚日女命にもアワビが献上されている(伊射波神社)。伊勢志摩の海女は「魏志倭人伝の千人の采女」と重なり、倭姫命や稚日女命は「魏志倭人伝の卑弥呼」と重なる。千人の采女が志摩国で海産物を採り、海女になったと思われる。そして、アワビを卑弥呼(倭姫命や稚日女命)に献上した。
 現在の伊勢志摩の海女の起源は魏志倭人伝の「千人の采女」であった。倭姫命(卑弥呼)は千人の海女(千人の釆女)の祖お弁にアワビを献上された。纏向遺跡でアワビの殻が多く見つかっている。倭姫命や稚日女命は纒向遺跡の時代の姫であった。

魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の都の一番の候補地は志摩国の伊射波神社周辺である

2018-07-25 15:08:49 | 邪馬台国・卑弥呼

―伊射波神社パンフレットから-
志摩国一宮 伊射波神社 (いさわじんじゃ)   通称 かぶらこさん
〔鎮座地〕  三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔社格〕  旧無格社 志摩国答志郡の式内社・粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
〔御祭神〕  稚日女尊(わかひめのみこと)
       伊佐波登美尊(いさわとみのみこと)
       玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
       狭依姫命(さよりひめのみこと)
〔御由緒〕 天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたとされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
 御祭神について
 伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられています。後、大歳神と号された尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。
 玉柱屋姫命は『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)の重臣で水の神として崇敬された天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)の裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の娘と記されています。
 大二座のもう一座は、稚日女尊を祀る加布良古崎の伊射披神社。霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するいう別格の扱いを受けていました。「加布良古の外峯(とみね)に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし。加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。加布良古の大明神に、遊びの上分(じょうぶん)参らする請玉(うけたま)の宝殿(たからのみやから)」 これは今から461年前書き写された「外宮摂末社神楽歌」の最後の方の一節です。古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行なわれ、その様子を歌ったものです。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」というものです。この神楽歌から、古代伊勢神宮とは浅からぬ関係にあったことが推測されます。『神宮紀(じんぐうき)』によれば、「尾田(おだ)(加布良古の古名)の吾田節(あごとうし)(後の答志郡)の淡郡(あわのこうり)(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります。稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
 狭依姫命は、宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名で、厳島神社のご祭神でもあります。安楽島では、粟嶋と呼称されていたころ、神乎多乃御子神社(小一座)のご祭神として、加布良古崎の前海にあたる長藻地(海図では長藻瀬とある)という島嶼(とうしょ)にお祭りされていましたが、戦国の世地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています。


※ 私見
(1) 「伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し」とあるが、第十一代垂仁天皇ではなく第七代孝霊天皇であり、伊勢国内宮ではなく志摩国伊雑宮であった。倭姫命は伊勢国に帰っていない。伊勢国ができたのは奈良時代以降である。倭姫命は纏向遺跡と同時代の姫である。藤原氏は2か所改ざんしている。伊佐波登美はイザワ地域にいたトミ(出雲神族=鬼)であった。卑弥呼も役行者と同じく鬼神を使役した。
(2) 古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げるアワビを採る神事が行なわれていました。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」と歌にも詠まれています。
(3) 纏向遺跡よりアワビの殻が多く出土した。このことより由緒にある都・朝廷とは奈良の纒向に造られた朝廷と思われる。稚日女命は纒向と同時代の姫と思われる。稚日女命は倭姫命(倭迹迹日百襲姫)でもあるから全国の代表者を集めての纒向での祭祀は稚日女命がしていたと思われる。
(4) 稚日女命(倭姫命)は身の安全のため吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で海流に乗って紀伊半島を廻り伊射波神社まで帰った。これは追いかける者がいても途中で追手を撒くためであった。